第52話 彼は自分の気持ちを自覚しながらも認めることができない

 翌週の水曜日までに中間テストは全教科返却された。杏里は無事赤点無しで今回のテストをクリアした。最後のテストが返却され、全教科赤点無しがわかった後の休み時間、そのときの杏里は喜びが爆発していた。美桜が「よかったね、杏里。おめでとう」と言って微笑むと、「うん!やったよぉ。ありがとー美桜~」と言って美桜に抱きついたのだ。それから蓮と柊平にもお礼を言ったのだが、その間ずっと美桜に抱きついたままで、美桜は振り解く訳にもいかず、杏里が本当に嬉しそうな顔をしているのをちらっと見て、しょうがないかと困ったような顔をしてされるがままになっていた。


 中間テストの結果もわかり、今日から一週間かけて、放課後の個人面談が始まる。出席番号順で行うため蓮は初日だ。最初の生徒だけを残し、皆足早に教室から出て行く。部活に行く者、さっさと帰る者、遊びに行く者など放課後の過ごし方はそれぞれだ。廊下には次の人が待てるように椅子が一つ。個人面談は学年で一斉に行われるため、三年生の全クラスで同じ状況だ。

 担任から事前にペーパーで時間割が配られており、その時間になったら教室に入ることになっている。注意事項として、時間になっても教室の扉が閉まっていたら延長して面談をしているということなので扉が開くまで廊下で待つように、とのことだ。順番が後ろの生徒は自分の番が来るまでどこかで時間を潰していなければならない。


 蓮は三番目だ。そのため、蓮はまず自動販売機で缶コーヒーを買った。それから今日は天気がいいので、指定の時間まで人気が少なく部活動をしている者もあまりやって来ないところにあるベンチへと向かった。そこは人気がないのをいいことに時々カップルがイチャイチャしているので、もしそんな先客がいれば引き返そうと思っていたが、幸い今日は誰もいなかった。


「ふぅ……」

 ベンチに座り、買ったばかりの缶コーヒーを一口飲んで、蓮は一息ついた。自分の番まではまだ三十分以上ある。蓮はベンチに背中を預けると何となく顔を上げ、空を見た。視線の先では雲がゆっくりと流れており、同じように時間もゆっくり過ぎているようなそんな穏やかな感覚に浸る。

(最近こんなにぼーっとすることってなかったなぁ……)

 三年生になってもう少しで二か月。何だか怒涛の勢いで色々なことがあった気がする。実際はそうでもないかもしれない。けど蓮の体感ではそんな感じなのだ。


 これまでといったい何が変わったのか。最終学年になったこと?違うと思う。では何か。一番の違いはやはり美桜と知り合ったことだろうか。

(華賀美桜、か……)

 最初はただただ態度の悪い人だと思った。誰とでもそれなりに打ち解けられる自信があった蓮だが、美桜が誰も寄せ付けないような在り方をしていると知り、席替えまで大変そうだと不安に思ったものだ。痴漢を撃退したときだって、その場だけのことでこんなに関わっていくことになるなんて思っていなかった。ただ、お礼を言ってきたときの美桜の微笑はそれまでの無表情しか見ていなかった蓮にとってすごく印象的でなぜか今でも心に残っている。


 きっかけはやっぱり杏里が勉強会に誘ったことだろうか。杏里の行動にも驚いたし、美桜が参加したいと言ったことにも驚いた。そして一緒に帰るようになって、そのときに彼女の本音を聴いた。それから距離が少しずつ縮まっていったように思う。心配だから一緒に帰るようにしていたはずなのに、いつしか蓮自身、美桜との帰りを楽しみにしている自分がいた。それに気づいたのはゲームセンターに遊びに行った帰りでのこと。美桜に降りないのかと問われたとき、送っていくことを自然なこととして考えている自分がいたのだ。だからだろう。自分自身まだ気づいていなかったが、昇と偶然会ったときにあれほど申し訳なく思ったのは。本当にこれっぽっちもそんな想いが自分になかったら、昇に対してあそこまで悪いと思うこともなかったように思う。


 学校で話すようになったことはもちろん、デザートビュッフェに行ったり、ゲームセンターに行ったりと一緒に遊びに行く度に美桜の新たな一面を知れた。それがまた可愛らしく、……いや、人として好ましいと感じた。それに新たな一面というなら連休中に偶然会った杏里もそうだ。一年の頃からの付き合いだと考えれば、こちらの方が驚きは大きかったかもしれない。あのときの杏里はどうしても放っておけなくて、バイト先に知り合いなんて連れて行ったことはないのに、初めてしてしまった。おかげで弄られることになったが、帰りには元気になったみたいで本当によかったと思う。


 そしてまだ記憶に新しい、初めて美桜が蓮に電話をしてきたときのこと。着信があって画面に美桜の名前が出ていたときは本当に驚いた。すぐに自分が送ったメッセージで訊きたいことがあるのだろうと思い至らなければかなりテンパっていたと思う。けれど実際はそんな内容ではなくて、蓮は美桜の話をただ聴くことしかできなかった。だけど、美桜の抱えていることを話してくれるのは純粋に嬉しかった。悩みとか不安とかそういう心の弱い部分を人に晒すのがどれほど勇気のいることか、蓮はよくわかっているから。どれくらいの人が美桜のそういった部分を理解しているのだろう。……少なくとも昇はちゃんとわかっているのだろうか?そう考えたら胸の辺りが少し痛いんだ。付き合ってる相手には当然見せているだろうに。自分が感じた痛みに思わず苦笑が浮かぶ。


 電話の最後に言ったことも本心だった。美桜の都合さえよければもっと話していたい、なんて思ってしまって、美桜を心配するようなズルい言い方で確認したら———もちろん心配したのも本心だが―――、家に帰ってからまだ何もしていないと言うから、思いよりも電話は終わらせた方がいいという理性が勝った。

 けれど思ったことは本当で、蓮はそれを自覚していて……。


 この気持ちは何だろう。ぼんやりとそんなことを考えれば、ありふれた言葉が思い浮かぶ。が、すぐにそれを打ち消すようにゆっくりと首を横に振り、考えるのを止めた。

(そんなことありえない。あるわけない……)

 それはまるで自分に言い聞かせているようだった。


 蓮は気づいていない。そもそも蓮のスタンスは、基本的に他人ひとは、その言葉や行動、表情からは本当の気持ちや考えなどわからない、というものだ。にも拘らず、美桜や杏里の言動は疑うことなくそのまま受け止めている。恐らくは柊平のことも。それは彼女達を他の人と同列にはしていないことを意味していた。


 これくらいの時間になると暑すぎるということもなくとても気持ちいい。遠くから聞こえる部活動の音がまるで子守歌のようで眠くなってくる。蓮はそっと目を閉じた。まだ蓮がベンチに座ってから数分しか経っていない。本当に眠ってしまう訳にはいかないが、思考を停止して、しばらくはこうしていたい。


 それから数分も経っていないだろう。

「天川君……?」

 蓮の名前を呼ぶ声が聞こえた。その声に反応して蓮が目を開き、声のした方へ視線を向ける。

「…華賀さん?」

 そこにいたのは美桜だった。

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