第6話 小さい頃の話


 これは、私が小さい頃体験したお話である。

 


 私は幼稚園〜小学校低学年まで少し遠くのプール教室に通っていたことがある。というのも、小児喘息持ちで体力作りを進められたことが原因だった。私が住んでいる街にはプール施設がなかったので母は忙しい中隣町まで私を送り迎えしてくれていた。

 私は、プール教室に行くのが嫌いだった。


「おかあさん、今日もあの道通らなきゃダメ?」

「そうねぇ、通らなきゃダメねぇ」


 プールの授業を終えて、車に乗り込んだ私は助手席のシートベルトを母に閉めてもらった。足元に置いたプールバッグからはプールの匂いが漂っている。プール自体は楽しいのに、無理やり乾かした髪はガビガビになるしこの独特な匂いがちょっと苦手な私は顔を歪める。

 けれど、それ以上に嫌だったのは「あの道」だ。

 プールがある場所から大通りに出るまでの一本道の農道のような道路でぽつんぽつんとアパートが建っているくらいで寂しい雰囲気を漂わせていた。


「大丈夫、お母さんがいるでしょう」

「うん。わかった」


 車はゆっくりと走り出した。

 プールの授業は月水金日の週4日通っていて、帰りは20時を過ぎるから辺りは仄暗くなっている。

 プールの大きな駐車場を出ると、例の道へと続く道路へと出る。街灯はぽつんぽつんと建っていて、車のヘッドライドが明るく道を照らす。

 あの道へ入ると、アスファルトの舗装が悪くガタガタと揺れる。


「ジェットコースターだと思えば平気よ」

 

 私はシートベルトに捕まってぎゅっと体を縮める。母にはただの砂利に見えているらしいそれは、大量のネズミだった。黒っぽい胴体とピンク色の尻尾が大量に道路に敷き詰められている。

 私は昨日までの景色とはあまりにも違っていて呆然としたのを覚えている。昨日まで、私がこの道が嫌いだったのは「大量の虫」が道にうようよと蠢いていて、それを車で潰して通らなければならないから嫌いだったのだ。

 その虫は黒っぽい色で大きさはカブトムシくらい。車が来ても逃げもせずただブチブチバリバリと潰されるのだ。

「いやだ! お母さん! 怖い!」

「大丈夫、大丈夫」

「大丈夫じゃない!」

 母はCDのボリュームを上げる。そして車は前進を続ける。ガタガタゴロゴロと車を伝ってくる感触に私は恐怖しかなかった。ときおり、ネズミの断末魔のようなピーとかギャーみたいな声も聞こえてくる気がして、ぎゅっと耳を塞いだ。

「Sは怖がりねぇ。大丈夫よ、いい子にしていたら幽霊さんはこないからね」



 無事、家に着く頃には私は車の中で眠ってしまっていて母に抱っこされてリビングのソファーで目を覚ました。暖かい家の香りと母の作る甘辛い料理の香り。目を擦ってみると、父も帰ってきていて「起きたか」と優しく声をかけてくれた。

「あら、じゃあお母さんとお風呂入ろうか」

「うん」

「じゃあ、あなた自分で盛り付けしておいてくれる?」

「ごゆっくり」

 私はネズミを踏み潰してしまった罪悪感は「もしかしたら夢だったんじゃないか」とその時に思った。


 けれど、その週から道に蠢くのが虫ではなくネズミに変わったのだ。


 2週間後、私はまたプールの授業を受けにきていた。子供プールの授業ではシャワーの後、温かいサウナ室に入って体を温めて親の待つ更衣室に戻ることになる。

 この時間になると私はあの道を通るのが嫌になってお腹がぐるぐると痛くなったり、緊張で喉がカラカラになったりしていた。更衣室で着替えて母に髪を乾かしてもらっているときなんかはもう気が気じゃない。車へと近づく一歩一歩が怖くて嫌でしかたがないのだ。

「今日はすごく泳げていたじゃない、S」

「うん、お母さん。今日もあの道通る?」

「本当にSはあそこが嫌いよね。けど、おうちに帰るためには仕方がないのよ。みんなだってそうでしょ?」

「そうだけど……みんなは、お母さんは怖くないのかなって」

「ふふふ、おばあちゃんの家の近くにはもっとぼこぼこがたがたでおっかないわよ」「そう……じゃなくて」

 車に乗り込んでシートベルトを閉めてもらう。暗い駐車場から続々と車が出て行って、私たちの車もそれに続く。

 虫の方が幾分かマシだった、ネズミになってからあの断末魔のような鳴き声がどうしても怖くて、嫌で恐ろしかった。

「ねぇお母さん。私プールやめたい」

「どうして?」

「だって、あの道走るの嫌だから」

「ガタガタするの怖いの?」

「ううん、だってだって……」

 ガタン。私がネズミについて言いかけた時、車が少し大きめに揺れた。あの道に入ったのだ。

 私は、幼いながらに伝えなきゃいけないと思って道路を指差していう。

「お母さん、だってね。だってね、道にいっぱいの……」

 つい一昨日は、黒いネズミがうじゃうじゃと密集していた道路、けれど今夜は違った。何かネズミよりも10倍ほど大きな何かが道に数十体近く横たわっていた。

「いっぱいの……? なぁにS?」

 横たわっていたのは猫の死骸だった。虫やネズミと違って動いていなかったのでよく見えなかったが、車のヘッドライトに照らされて、トラ模様の毛皮と尻尾が見えて横たわっているのが大小さまざまな猫だと理解した。そして、彼らがじっと動かないのは死んでいるからだとすぐにわかった。

「いやだ!!」

 悲鳴をあげて目を閉じて耳を塞ぐ私。車は前進を続ける。ガタンガタンと揺れる車に恐怖しながら私がそのまま眠ってしまった。

 それから、あの道に現れるのは「猫の死骸」に変わった。


 次のプールの日、私は授業後のサウナ室で同じ級だったお友達とたまたま近くになって話していた。彼女はUちゃんと言って隣町の学校に通うおとなしい女の子で、こうしてサウナ室の中で近くになるとお互いの情報交換をしたり、更衣室でも挨拶する中だった。

「ねぇUちゃん。Uちゃんってプールの駐車場を出たとき右に曲がる?」

「うん、曲がるよ」

「でさ、すぐのところの一本道わかる?」

 Uちゃんは少し考え込んでから

「あのガタガタぼこぼこの道?」

 と首を捻った。

「そうそう、電気も少ししかなくてガタガタぼこぼこしてるところ」

「通る通る、どうして?」

「あのさ……あの道、怖くなあい?」

 私を見てUちゃんは、ふっと笑うと

「確かにちょっと暗いよね。けど怖くないよ。どうして?」

 と言った。まるで私が怖がりみたいにそんなふうに彼女は笑った。

「だって、あの道さ。ネズミさんとか猫ちゃんとかいるじゃん」

「え? Sちゃん猫ちゃん嫌いなの? 私大好きだから今度会いたいな〜。あの道にいるなら会えるかなぁ?」

 笛がなって、サウナ室の入り口でコーチが私たちに出るように言った。Uちゃんは「暑かったね〜、更衣室まで一緒に行こ」と私の手を取った。彼女の笑顔を見て私はこの時やっと気がついたのだ。


——あの道で視えているネズミや猫は私にしか視えていないのかもしれない。


「S、お疲れ様。プール楽しかった?」

「うん、お母さん。聞いてもいい?」

「あの道のこと?」

「違うよ、猫ちゃんのこと」

「猫ちゃん?」

「うん、お母さん。Sの喘息が治ったら猫ちゃん飼いたいって言ってたよね?」

「そうねぇ。お母さんもお父さんも猫ちゃんが大好きだからねぇ。けど、いきなり猫ちゃんじゃなくてまずは小さいハムちゃんとかでもいいかなって思ってるよ」

「ハムちゃん?」

「そうそう、ハムスターっていう小さくてかわいいネズミさんよ」

 母は、私がプールに通い出す時に「喘息が治ったら猫ちゃんを飼いたい」と言っていた。そもそも彼女は動植物が大好きでお庭には綺麗な花がいつだって咲いていたし、虫だってできれば捕まえて逃すくらいの優しい母だ。

 だから、やっぱりあの道で車で踏み潰すなんてありえない、あれは、あれは私にしか視えていないものだったんだと確信した。

「うん……」

 私の反応を見てお母さんは少し寂しそうな顔をして、帰る準備を始めたのだった。


 その日もあの道に入るとガタガタと何かを踏むような感触が続き、私は恐怖に耐え気がついたら眠ってしまっていた。怖いものが視えた時はこうやってみないようにするのが一番だと幼いながらにわかっていたから。


 それから数年後、猫の死骸が大量に転がっている道に私はついに慣れてしまっていた。幼稚園生から小学生になり私自身も「幽霊」という存在を正しく認識し始めていたからかもしれない。

 この頃になると小児喘息もだいぶよくなって、プールに通っている目標も喘息を治すから平泳ぎまで覚えるというものに変わっていた。

「そうだ、S。今年の冬は喘息の発作がでなかったじゃない?」

 夜20時、あの道を通っていた。もう数年経っているのにアスファルトの舗装がガタガタで車は不愉快に揺れる。

 小学4年生にもなると、目を瞑らなくても怖くなくなっていたのでぼっと道に目を向けないようにしながら母の話に相槌を打つ。

「うん、今年は苦しくならなかったね」

「先生がいいっておっしゃったら……ハムちゃんか猫ちゃんどうかな?」

 最悪のタイミングだ。今、猫の話をされても正直嬉しい気持ちにはならない。猫は可愛いと思うし私も大好きだ。動物系TV番組なんかで猫のかわいい動画を見るのは好きだし、私だって飼ってみたいと思う。

 けど、この道に転がっている猫の死骸たちはどれもこれも苦しい死に方をしたのか悲惨なものばかりだ。そのせいで、もしも猫を飼ったとしても最後には最期の別れを想起してしまってとても前向きにはなれなかった。

「うーん、そうだね」

 私の反応の悪さに母は少しだけ寂しそうに「ゆっくり考えましょうね」と言ったので私は少しだけ罪悪感を感じた。

 とはいえ、週4日でこんな風景をみているのだ。ほら、今日だって……。

「……⁈」

 ヘッドライトに照らされているのはいつもの数十体ん猫の死骸ではなかった。それよりも大きな、明らかに大きな何かだった。

「お母さん! 止めて!」

 私が大声を出したから母親は急ブレーキを踏むと、バンッと前のめりになってシートベルトが胸に食い込んだ。

「どうしたの⁈」

「お母さん、お兄ちゃんが倒れてる!」

 私が指差す先には制服姿の男子中学生か高校生の姿があった。明らかに血の気のない顔で横たわり、四肢はぐったりと道路に投げ出されている。

 私の言葉に驚いた母は外に飛び出すとスマホのライトをつけて車の横、後ろ、下と探し回る。しかし、数分後に母は何事もなかったように車へ戻ってくると

「何もなかったわよ。もう、Sやめてよ。お母さん、心臓止まるかと思ったわ」

 と言った。けれど、私の目にはまだ目の前に倒れている男の子がうつっている。kとも動かず、それから目は白く濁っていてこちらをじっと見つめているようだった。

 あぁ、これは私にしか視えないものなんだ。と理解すると私は母に「ごめん

寝ぼけていたかも」と言って車が発進するのを待った。

 猫の死骸で感覚がすっかりバグってしまっていたけれど、さすがに人を轢くのは怖かった。ちょうど、男の子の上を車が通りすぎるとき、ガタンガタンと車が揺れた。母には聞こえていないかもしれないが、ブチュと肉が引き裂かれる音やバリバリッと骨が砕けるような派手な音がした。

 私は「これは幽霊だ」と心に言い聞かせるも、あまりの恐怖に目を閉じてあの道から出るのを必死で待った。


 家に着くと、タイヤに血がついていないのを確認して安心した。本当にあれは幽霊だったよかったと安堵して胸を撫で下ろす。

「あのね、ずっとあの道が怖かったの。お母さん」

 母はダイニングテーブルにお茶を出しつつ、私があまりにも真剣な雰囲気で話すので思わず料理をするのを後回しにして話を聞いてくれた。

「どうしたの? S」

「あのね、幼稚園の頃……あの道にびっしりとカブトムシみたいな虫がいて」

 それがネズミになったこと、それからしばらくして猫の死骸になったことを伝えると母は絶句した。

「気がついてあげられなくてごめんね」

 母は私を疑いもせずに抱き締めると、そっと頭を撫でてくれた。小学生ながらに私は「嘘だと思われる」とか「頭がおかしいと思われる」とかそんなふうに警戒していたが私の杞憂だったようで、母は私を責めることはしなかった。

「ずっと、猫ちゃんだったのにね。今日ね、お兄ちゃんになってたの」

「お兄ちゃん?」

「うん、中学生か……高校生だと思う。多分、死んでたと思う。猫ちゃんでもネズミでも嫌だったのに人になって……お母さん。私もうプールに行きたくない。耐えられない」

 母は、私の喘息が良くなっていたこともあったのかその日を境にプール教室をやめたさせてくれた。週4回のプール教室が無くなって、その代わりに学校の友人と遊ぶことが増えるようになった。

 あの事件以来、父も母も私にすごく優しくなって私もすごく嬉しかった。



 それから、数週間後。母は真っ青な顔で塾の準備をしていた私に声をかけたのだった。

「ねぇ、S。プール教室の帰り道で怖い思いをしたって言ってたわよね」

「うん、した」

「やめた日に道路に倒れていたお兄ちゃんってどんな服……着てた?」

「えっ、黒くて制服みたいな中学生か高校生みたいなそういう服だったと思う」

「そう……」

 母は何か納得したように頷いてからスマホをポケットにしまうと私をぎゅっと抱きしめた。

「S、信じてあげなくてごめんね。お母さんが間違ってたわ」



 のちにわかったことだが、あの道にポツンと経っている一軒家で1人の男が逮捕されたという。それは私がプールをやめた数週間後、男は1人の男子中学生を殺しその死体をバラバラにして遺棄したという罪だった。

 犯人の男は、虫などの小さい生き物から始めてネズミ、猫とどんどんエスカレートしついに人間を殺した。という典型的なサイコパス犯罪であった。

 何よりも私と母が一番恐怖したのが、男が猫を殺し始めた時期と期間がぴったり私があの道で猫の死骸を見ていた期間と同じだったことだ。


 それ以来、母は私が幽霊が視えるということを信じてくれている。







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