7月22日・金「サキノハカという名の黒い花、クラレという名の白い花」
新幹線の涼しい車内から一歩外に出ると、湿気を帯びた生ぬるい風が、ゆっくりと頬を撫でていった。たったそれだけでじんわりと汗が滲んでくる。予報では午後から雨だという。遠くの蝉の鳴き声が構内アナウンスに混ざり、そしてかき消された。
京都駅のホームは観光客で賑わっている。
三クラスしかないとはいえ、その中にわたしたち学園の生徒が合わさるのだから、他の利用客から見ればいい迷惑にちがいない。人目を惹く制服のせいもあって、あちらこちらから夏の大気を凝縮したような湿った視線を感じた。
まあ、生粋のお嬢様方がそんな視線を意に介されるわけもないのだけれど、人の流れに押されて、わたしたちは追い出されるように改札を抜けた。
駅のエントランスの、とても高いガラス張りの天井が、薄ぼんやりとした空を透過させている。
右を見ても左を見ても大勢の人がいて、すでにわたしは酔いそうになっていた。このご時世なので皆それぞれマスクをつけているとはいえ、ここまで密集する人の姿を目にしたのは、随分と久しぶりのことだった。
「今、天井を見上げましたわね」
教員が注意事項を伝えているのを尻目に、龍烏さんが腰を少しかがめて、上目遣いにわたしを見た。まるで、内緒話をするみたいに。小さな声で。
「遊崎さん、京都は初めて?」
「ええ。中学のときは修学旅行、広島だったから」
わたしも小声で答えた。龍烏さんはくすくすと笑って、
「この駅を初めて訪れる人は、皆この天井を見上げるのですわ。慣れないと圧倒されてしまいますわよね」
ささやくような、歌うような声で言った。嘲る雰囲気は、感じなかった。
そんな彼女が手にしているのは日傘と小さなポーチだけ。わたしも似たようなもので、荷物は事前に、あらかたホテルに運び込まれている。
どこからかお囃子の音がする。
先ほど見た駒形提灯にも、鉾の名前や祇園祭の文字が書かれていた。
祇園祭は七月の、京都の長いお祭りである。
去年は感染症のために色々と規制がなされていたようだが、今年は三年振りに山鉾の巡行が行われ、大勢の人出で賑わったと聞いている。でも、リースの流行の再拡大如何によっては、宵山や巡行が再び中止になることだってあったのかもしれない。このマナー講習会自体、なくなることだってあり得たのだ。現在すでに第七波の流行期に差し掛かり、一日の感染者の数は連日過去最高値を叩き出している。そんなわたしたちの取り巻く環境の不確かさを思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
「まあ、あの鉄骨はちょっと無粋な気もしますけれど、ね」
龍烏さんがちらりと天井を見上げて、呟いた。先生の話はまだ続いていた。
「そうかな」
「そうですわよ」
そうしてまた、わたしも駅の高い天井を見上げた。雲越しの太陽の光が鈍い。肩と肩がそっとぶつかって、わたしは龍烏さんと目を合わせた。龍烏さんとの距離が、いつにもまして近しい。
新幹線の車内でも隣同士の席だった。
以前は、わたしとは何も接点のない人だったのに。身分から何から、違う人だったのに。あの日。わたしの首筋の匂いを龍烏さんが嗅いだあの日から、どうにも距離が縮まったように思えてしまう。
龍烏さんは、正真正銘の貴族だ。家柄も血筋もいい。
彼女は別段リーダー風を吹かせるような人ではないのだけれど、彼女に取り入ろうとする生徒は少なくなくて。
そんな取り巻きの人たちから見たら、わたしにばかり龍烏さんがあれこれと世話を焼き、話しかけている姿を見るのは、どうにも面白くないのだろう。
何度か「よかたわね。龍烏さんはお優しいから」と、わたしひとりのときに声をかけられた。暗に、貧乏人のあなたを憐れんでいるだけだからね、調子に乗らない方がいいのではないかしら、と釘を刺されているように思えてあまりいい気分ではなかったが、別にその通りだし、曖昧に笑って適等にやり過ごした。喧嘩するのも、いちいちやっかみを気にするのも、はっきり言って面倒だった。文句を言うのは喋る案山子の群れたちだ。顔だっていちいち覚えていない。
それではみなさん、節度ある行動をしてください。という担任の声がかかって、わたしたちは自由になった。隣を見ると、龍烏さんがわたしを見て、くすくすと笑っている。基本的には班行動をすることになっているから、ここでも龍烏さんとは離れられない。
幾人かのグループメンバーが、早速龍烏さんにどこに行きましょうか、と声をかけている。わたしは少しその円の外へと出て、関心がないように振舞っていた。
ちらり、と龍烏さんがわたしを見たように思えたが、多分、気のせいだろう。
わたしは班の後方で口をつぐみ、影のように気配を消して、ゆっくりと歩いた。心なし、少し、距離をとるようにしながら。
街の大通りには人が多かった。
ふと、店舗の並びの一角の、立ち食い蕎麦屋が目についた。
京都にもこういうお店があるのか、と一瞬思ったが、でも、繁華街の駅の近くなのだから、忙しいサラリーマン向けのお店だって当然、必要なのだろう。観光客向けのお店ばかりが並んでいるわけじゃない、とわかっているはずなのに。つい、京都という街に対して幻想を抱いてしまう。
立ち止まっていると、白い日傘をさした龍烏さんが振り返り、どうかしましたの、と声をかけてくれた。けれども周りの取り巻きの視線が冷たくて、わたしはぺこりと頭を下げてみせただけだった。
少し早足で距離を縮めると、龍烏さんはほっとしたように踵を返して、再び歩き出した。
わたしは揺れる日傘とその背中を見つめながら、沈花から終業式の日に渡された小説の原案のことを思い出していた。
綴られたレポート用紙の一枚目には、「クラレという名の白い花」と書かれていた。
「これがタイトル?」
そう訊ねると、沈花が無言で小さく頷いた。
わたしは沈花の前で、箇条書きにされた内容に、ゆっくりと目を通していった。それは童話のような、寓話のような、不思議なお話だった。
白い花たちの王国の中でクラレは黒い花だった。
クラレは白い花の両親から生まれた。なのに、開いた花は黒かった。ただ一輪だけの黒い花。周りは彼女を哀れんだけれど、疎んじたりはしなかった。排斥もされなかった。しかし仲間と認めることもなかった。かわいそう。かわいそうね。生ぬるい優しさだけが彼女を包んだ。両親は彼女を愛した。自分の子どもがどうして黒く生まれたのか、その苦悩を彼女には決して見せなかった。でも、クラレは、両親の葛藤をいつも感じていた。感じていて、でも、どうしようもなかった。黒い花がある日突然白くなるなんてありえないのだから。クラレは夜が好きだった。闇の中では、等しく花の色は夜に黒く染められるから。きっと、自分は夜の国の住人なのだと、ずっと思っていた。クラレは太陽が嫌いだった。光は色で、全てを差別するから。明るい場所に彼女の居場所はなかった。彼女は黒い花。けれど、とても美しい花だった。やがてその噂は王子の耳に届く。王子は白い花しか知らない。白い花しか見たことがない。彼は白い花の王国の王子であるのだから、それは当然のこと。好奇心。王子はクラレを一目見たいと思う。どうしたらいいだろう。それならば、と舞踏会の開催を大臣が助言する。そこにクラレを招待するのはどうだろうかと。王国からの手紙が届く。両親は喜んでいる。でも、クラレは自分自身の心がわからない。
そこで書かれた文章は終わっていた。わたしはレポート用紙の、表紙のタイトルを見つめながら、沈花に訊ねた。
「クラレはこのあと、舞踏会に行くの?」
「お姉さまなら、どうしますか?」
それは、この物語の続きの話か。それとも、自分がクラレだったらどうするか、という意味なのか。一瞬迷ったが、わたしなら行かないかな、と答えた。
「わたしならその夜、こっそりと国を抜ける。そして、永遠の夜の国を探す。月明かりに花の
「そんな場所、どこにもなかったら? 国を出て、優しい両親を捨てて、あてもなく……旅立つことが本当にお出来になると、お姉さまはお思いになるのですか?」
「優しさに殺されるのは、真っ平御免だもの」
沈花の切実な声に、わたしは答えた。
「でも、不思議だわ。タイトルだとクラレは白い花なのに、……どうして作中では黒い花なの?」
がしゃん、という大きな音と、きゃ、っという女の人の声に、ふっと我に返った。
慌てて顔を上げると、自転車に乗った初老の男が着物姿の女性を撥ね、そのまま速度を落とさずに走り去るところだった。わたしは足がすくんで、自転車を追いかけることもできなかった。待ちなさい、卑怯者、そう叫んだのは龍烏さんだった。男は一瞬ブレーキをかけて龍烏さんを睨んだ。龍烏さんはひるまずに鋭い目つきで睨み返していた。男は顔を背けて舌打ちすると、すぐにまた歩道の真ん中を、自転車に乗ったまま猛スピードで走り去ってしまった。
そこはアーケードの中に突如現れたお社の前だった。燈明が立っているが、建物全体が年経ているせいで、昼でも少し暗い感じがする。とても不思議な場所だった。
わたしは龍烏さんの大声に勇気づけられるように慌てて女性のもとに駆け寄った。真っ白な長い髪を鼈甲のかんざしでまとめているので一瞬年配の方かと思ったが、顔を見ると驚くほど若々しい。わたしたちとあまり歳も離れていないように思えた。十代というのはありえないが、それでも三十を越えているようには見えなかった。
髪も、眉も、まつ毛も。
その全てが白い。
ううん、そればかりではなくて。
肌がまるで白磁のように、真っ白だった。
わたしはその「白」に心惹かれた。それはこの世で一番美しい部類の、白だったから。
「あの、お怪我はありませんか」
わたしは少し震える声で、彼女に声をかけた。その女性はぼんやりとした目つき……瞳の色は濃い緑色だった……でわたしの顔の少し上あたりを見つめて、おおきに、と小さな声で答えた。
「うちの杖……」
「杖?」
「白杖が……近くに落ちてへんですやろか」
白杖というと、目の不自由な人が使用する、あの杖だろうか。
わたしは周囲を見回した。
倒れた彼女とわたしを中心に、人だかりができている。その足と足との乱立するあいだに、ひしゃげた一本の杖が落ちていた。全体が白く塗られていて、持ち手は黒、先端が赤い。これですか、とそれを彼女に手渡すと、女性はゆっくりと杖を撫で、折れ曲がってしまっているのに気づいて悲しげに顔をうつむかせた。その仕草から、やはり彼女は目が不自由なのだ、と思った。杖は元々折りたたみ式になっているようだったが、本来折れてはいけない部分が曲がってしまっていて、もう使い物にはならなそうだった。
「……どないしよ。あ、っ……」
女性は立ち上がろうとして、けれど顔をしかめ、体勢を崩してしまった。わたしはとっさに彼女の体を抱きかかえた。その軽さに驚き、そして首筋から匂う白檀に似た香の匂いに、大きく胸が震えた。
「あ痛た……。ひねってしもうたかしらん。立たれへん……」
「大丈夫ですか」
「ごめんね、ええと、……学生さんですやろか」
彼女は目をこらすようにして、じっとわたしの方を見ていた。
「ええ、それより、お怪我は?」
「今救急車を呼びましたわ。大事があるといけないですもの。警察にも通報したほうがよろしいかしら」
わたしが声をかけるのと、龍烏さんが駆け寄りながら声をかけたのが、ほとんど同時だった。
警察、という言葉を聞いて、わたしの袖をつかむ彼女の指先が、わずかに震えた。
「あの、おおごとになると……うちの人に迷惑がかかりますから。せやから、その」
「でも、一度病院で診てもらったほうがいいですわ。ぶつかった衝撃で杖が折れてしまうくらいだったのですもの。それにその……杖が折れてしまっては、おひとりでお帰りになるのも大変ではなくて?」
龍烏さんのその説明を聞いてもなお、彼女は逡巡しているようだった。
「じゃあ、わたしが病院まで救急車でご一緒します。お家の方がいらっしゃるまで、ついていますから。ね?」
わたしが言うと、龍烏さんと彼女は、同時にとても驚いた顔をした。
どうしてこんなことになってしまったのだろう、と思わないでもなかったが、勢いで口にしてしまったことの責任は、ちゃんと自分で取らなければならない。
わたしは病院の患者家族用の小さな個室で、ぼんやりと白い壁を見つめながら、何度目かのため息をついた。そして腕時計にちらりと目をやる。集合時間はとっくに過ぎている。何回確認しても同じだった。
龍烏さんに言われてあのあとLINEを交換し、何度かやり取りをしたのだが、……集合時間後に送ったものは一応既読になったのだけれど、返事はまだ戻って来ていない。
わたしはもう一度ため息をついた。
まず、お祭りの関係で大通りの車量が多く、車線が減少している箇所もあって、救急車の到着が遅れた。
それからリース関連の発熱患者が続発しているせいで、受け入れてくれる病院を見つけるまで、時間がかかった。
彼女(
やれやれ、と思う反面、あの窮屈な班内の空気から抜け出すことができて、ほっとしている自分がいるのも確かだった。
もともと料亭にも和食のマナー講習にも着物にも高慢なお嬢様方にも、興味はない。ただ、少し、お金を工面してくれた母には申し訳なく思い、ご飯を食べ損ねてお腹が空いたな、と思うだけだった。
駅を出たところで見かけた、あの立ち食い蕎麦屋のことを思い出して、思わずお腹がくぅっと鳴ってしまった。
わたしのご飯は、ああいうのでいいんだけどな。というか、外食する、というだけでもすごく贅沢なんだけど……。
部屋の外を看護師さんたちがきゅっきゅっとサンダルの音をさせて行き交っている。けれど誰かがこの部屋に入ってくる様子はなく、もうかれこれ小一時間ほどになると思うのだけれど、彼女……夜々子さんの姿も見ていない。
……病院は人が多くて、昔から嫌いだった。
独特の消毒液くさい匂いと、リノリウムの上を歩き回る靴の、擦れる音。
病院というところは、建物全体から拭い去れない病の匂いがする。それは例えば雨漏りのする天井に少しずつ広がっていくカビのように、いつか取り返しのつかない形で全てを崩壊させてしまう。病気という名の、負の力の塊。それが否応なく、匂うのだ。
何度目のため息だったのだろう、はあ、っと息を吐きかけるのと、扉が開くのが同時で、思わずびっくりして、慌てて息を飲んだら、体もびっくりしたのだろう、しゃっくりが出てしてしまった。
「ごめんね、ずっと待ってもらっちゃって。えっと……」
白いナースウエアの看護師さんが、申し訳なさそうにわたしに言った。
「だ、……ひっく、大丈夫、です」
「しゃっくり?」
「はい、あ、いえ」
わたしは恥ずかしさに顔を赤らめながら、口元を押さえ、しどろもどろに答えた。
「あのね、ついさっき、同居されているという方がいらっしゃったのだけれど……」
看護師さんはそう言って、少しだけ後ろを振り返り、それから真綿を飲んだようにしばらく言葉を詰まらせ、言いにくそうに続けた。
「あなたにお礼がしたいって」
「……お礼、ですか」
わたしは口に手を当てたまま、訊ね返した。
「ええ、……別室にいらっしゃっているんだけど、来てもらえるかな」
ようやく進展があったので、少しだけほっとしながら、わたしは小さく頷いた。ひく、っと小さなしゃっくりがもう一度、口からこぼれ落ちた。
通された部屋はわたしが待機していた部屋と同じ作りだった。白い天井と、白い壁。そしてその中央のスチール製の机の脇には……黒い、妙齢の女性がいた。
黒い髪、黒いベルベットのような生地の服。顔の半分を覆う血よりも濃い紅色のフェイス・ベール。その上彼女は車椅子に座り、背後には見るからに執事といった身なりの、いやに彫りの深い長身の男性が控えている。
はて、なぜまだ若いのに車椅子に、と思ってよくよく見ると、彼女には、足が途中から、なかった。靴があるべき場所には虚ろな空間がぽっかりと空いていたので、容易にそれと知れた。右足は足首の少し上から先が、左足は多分、膝の少し下の辺りから。切断されているらしかった。
ふんわりと膝にかけられたベールと同じ色のストールの凹凸が、隠しきれない欠損した足の存在を、静かに訴えかけていた。
それに、
顔にも。右目の上の……髪の生え際から頬にかけて、ベールでは隠しきれない、大きな傷があった。
それは生きたまま皮膚を削いだような、ひどい傷痕で。
わたしはとっさに目を逸らした。
どこを見ていいのか、わからなかったから。どこを見ても失礼になってしまう気がしたから。
そして、
彼女の目が、その漆黒の瞳が、あまりにも綺麗だったから。彼女の纏うオーラのようなものが、冷や汗が出るくらい、高貴であったから。
驚いて、驚きすぎて、いつの間にか、断続的に続いていたしゃっくりが止まっていた。
あるいは、わたしは息をすることそれ自体、忘れてしまっていたのかもしれない。
わたしは、リューシカ以上に美しいものに、初めて出会ったのだと知った。
でも、それは存在してはいけない類いの美しさだった。ずっと見続けると目が潰れてしまう、塩の柱になってしまう、呪いや罰か何かのような、そんな美しさ。
……夜々子さんが白い花なら、彼女は黒い花だ。
「初めまして。月庭一花と言います。夜々子を助けてくださったそうで。ありがとう」
影のように付き従っていた……白い手袋までしていた……執事風の男が、車椅子の位置を少しだけ、わたしの方に向けた。きい、という車輪の軋む、小さな音がした。
「改めてお礼がしたいのだけれど……ええと、お名前は?」
「はい、あ、いえ、その。……遊崎花といいます。でもお礼なんて、そんな」
わたしは首を横に振りながらしどろもどろに答えた。喉が渇いて、言葉がまるで、砂を吐いたようにざらっとしてしまう。
「遊崎? ……花」
わたしが答えると、なぜか彼女は興味深そうに、わたしの名前を繰り返した。
「もしかして、遊ぶに山崎の崎で、遊崎?」
「ええ、そうですけど……」
じっと見つめられていると、すごく居心地が悪い。わたしは名前の話から話題を変えたくて、
「そういえば、夜々子さん……大丈夫だったのですか?」
と、訊いてみた。
「大事ないわ。先に車の中で待ってもらっている。そうね……彼女からもあなたに、直接お礼を言わなければならないわね」
するとなぜか一花さんは楽しそうに……意地悪そうに目を細めて、さらにわたしを見つめている。その視線に、思わず肌が粟立つようだった。
なんだかややこしいことになってきちゃったな、と思い、これからどうしたものかと思案しながらも、わたしはもう、それ以上口を開くことができずにいた。夜々子さんからのお礼なんてどうでもいいから、早くこの場から立ち去りたかった。
わたしはこの一花さんという人が、少しずつ、恐ろしく感じ始めていた。
「そういえば、あなたの着ている制服、成都の……御心女学館のものね?」
「はい」
「ということは、もしかして今日は……」
そこで一花さんはちらり、と壁に掛けられたカレンダーを見遣った。
そして何も言わずに手のひらを上に向けた。
いったい何の合図だろう、と思って見ていると、背後の男が音もなく、懐から出したスマホをその上に乗せた。
一花さんはそれを少し難しい顔で一瞥して、何度かフリックすると、おもむろに自身の耳に当てた。
「……わたしです。ええ。ご無沙汰しております。お忙しそうなお声ですけど……そう。やっぱり。そうですよね。そうかと思ったんです。ええ。それで……さすがにその一報はもう学校に入っていまして? やはりお耳が早いのですね。トラブルにあった子……そう、そうなの。ちょうど目の前にいるわ。その子。そう……今日、お預かりしていいかしら。お礼をしたいと思いまして。どうしてって、……そうなの、わたしの夜々子が世話になったの。ふふ、嫌だわ。そんなんじゃありませんってば。ええ。……ええ。もちろんです。……ありがとう。では、また。……ふふふ、もう、そんなことおっしゃらないでくださいな。はい、……はい」
誰と電話をしているのだろう。
通話中もずっと、彼女はわたしを見つめていた。それがなんだか居心地悪くて、わたしは俯き、目を逸らしていた。
わたしのことを誰かに話している、というのはなんとなくわかったのだけれど、それがどこの誰なのか、わたしには想像がつかなかった。
得体が知れなくて、この状況に言いようのない不安を感じていた。ただ、怖かった。
「今日はあなたをお借りしていいって」
スマホを背後の男に渡しながら、一花さんが言った。
わたしは思わず顔を上げた。
「何もないところだけれど、わたしたちの家に招待したいの」
「あの、話がひとつも飲み込めないのですけど……わたし、今日は学校の行事の途中で」
「ええ、わかっているわ。料亭で食事のマナー講習、とかいうやつでしょ? わざわざ京都まで来て、ご苦労なことよね。成都校の恒例行事だから知っているわ。わたし、京都校の方の卒業生だし」
一花さんがにっこり笑いながら、わたしの言葉を遮った。黒い瞳が、暗黒星のように静かに光っていた。
「御宅のほうの学長には今、話を通したから。心配しないでいいわよ。もうとっくに料理なんて冷めてしまっているでしょうし。それに、せっかくのお料理もマナー講習だなんて。そんな堅苦しくしたら、味なんてわからないわよね」
合図もしていないのに、背後の男が一花さんの車椅子を押し始めた。
わたしはもう、どうしていいのかわからなかった。頭の中が真っ白だった。理解が追いつかない。学長って、もしかしてうちの学校の、校長のことなのだろうか。
なぜそんな相手の連絡先を知っているのか、とか、校長相手によくもあんなフランクに話せるものだ、と疑問に思う反面、彼女に逆らったらどうなるのだろう、と考えてしまって、足が震えた。
なんだろう、彼女については、やり口がまるでヤクザみたい、というのが正直な感想だった。
病院を出ると夜だった。分厚い雲に覆われて、星はひとつも見えない。
視線を戻すと、大きな黒塗りの車が救急搬送の入り口近くに止まっていた。車椅子がどんどんその威圧的な車に近づいていく。
まさか、まさかと嫌な予感はしていた。あの車が一花さんのものなら、どうしよう、どうなってしまうのだろう、と。
でも、案の定、と言っていいのだろうか。執事の男は抱きかかえるようにして、一花さんをその車の助手席に座らせた。そして恭しい仕草で後部座席の扉を開けたのだった。
彼はわたしを見つめつつ、一言も喋らない。察するに、どうやら中にお入りください、ということらしいのだけれど……。
中をそっと覗くと、申し訳なさそうな夜々子さんが、俯いているのが見えた。助手席に少し身を乗り出して、
「堪忍して、一花。なんや大事にしてしもうて、うちはほんまに……」
「夜々子が気にすることじゃないわ。それよりもう少し奥に詰めて、あとひとり乗るのだから」
「え、……え?」
後部座席を開けたのを、一花さんの車椅子を仕舞うためなのだと思っていたのかもしれない。夜々子さんは慌てたように、開いたドアの方へ、わたしの方へと顔を向けた。
「えっと、お邪魔、します」
わたしは小さな声で言った。
「あなたを助けてくれた子よ。今までずっと残っていてくれていたの。夜々子もお礼を言って」
「あ、ええと、……もう、一花、何も言うてなかったやない。あの、その……」
「お礼」
一花さんがぴしゃりと言った。
「ありがとう、ございます……。お嬢さんは学生さん、でしたのでしょう。これからお家にお帰りにならはるんですか? 遅うなってしもて、ほんまに申し訳ないことで……。一花が車に乗る言うてましたけど、途中までご一緒しますんやろか」
夜々子さんが窓際に寄って、手で探るようにしながら、シートベルトを締めた。
「それが……、なんと言いますか」
わたしも車に乗り込みながら、その広い車内に圧倒されながら、小さな声で状況の説明をしようとした。でも、夜々子さんの質問に、どう答えたらいいのかわからなかった。すると、
「今日はわたしたちのところに泊まってもらうわ。ね、遊崎さん?」
一花さんがおもむろに言った。
「へ? ……えっ?」
「一花、ちょ、なに言うてはるの?」
泊まる? 泊まるってどういうことだ?
見ず知らずの人の家に行くのだって恐ろしいのに、それに、それにわたしの荷物はすでにホテルに運び込まれている。替えの下着も、タオルも、なにも手元に無いというのに。
「困ります。わたし、みんなのところに帰らないと」
「そうやよ一花、……無茶なこと言うたらあかんよ」
一花さんは助手席から振り返ると、困り果てるわたしたちを見つめて、目を細め、くすくすと笑った。
「だって、もう決めてしまったんですもの」
そして、出して、といつの間にか運転席に座った執事風の男に言った。
車が夜の獣のように静かに走り出して、病院の敷地を抜ける。わたしも慌ててシートベルトを締めた。
京都の街には雨が降り出していた。
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