第4話 一章〜惜別〜 4

 ふと触れた指先が氷のように冷たい。左右の手を合わせて、両手で包んでやった。

 目立った外傷は無いようだが、少し呼吸が苦しそうだ。

「本当に救急車呼ばなくていいのか?」

「うん…もう少ししたら…動ける」

「なにがあったんだ?」

 どうせまともに答えないだろうと思ったが、訊かずにはいられなかった。

「…水、持ってない?」

 案の定由希哉の返答はこれだ。しかし、この状況でこの要求は自然だろう。問いただすより、体調を優先すべきだ。

「お茶でもいいか?」

 由希哉はコクンと頷いた。リュックからお茶のペットボトルを出して、キャップを外してから、かじかんだ手に持たせてやる。少し口に含んで、ゆっくり飲み下す動作を数度繰り返した。その作業も何処か痛むのか辛そうだ。


「怪我してるんじゃないか?病院には行った方がいい。タクシー捕まえてくる」

「いいんだ。自分の身体の事は自分でわかってるから」

 由希哉のかたくなさにため息が出た。


「もう大丈夫だから帰れよ。あっ、これは貰っとくな」

お茶のペットボトルを示して言った。


「そんな事できる訳ないだろう!こんな状態のお前を残して俺が帰ると本気で思ってるのか?何があったか話したくないなら訊かない。でも、ちゃんと家に帰れると判断するまで、俺はお前の側にいる」


 一気に言い切った。今までは由希哉の示す拒絶に逆らえずに来たが、今日ばかりは受け入れられない。この状況で、どうして帰れると言うのか。


 由希哉は眩しいものでも見るような眼差しで、こちらを見ていた。そして、おもむろに口を開く。

「東堂は…真っ直ぐだな」

 通りの喧騒にかき消されてしまいそうな小さな声だった。

「…真っ直ぐで…正しくて…」

 言葉はそこで途切れる。

 このまま、すっと冷たい空気に溶けてしまいそうで不安になった。


 何か言わなければ…


 こちらに繋ぎ止めておかなければ…


 由希哉が消えてしまう!


 言葉を探すけれど見つからなくて、不安はあっという間に修一の胸を満たす。無意識に由希哉に向け両手を伸ばした。



「ちょっと肩貸して」

 唐突に発せられた声に我に帰り、伸ばした腕をぎこちなく戻す。

「もう、立てそうだから」

 たった今、目の前にあった光景は幻で、急に現実に引き戻された感じだ。

「寒いから、あそこに行こう。前に行ったとこ」

「…ハンバーガー屋?」

 頷いた由希哉は、傷ついた者を労わるような優しい笑みを浮かべていた。


 その優しい笑みは同時に儚くもあり、霧散した胸の不安をかき集める。修一は由希哉の腕を取り自分の肩へ回し、もう一方の手で身体を支えてやりながら、この確かな感触が消えないようにと強く祈った。



 由希哉はトイレに行きたいと言う。店が入っているビルのトイレに連れて行った。ひとりで大丈夫だと言うので、通路で待っていたが、遅いので様子を見に行こうかと思った頃、出てきた。


 少し前屈みだが、ひとりで歩けるようになった由希哉と店に入り、温かい飲み物だけを買って隅の席に着く一口啜って染み渡る暖かさにやっとひと心地つけた気がした。



「東堂さぁ、イブなのに俺とこんなとこにいていいの?」

 由希哉はちょっと前の事態などなかったように、すっかりいつも通りだ。

「予定なんて無いよ」

「デートは?」

「付き合ってるやつはいない」

 一年の時、彼女はいた。でも、半年くらいで理由もなく振られた。樹は「自分から連絡しないからだ」と言うが、用もないのに連絡しないだろう。


「へぇ、でも、モテるだろ?」

 付き合ったきっかけもそうだが、それ以外にも駅などで告られた事はある。しかし、自分がモテるとは思っていなかった。なぜなら、修一の何倍も樹は告白を受けているからだ。しかも、樹はその全てを断っている。拓真は『神』と崇めていた。

 その話をすると、由希哉は楽しそうに笑った。


「兄弟は?」

「姉さんがひとり。3つ上だ」

「綺麗なんだろうな」

 正直、姉を綺麗だと思った事はないが、他人から見ればそうかもしれないとは思う。それより、目の前にいる由希哉こそとても綺麗だと思った。


「辻井は?兄貴だけ?」

「妹がいる。小さい頃は俺の後ついて来てばっかりで可愛いかったよ」

 目を細めて微笑む由希哉は、今も妹を可愛く思っているのだろう。下に兄弟がいない修一には、どんな感じなのか実感はできなかったが、少し羨ましい気がした。


 こんなに打ち解けて話したのは初めてだ。好きな事、嫌いな事、子供の頃の事、将来の事、もっともっといろいろ話したい。まだ、遅くはないと思った。今日は少し近づけた気がする。これからたくさん話せばいい。


「さて、帰るかな」

 由希哉がゆっくり席を立つ。修一も立ち上がって、2人分のカップを素早く捨てに行き、店を出る由希哉に追いついた。

「家まで送る」

「タクシーで帰るからいい」

「じゃあ、タクシーに乗るまで」

「心配症だな」

 由希哉はクスッと笑った。


 タクシー乗り場へ行く途中、由希哉は雑貨屋の店先に足を止める。ワゴンに並んでいた陶製の小さなサンタクロースの置き物を妹のプレゼントにと買った。


 タクシー乗り場の列に並ぶ。

「明日からの講習どうするんだ?」

 冬休み中の講習の休みは、大晦日と三が日だけだ。

「しばらく休むよ」

「そうだな。元気になってから出て来ればいいよ。待ってるからな」

「うん」

 順番が来て由希哉がタクシーに乗る。

 お互いに「またな」と言った。


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