最後の数学ダージリン

父が数学教授で、休日にはよく勉強を教えてもらっていた。


ある日、数学の課題の解き方が分からなくてイライラしていると「紅茶はリラックス効果があるんだよ」と父がミルクたっぷりのダージリンティーを淹れてくれた。


生まれて初めて飲む紅茶の香りは確かに心を落ち着かせてくれて、問題を解きやすくなった気がした。父はそれ以来数学の勉強をするときはいつも紅茶を用意してくれるようになった。「数学ダージリンをどうぞ」と冗談めかして。


問題が解けるようになると勉強も楽しくなるもので、成績も伸びて目指していた大学に入ることができた。受験の直前の勉強会では「これが最後の数学ダージリンだね」と父が寂しそうに呟いた。


父のような数学教授になりたいと考えるようになっていた私が入った大学は、父が所属している大学だった。四回生になり父の研究室に入ると、喜んだ父は休憩のときに他の研究生たちも集めて紅茶を振る舞ってくれるようになった。「数学ダージリンをどうぞ」という父の口癖から、そのお茶会は数学ダージリン会と呼ばれるようになり、研究生たちにとって癒やしの時間となった。


父が定年を迎えて引退する前日まで数学ダージリン会は開かれた。「これが最後の数学ダージリンだね」と父がまた寂しそうに言った。


そうして一度は解散した数学ダージリン会なのだけど、1ヶ月後には研究生や教授が家に押し寄せ「あの癒やしの時間がないと生きていけない。月に一度で良いからお茶会を開いてほしい」と嘆願してきた。


そんなわけで数学ダージリン会は我が家に場所を移し、研究生だけでなく卒業生や教授も集まるにぎやかな会として続いていくのだった。


そんな父が亡くなった日には、会のメンバーが一人残らず集まり父の紅茶を淹れて「これが本当に最後の数学ダージリンになってしまうんだね」と寂しい気持ちを慰め合う…のだろうと思っていたのだけど。


父は120歳を超えても変わらず元気で、数学ダージリン会は今も毎月開催されている。メンバーは誰も欠けることなく、むしろ彼らの子や孫も加えて人数が増える一方だ。今日初めて参加したひ孫のカップに紅茶を淹れながら「数学も紅茶も老化防止に効くんだよ」なんて嬉しそうに言ってるけど、ちょっと効きすぎなんじゃないだろうか。


最後の数学ダージリンはまだ当分訪れそうにない。

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