第36話 オーナーからの条件

 蓮はバックヤードで着替えながら、先ほどキッチンでオーナーでありシェフでもある早瀬梨沙はやせりさと話したときのことを思い出していた。


 梨沙は肩に当たらないくらいの黒髪を後ろで結んでおり、かなりさばさばした性格をしているカッコいいお姉さんという感じの女性だ。三十代半ばらしいが、もっと若く見える。ただ年齢に関しては梨沙本人が言うのはいいが、人に言われるのは嫌らしく機嫌が悪くなるため、スタッフは誰も触れないようにしている。そんな彼女に蓮は一緒に連れてきた杏里のことを知らせにいったのだ。

 が、それはいきなり出鼻を挫かれる。

「なぁに蓮。あんたついに彼女連れてきちゃったわけ?」

 ニヤッという言葉が似合いそうな笑みを浮かべて梨沙が言う。

 その言い方にキッチンで開店準備をしていたもう一人、大学生のバイトでありながら唯一梨沙が認めてキッチンで働いている男性が一瞬ピクっと反応したが、無言を貫いていた。ちなみに、キッチンはこの男性が入るまでずっと梨沙が一人で回していた。一応、ホールとキッチンでバイト・パートの募集はずっとしていたが、キッチンで採用されたのはこれまで彼だけとのことだ。

「彼女とかではないです。クラスメイトの友達ですよ」

 あっさりと訂正する蓮。

「あっそ。それは残念。それで?まだ開店前なのにどうして連れてきたの?」

 梨沙も本気で言った訳ではなく揶揄っただけだったのか理由について尋ねた。

「それが―――」

 蓮はさっきの杏里とのやり取りを簡単に説明した。

「そう……」

「だからちょっと心配で、放っておけなくて。…勝手してすみません」

「わかった。そういうことなら彼女には好きなだけいてもらっていいから」

「ありがとうございます」

「ふふっ、いいのよ。蓮の人を見る目は信用してるしね。ただし!彼女、杏里ちゃんが帰るときにはあんたが送っていくこと。それが条件。わかった?」

「いや、けどいつ帰るかなんてわかりませんし、シフトが―――」

 梨沙の出した条件に蓮は慌てた。責任感なんて言葉を使うつもりはないが、自分が決められた時間働かなければ人員が一人減ることになる。今日のホールスタッフも自分ともう一人だけで個人経営のためぎりぎりの人数で回しているのだ。そんな中、個人的理由で抜けるなんて梨沙を含め全員に申し訳ない。

「そんなこと気にしないの。早めに帰るようだったら蓮の分も春陽はるひに頑張ってもらうだけだから。いいでしょ?」

 梨沙は蓮の言い分をばっさり切って、同じくキッチンにいた大学生の男性に話を振った。彼は一度ため息を吐いて、蓮、そして梨沙に視線を向けると苦笑を浮かべた。

「わかりました。やらせてもらいますよ」

 彼、風見春陽かざみはるひは明政大学に通う二年生だ。男である蓮の目から見てもとんでもないイケメンで、順調にいけば、来年付属に通う蓮達の先輩になる。彼は一年程前、大学に入ってすぐの頃にバイト希望でこの店に来て、高校時代からバイトで調理をしていたらしく、キッチンで働くことを望み、何度か行われた梨沙のテストをクリアしてこの店のキッチン担当になった。


 ちなみに、さっき梨沙が蓮も彼女を連れてきたのか、と言ったのは以前春陽の彼女が春陽にも内緒で客として来たことがあるからだ。そのとき蓮も働いていたためお相手の女性を見たのだが、春陽の彼女もすごい美人でまさに美男美女のカップルと言った感じだった。

 閑話休題。


「いやいや、そんなの春陽先輩に申し訳なさすぎですよ」

 ここのバイト歴で言えば蓮の方が長いが春陽の方が年上だし、蓮は春陽のことをとても好ましく思っていた。人の心の機微に敏感というか、蓮にとって距離感が心地いいのだ。話していても相手のことを考えてくれているのがわかるし、優しいというのは彼のような人のことを言うのだと蓮は本気で思っている。そんな相手だからこそ余計に、蓮は春陽に負担をかけてしまうかもしれないことに罪悪感を強く抱いた。

「話は俺も聴いてたから。蓮は彼女が心配で連れてきたんだろう?なら、少なくとも今日のところは最後まで責任持たないとな」

 柔らかな表情で蓮に言う春陽。

「そういうこと!さ、杏里ちゃんをあんまり一人で待たせちゃ可哀そうでしょ?席に案内してあげたら?」

 二人からそこまで言われたらもう蓮には何も言えない。

「……ありがとう、ございます。カウンター席を使わせてもらっていいですか?」

「ええ。テーブル席を使わせてあげたいところだけど、そうしてもらえると助かるかな」

「わかりました。本当にありがとうございます。失礼します」

 二人に深々と頭を下げて蓮は杏里のもとに戻ったのだった。


「はぁ……。よしっ!」

 着替え終えた蓮は一度大きく息を吐きだし、気合を入れると店内に戻った。もうすぐ開店だ。その前に杏里に伝えておかなければならないだろう。

「お待たせ、杏里」

 蓮がお水と紙おしぼりを持って杏里のところに戻ると、杏里はメニューを開いて見ていた。

「ううん。ふふっ、蓮、そういう格好似合うね」

 蓮は黒のズボンに白のシャツ、その上に黒のベストという装いだ。

「ははっ。ありがとう。結構照れ臭いけどな」

「蓮からイタリアンレストランって聞いてたから、もっと高級なイメージを勝手にしてたけどそんなでもないんだね。お店も家庭的っていうか温かい雰囲気だし」

「ああ。オーナーの意向でな。多くの人に食べてもらいたいからってかなり価格は抑えてるみたいだ。お店の雰囲気もそういうのに合わせててオーナーの拘りだって聞いてる」

「そうなんだ。私こういう雰囲気好きだな」

 大分元気になってきたみたいだ、と蓮は感じる。

「けど、味の方はどれもすごい美味しいぞ?ピザにパスタはもちろん、デザートならティラミスとかジェラートとか」

「へぇ~」

「もうすぐ開店だし、何か食べるか?」

「う~ん、それじゃあ、このピスタチオのジェラートとカフェ・シェケラートをお願いしようかな」

 カフェ・シェケラートは、できたてのエスプレッソをシェーカーでカクテル風に急冷して作るイタリアのアイスコーヒーだ。

「わかった。それとさ、帰るときには一言声かけてくれるか?いつでもいいから」

「え?それはもちろんいいんだけど……。どうしたの?」

「あ、いや、一人で帰らせるってのもな。だから杏里のこと送らせてもらえたらって思って」

「えっ!?………いいの?」

「ああ」

「……わかった。ありがと、蓮」

「どういたしまして。それじゃあ注文出してくるから。ごゆっくりどうぞ」

「うん。あ、蓮」

「どうした?」

「バイト、頑張ってね」

「ああ、ありがとう」

 キッチンに向かう蓮の背中を杏里は見つめていた。

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