第64話 二人きりの保健室で

「ん……」

 美桜がゆっくりとその瞼を開いたのは蓮が保健室に来てしばらく経った後だった。その間、蓮は美桜に手を握られたままじっと丸椅子に座っていたのだが、その時間は蓮にとって決して嫌なものではなかった。

「華賀さん、おはよう」

 蓮はすぐに美桜が起きたことに気づいた。

「……ぇ、……あま、かわ、くん?」

 声をかけられたことで、美桜の視線が蓮に向く。だが、寝不足からの数時間の睡眠でまだ頭が働かずぼんやりしているようだ。

「ああ」

「……あまかわくんだぁ」

 普段の美桜からは考えられない甘くゆったりした口調で、美桜はへにゃっと微笑む。そんな初めて見る美桜に蓮は驚きながらも表情を柔らかくした。

「ふふふ……」

 美桜が嬉しそうに笑う。

 ただどうも美桜の様子がおかしい。美桜は寝惚けた頭で、今が現実ではなく夢の中だと錯覚していた。なぜなら蓮が目の前にいて、こんな優しい表情を自分に向けてくれるなんてこと、ここ最近はなかったから。

 自分の願望がこの心地いい夢を見せているのだと思い込んでいた。

「どうした?」

 美桜が笑ったことに対して蓮が優しく尋ねる。

「あまかわくんがぁ、いてくれるのがうれしくてぇ。…げんじつだったら、いいのになぁって」

「っ、……現実、だよ」

 美桜の言葉に蓮の心はぎゅっと締め付けられる。ただ、今の美桜の言葉で美桜がまだ寝惚けているのだと蓮は理解した。だからこそ本心だということもわかってしまう訳で……。蓮はなんとか笑みを浮かべて言った。

「ふふっ、あまかわくんはぁ、こんなふうにわたしの手、を握った、り……?」

 しないのだからこれは夢だ、と続けようとしたのだろうか。だが、手の感触があまりにリアルで、微睡みの中にいたような美桜はみるみる目を大きくしていく。ようやく完全に目が覚めたようで、美桜の視線が握った手と蓮の顔を二往復する。

「っ!?天川君!?なんで?」

 ぱっと蓮の手を離した美桜はその流れで上体を起こす。

(夢じゃなかったの!?!?天川君はいつからここにいたの!?)

 美桜はパニックだ。蓮が目の前にいるということは寝顔を見られていたということか。そんなの恥ずかしすぎる。見る見るうちに美桜の顔が赤らんでいく。

「落ち着いて、華賀さん」

「だって。え?どうして?」

「とりあえず、おはよう、華賀さん」

 美桜の一連の動きに蓮は笑いを堪えながらもう一度そう言った。

「おはよう?」

「寝起きに驚かせちゃってごめんな?」

「~~~~~っ」

 やっぱり寝顔を見られてた。というか、どこからが現実だったのか。実は起きる直前の夢の中に蓮が出てきていたのだ。だからどこからが現実でどこまでが夢か曖昧だった。少なくとも蓮の手を握っていたのは現実で、けど、どうしてそんなことになっていたのかが全くわからない。蓮から握ってきたのか?だとしたらどうして?ぐるぐるとパニックになった頭に疑問が浮かぶ美桜。

「これ、もしよかったら」

 そう言って蓮が差し出したのは保健室に来る前に買ったレモンティーだった。

「あ、ありがとう」

 蓮の落ち着いた声が美桜を現実に戻す。そしてレモンティーを見たら、喉が渇いていることを自覚したためありがたく受け取る美桜。一口飲んで、ふぅっと深く息を吐く。少しだけ落ち着くことができた。


「……えっと、天川君がどうしてここに……?」

 言いながら美桜は考える。自分は保健室で寝ていた。視覚から入ってくる情報でもここが保健室だということは間違いない。というか、蓮は自分を避けていたはず。それに今日のことだって……。なのにどうして蓮がここにいるのか。混乱していた頭が落ち着いてきた美桜はそれらを思い出し、表情を曇らせた。

 美桜の表情が暗く沈んでしまったのを蓮は見逃さなかった。

「華賀さんに謝りたくて。それとちゃんと話したいって思って」

「え?」

「華賀さん、ごめん!謝って済むことじゃないけど、本当にごめん!」

「っ、……それは……、やっぱり天川君は……」

 蓮が謝ったことに深く傷ついたように美桜の表情が悲しげに歪む。

「違うんだ。あ、いや、もし昼休みのことを言ってるならそれは違うんだ。謝りたいのは華賀さんを避けてしまったことで。……話を、させてもらえないかな?」

 そんな美桜を見た蓮は慌てて訂正して、お願いした。

「話……?」

「ああ。色々な、本当に色々なことがわかったから。話をした上であらためて謝らせてほしい」

 そう言って頭を下げる蓮。

「……うん」

 美桜は何がどうなってるのか全くわからなかったが、頷いた。それは今の蓮が、美桜の目にはこれまでの蓮と同じに見えたから。加えて杏里が言った通り、眠ることができて、少し頭がすっきりしたのか、少しだけ前向きになれたことも大きいかもしれない。


 それから蓮はすべてを美桜に話した。まずは避けるようになったきっかけから。蓮が話している間、美桜はそんなことって……と呟いただけで、以降は絶句してしまい言葉が出なかった。昇のしたことはそれだけ衝撃的だったのだ。

「……私、誰とも付き合ってなんかないよ?」

 話を聞き終えた美桜が最初に言ったのはやはりそれだった。

「ああ、杏里から聞いた。俺、華賀さんと水波の噂を知ってて、電車で一緒に登校してるところも見てたから勝手に思い込んじゃってたんだ……」

「……私、本当に辛かったんだよ?苦しかったんだよ?天川君に何か悪いことしちゃったんじゃないか、怒らせるようなことしちゃったんじゃないかってずっと考えてて。でもわからなくて……」

「うん……。辛い思いさせてごめん……」

 感情的に蓮を責めるように言ってしまった美桜だったが、ここで自分の落ち度にも気づいた。


「……私の方こそごめんなさい。もっと早く誤解を解いておけばよかったんだよね。……前に、天川君、のぼ…君と駅で偶然会ったときに謝ってたよね?私、噂のこと知らなくて、どうして天川君が謝るのかずっとわからなかったの。でも、この間杏里達に言われて噂のこと知って、そのときにもしかしてとは思って。ただ私からそんな話をするのはなんて言うか……、きっかけが中々なくて……」

「いや、噂なんか信じてた俺が悪い。俺が華賀さんにちゃんと聞けばよかったんだ。だから本当にごめん」

 こうして六月に入ってから続いていた、美桜にとってはとても長く感じた二人のすれ違いはようやく終わりを迎えたのだった。


 次に、今日の昼休み、美桜が嘘の告白をされたことに自分は全く関わっていないことを話した。

「そっか。うん、天川君が関わってなくてよかった。本当によかったぁ」

 あっさりと蓮の言葉を信じ、安心する美桜。それが蓮にとっては少し不思議で、すごく嬉しかった。

「信じて、くれるのか?」

「だって天川君がここでわざわざそんな嘘を言う必要ないでしょう?杏里から全部聞いてるみたいだし」

「まあ、な。ありがとう華賀さん」

「ううん。天川君とまたこうして話せるようになって本当によかった」

 美桜は表情を柔らかくする。こちらの話は蓮が想像していたよりもずっとあっさりと終わった。

「…なあ、華賀さん、今回のことで何かお詫びをさせてほしい。俺にできること、ほしいものでも、してほしいことでも何でもいいから言ってくれないか?」

「い、いいよ、そんなの」

「身勝手なこと言って本当悪いと思ってる。けど、何かさせてもらえないか?でないと俺、自分を許せないんだ……」

 蓮の真剣な眼差しが美桜にまっすぐ向けられる。

「天川君……」

 困ってしまう美桜だったが、なんとか考えを巡らせた。

「……何でも、いいの?」

「もちろん」

「……じゃあ球技大会、応援に行ってもいい?」

 話せるようにはなったが、これからも仲良くしてもらえるのか美桜は少し不安だった。

「それはもちろんいいけど……」

 応援なんて自由にできることだ。それを今聞いてくるというのは、と蓮は困惑する。

「それで天川君の格好いいところいっぱい見せてほしいな」

 恥ずかしそうに頬を染めて言う美桜。蓮が上手なことは一緒に練習してわかってるつもりだ。試合でもその姿を見たいと思っていたが、蓮は種目決めのときやる気がなさそうだったため、美桜にとってこれは本当に我が儘だった。

「っ、………わかった」

 だが、蓮にとっては美桜が続けた言葉は完全に不意打ちだった。蓮の顔が熱くなる。

「他には何かない?」

「ほ、ほか!?」

「ああ」

 これだけではとてもお詫びにならないと蓮は考えていた。

「……じゃ、じゃあ、その、えっと、私のことも名前で…、美桜って呼んでほしい、な。杏里や日下君のことは名前で呼んでるでしょ?だから、えっと……」

 自分だけ名前呼びではないことに密かに少しだけ寂しさを感じていた美桜は蓮に促される形で思い切って言った。

 これにも蓮は驚く。自分にできることなら本当にどんなお願いでも実現するつもりだったのに、美桜のお願いは先ほどからささやかなことばかりで。

「わかった。それならも俺のこと蓮って名前で呼んでほしい。いいかな?」

「っ、う、うん。…、くん」

「ありがとう。他にはないかな?美桜の望むこと、何でもいいんだけど」

「も、もう十分だよ。これ以上は本当に何にも思い浮かばないから」

 両手を振るジェスチャー付きだ。本当にこれだけでいいらしい。

「そっか」

「うん」

 蓮と美桜の間に穏やかな空気が流れる。二人は目を見交わすと、同時に笑みを浮かべるのだった。

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