第38話 彼女にとってはそんなこと、じゃない
蓮と杏里が電車に乗ったところで、杏里が話し始めた。
「蓮、今日はごめんね。私会ったときちょっとおかしかったよね……」
「まあ、ちょっとな。……何かあったのか、俺が聴いてもいいのか?」
蓮から訊くつもりはなかった。けれど杏里から触れてきたため、蓮は押し付けにならないように、杏里の顔色を見ながら慎重に言葉を選んだ。杏里が話したいなら聴くし、話したくなければ話さなくていいと思っていたから。
「うん……。大したことじゃないんだ。本当に、大したことじゃないの……」
「そうか」
「今日ね、母さんと会う予定だったの。一年ぶり、くらいかなぁ。一緒に食事しようって連絡があってね。けど、蓮と会う少し前に無理になったってメッセージが入って……。あの人が予約したの、すごいフレンチのお店でさ、だから私こんな似合わない格好までしちゃって。バカだよね。あの人のドタキャンなんて今までにも何度もされてるっていうのに。けどね、なんか気持ちがわぁ~ってなっちゃって。蓮と会ったのはそんなときだったんだ」
「楽しみに、してたんだな……」
杏里の家のことは少しだけ聞いている。母一人、子一人なのにその母親とはほとんど会えていないこと、小さい頃からほとんど杏里一人で暮らしてきたこと。杏里が自分で言ったように、いい年して親に会えなかっただけで大したことじゃないと思う者もいるかもしれないが、そんな彼女だから、母親と会う約束が楽しみで、その約束が反故になったことで落ち込む気持ちを蓮はそんな風に考えることはできない。彼女にとって大したことだということは会ったときを思い出せば明白なのだから。
「う~ん、どうだろ?」
だが、杏里は薄く笑みを浮かべ、どうでもいいことのようなニュアンスで濁した。蓮にはそれが、これ以上は触れられたくないのだと伝わった。自分にだって触れられたくないことはあるし、蓮はそういう部分に敏感だった。だから―――。
「そっか。……ああ、そう言えば似合ってると思うぞ?そういう格好も。一瞬杏里か?って自分の目に自信が持ってなかったくらい」
蓮は思いっきり話を変えた。
「何よ、その言い方~。蓮が普段の私をどう思ってるかがよくわかるね」
蓮が話を変えたのは杏里にもわかったが、杏里はそれに乗っかり、ジト目を向ける。
「いや、そういうつもりじゃないんだけどな」
似合ってると思ったことは本心のため、ジト目を向けられちょっと狼狽えてしまう。
「ふふっ、冗談だよ。ありがとう」
そんな蓮に杏里は楽しそうに笑うのだった。
それから二人は電車を降り、杏里がこっちと指示をしながら家へと向かう。住宅街のため灯りが少なく時間帯も遅いため街中よりも夜の暗さが際立ち、周囲には他に歩いている人もおらず静寂だ。そんな雰囲気の中、大きな声でもないのに楽しそうな話声が響いていた。
そうしてしばらく歩いていると杏里がぽつりと言った。
「蓮、私ね……今日、本当は楽しみにしてたんだと思う」
「っ、……そっか」
蓮は杏里が話し始めたのが母親との約束のことだとすぐに察した。ただ、電車の中ではもうこれ以上はという感じだったのにどうしたのだろうと内心首を傾げる。
「だからドタキャンされてすっごい落ち込んでた」
「ああ……」
「けどね、今はもうそんなことないよ?本当だよ?」
そう言って横に並ぶ蓮の顔を覗き込む杏里はいつもの笑顔だった。
「そっか」
自然と蓮の口元にも笑みが浮かぶ。
「ちゃんとわかってる?蓮のおかげなんだよ?蓮が私を見つけてくれて、バイト先に連れてってくれて。一緒にご飯食べてくれたから。すっごく嬉しかった」
「そんなことくらいで杏里に喜んでもらえたならよかったよ」
「私にとってはそんなこと、じゃなかったんだけどなぁ」
前を向いた杏里の表情が苦笑に変わり、蓮にも聞こえない声でぼそりと呟く。自分の言い方も直接的ではないことは承知しているが、蓮はやっぱりそういう方向には受け取ってくれない。受け取ろうとしない。意識的にか無意識的にかはわからないけれど。
「ん?」
杏里が何か言ったことはわかったが、蓮には何を言っているか聞こえなかったため尋ねるように杏里を見た。
「ふふっ、蓮の働く姿もいっぱい見れたしね?」
だから杏里は茶化すように蓮の反応が面白いネタを繰り返した。照れる蓮なんてかなりレアなことも事実だから。
「それはもういいって。頼むから忘れてくれ」
うんざりしたように蓮が言う。
「それは無理かなぁ」
「はぁ……」
バイト中の自分をここまで弄られるのは正直想定外だが、連れて行ったのは自分だ。しょうがないかと蓮はため息を零す。
「ははは。ま、私からはそれだけだよ。蓮にはどうしても伝えておきたいって思ったからさ」
「ああ、わかった」
するとそこで杏里は数歩リズミカルに進み出るとピタっと止まる。そしてくるっと体ごと振り返り、蓮と向き合った。
「それじゃあ蓮、今日は本当にありがとう。私の家ここだから。送ってくれたのも嬉しかったよ」
蓮が杏里の後ろを見れば、大きな家の門扉がある。この大きな家が杏里の住んでいるところらしい。こんな大きな家に杏里はずっと一人で住んでいるのか。自分も一人暮らしをしている蓮は、一人で住むには大きすぎる家での実質一人暮らしというのは余計に寂しいのではないかと感じだ。それが杏里の住む家を初めて見た感想だった。
「そっか。いや、こっちこそ本当バイト終わりまで付き合わせちゃって悪かったな」
「私が好きでいただけだよ」
「うん。……あのさ、もしまた何かあったらさ、…いや、何もなくても…、こんな広い家に一人でいたら寂しいこともあるだろうし…、そのときはもっと友達を頼ってもいいんじゃないか?杏里友達いっぱいいるんだし、今は華賀さんもいるし。もちろん俺と柊平も」
掘り返すようで悪い気がして言いにくそうに、けれどはっきりと蓮は言った。
「っ!?」
蓮の言葉に杏里は目を大きくする。今日の出来事は本当に蓮に申し訳ないと思っていたのだ。けれど、蓮は頼っていいと言ってくれた。そこに蓮自身を含めて。それにこの家で一人でいることの寂しさに、自分の気持ちに気づいてくれた。嬉しくない訳がない。嬉しくない訳がないのだ。胸の辺りがポカポカしてくる。
「うん、そうする。ありがとう蓮」
「いや、余計だったらごめんな?それじゃ、俺は帰るよ。またな。おやすみ、杏里」
「うん、またね。気をつけて帰ってね。おやすみ、蓮」
蓮の姿が見えなくなるまで杏里は見送るのだった。
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