7月9日・土「暗黒星」
今年の梅雨明けが早かったせいだろうか。もう気が早い蝉の声が聞こえる。
その合間に、ちゃぷ、ちゃぷ、という水の音が、船の中にいても耳に届いてくる。穏やかな流れにゆれる船の側面を川波が洗っているのだろう。
どこから這ってきたものなのか、蔀の隙間から射す陽の光が船内にやわらかな影を作り、ゆらめている。通り抜ける夏の川風も程よく涼しくて、気持ちがいい。見回せば、この船の中は相も変わらず雑多で、ごちゃごちゃしていて、……でも、何故だか不思議と心が落ち着く。それはまるで玩具やぬいぐるみ……好きなものに囲まれて、ゆりかごの中で眠る赤子の気分に近しいような、そんな気持ち。
リューシカは赤いフレームの眼鏡の奥で目を細め、わたしにその真剣な横顔を見せつつ、船室の奥で、ひとり静かに機を織っていた。小さな頃、母に読んでもらった絵本の鶴の恩返し、そのものみたいな光景で。たん、たん、ぱたん、さり、さり、ぱたん。そんな音を立てながら。
……もっともこれが鶴の恩返しなら、こうしてまじまじとわたしが見ていることは、禁忌になるのかもしれないな、と。
そんな取り留めのないことをふと思う。
でも、リューシカが鳥になって飛んで行ってしまう様子はなくて、それが嬉しかったり、少し残念だったり。彼女の隣の文机にはいつも愛飲している、不思議な金眼の模様が描かれた洋酒の瓶がこちらを向いて置かれている、時折思いついたように手を伸ばす傍らのグラスの氷は、すでに溶けてなくなっていた。
薄手のひらひらとした、背中の大きく開いたキャミソール姿で淡々と機を織るリューシカの姿は、艶めかしくも神々しい。ショートパンツから伸びるつるりとした脚が、少しだけ窮屈そうに見えた。足の爪の形は今日も綺麗。彼女の所作には、一つも無駄がない。リューシカが時折手を大きく動かすと、背中にまします白蛇の赤い眼が、きょろきょろと視線を動かして、わたしをにらんだ。まるでわたしとの距離を測りかねて、つい、威嚇してしまうように。
左耳のピアスの鎖が、その先の丸い宝石が、今日もちりちりと光っている。
お互いにマスクはしない。わたしはいつものように、制服を……衣替えも済んだので夏の制服を着ている。
「見ていても面白いものじゃないでしょ」
リューシカが
今、リューシカの手と指とで織られているのは、まだ糸の段階では染色されていない、三丈二尺の反だった。
純白に見えるが陽の光に透かすとほんのわずかに青みがかっているのがわかる。とても薄くて軽くて、羽衣というものがもしも本当にあるのだとしたら、まさしくこんな感じなのだろう、と思える代物で……。
ああ、そうか。だからわたしは鶴の恩返しのことを思い出したのかもしれない。それとも天女と関連付けたのだろうか。でも、どちらの物語も、最後は、
「……花?」
「え? あ、ううん、ごめんなさい。ぼーっとしちゃって。退屈なんかじゃないよ。リューシカのことを見ているの、楽しい」
リューシカが小さく苦笑した。手を休めてグラスを取り、お酒を飲んだ。
リューシカの灰色の髪が、彼女の耳の奥で、さらさらとゆれた。
どうしてこの人の所作は、いつも、こんなに綺麗なのだろう。
この船に何度も、何度も出入りするようになって、それでもまだ、わたしはリューシカの持つ根源的な美しさに、慣れることができない。
「わたしの方こそ邪魔してない?」
わたしは訊ねた。
「『じゃまと言えばじゃまだけど、幸せと言えば幸せ』、って言うじゃない?」
「……よしもとばななの『みずうみ』に、そんなフレーズがあったね」
わたしは言った。言ってから、少しだけ、胸の底が疼いた。甘い痛みに痺れた。
「あら、詳しい」
と、リューシカが少し驚いたように笑った。そして何の気なしに、こちらを見た。
その通りよ、花はあの小説を読んだことがあるの、という問いかけに、わたしは、うん、前にね、と。うつむきがちに答えた。覚えているのには、それなりの理由が、あるのだけれど。
リューシカは部屋を見回すまでもなく、読書家だ。わたしが同じ本好きなので、嬉しいのかもしれない。もっとも、川風にさらされた彼女の本はみんな波打っているから、本自体を大事にしているとは……あまり言えないのかもしれないが。
「でも、あの小説の中からこんな些細なフレーズを覚えているなんて。花は不思議な子ね」
リューシカが居住まいを正し、手を伸ばしてわたしの髪に触れた。わたしは黙ってそれを受け入れていた。そして思った。
……あれはいつ、と。
わたしはまだ小学校の低学年の頃で、台所で料理をしている母の周りで、何かお手伝いできないかとうろうろしていて。でも、母は何も言わず、てきぱきと包丁を使っていた。お皿の用意も済んでいた。鍋がことことと音を立てていた。カレー粉を入れる直前の、野菜の煮える匂いがした。最初から父はいなかったけれど、取り立てて寂しくなかったあの日々。こんなに困窮する前のあの日々。母が苦笑しながら、だいじょうぶだから花は早く宿題しちゃいなさい、と言った。わたしは少し不安になって、小さな声で訊ねた。
『ねえ、お母さん。わたし、邪魔?』
「花に一つお願いがあるんだけど、いいかしら?」
急にリューシカに声をかけられ、わたしははっとして、慌てて顔を上げた。いけない、またぼーっとしていた。
「えっと、何? わたしでできることなら、なんでも遠慮なく言って」
いつの間にかリューシカの右手はわたしから離れていた。氷の溶けたグラスを持って、軽く左右に振っている。
「氷、貰ってきてくれると嬉しいな」
「母屋?」
「うん。メアリーとシェリーによろしくね」
わたしは苦笑して、空になったアイスペールを持ち、船を出た。地面に降り立つと、まだ体が波のゆれを覚えていて、歩くのが少し、おぼつかない。
わたしは立ち止まり、生暖かい風が畑に乱立する桑の葉をゆらしているのを、ぼんやりと見ていた。青々とした葉が夏の陽射しを受け、とても生命力に満ち溢れて見えて、なんだかそれが、少しだけ煩わしく思えたのだ。体の動きが鈍るような感じ。まるで、ぬるい水たまりの中にいるみたいな。
……リューシカと会っているといつも、彼女の活力のような何かがわたしの方にも流れてくるのを感じるのだけれど、元来のわたしは内気な日陰植物なので、太陽光の下の元気すぎる緑は、いささか眩しすぎるのだ。
母屋にお邪魔すると、むっとするような、なまぐさいような、変な匂いがした。これはあのふたりが塩漬けにされた繭を煮ている匂いで、いつまで経っても慣れることができない。桑の葉を刻む匂いもそう。だから、母屋に足を踏み入れるのは、本当は少し、嫌なのだ。
「あら、花ちゃん。何かご用?」
「リューシカから頼まれごと?」
右さんと左さんは揃いの、薄織りの着物姿できびきびとからだを動かしながら、わたしに気づいて声をかけてくれた。おふたりとは、すっかり顔見知りになってしまった。
板張りの部屋に置かれた、大きな鍋を前にしているのに、動き回っているのに、ふたりとも汗ひとつかいていない。同じ黒の絽の着物が透けて、下地に赤い彼岸花が咲き乱れていた。まるで、闇夜の中で、妖しく花が咲いているみたいだ。
「リューシカのお酒の氷が、なくなってしまって」
わたしは言って、アイスペールを差し出した。
「台所にあるから、持って行って」
「冷蔵庫の中から、好きに取って」
「ありがとうございます」
右さんと左さんが同じ顔で、同じように首を小さく横に傾けて、にっこりと笑った。
そしてふたりはまた、繭から糸を取る座くりの作業に戻った。その所作はやはり、全く同じものに見えた。
美しい事物は、時に残酷なものの上で成り立っている。
そのことを、わたしはもう、ずっと前から知っている。この家の絹もそう。ひとつの繭から取れる糸は、ほんの些細なものだ。だから。
……リューシカのあの美しい織物は、いったいどれだけの命の上に成り立っているのか、計り知れないのだ。そう思うと少しだけ切なくなった。
台所……なんとまだ竃が現役で活躍している……に入ると、荒神が祀られている黒々とした柱の下に、古めかしいけれどとても大きな冷蔵庫が鎮座している。冷凍スペースの製氷皿を両手でひねり、ぺきぺきと氷を取り外して、わたしは持ってきたアイスペールの中に落とした。氷は白く濁っていて、少しだけ水道水の匂いがして、ざらざらと音を立てた。外を流れる川の方が、よほど水の匂いがする。
以前一度、氷を作るなら井戸水を使えばいいのに、とリューシカと話したことがある。機織には利用しているのだから、と。けれどこのあたりは海からそう遠く離れていないせいで、地下水にはわずかながら塩分が混ざってしまうのだという。だから、飲み水には適さないらしい。
灌漑が進んだおかげでお米も取れるようになったけれど、昔はずいぶんと痩せた土地だったそうよ。そのせいなのかしら、このあたりは以前から養蚕が盛んだったみたい。近頃ではそんな農家もほとんどなくなってしまったけれど。ここの川向かいに二十三夜塔の石碑があるのだけれど、それだって、蚕がちゃんと育ちますように、って。願掛けなのよ。養蚕でしか人が食べていけなかったの。お米が採れるようになるまで、それはそれは長い時間がかかった。この町の名前が「閖」と言うのはね、町全体に水路が走っていて、水を囲っているからなのよ。
だから、この町には水の匂いがするのね。
まあ、今ではその掘割もほとんど用をなさなくなってしまったわけだけど。観光用の舟遊びの船が、時折お客を乗せて、浮かんでいるだけで、ね。
「でも、水がわたしを、リューシカまで導いてくれた」
わたしがそう伝えると、リューシカは何も言わず、ただ、わたしの髪を撫でた。わたしは目をつむって、その指先の動きを、少しだけくすぐったく思っていた。
水に囲われた町。
水を囲った町。
その町の中で、船の中に囚われたリューシカは、……いったい何者なのだろうか。
彼女に関して疑問に思うこと、不思議だと感じることはいくらでもあった。でも、わたしはリューシカに直接、訊ねる気にはならなかった。
わたしが口にしたら、あるいは魔法のように、リューシカという存在自体が消えてしまうかもしれない、と思ったのだ。
船に戻るとリューシカが、緋色の布団の上でしどけなく身を横たえていた。カップ付きのキャミソール……たぶん本当は、ベビードールなどと呼ばれるものなのだろう……の肩紐が腕の方まで落ち、片方の胸が半分くらい露わになっていた。あ。胸のあんなところにほくろがある……。リューシカの首筋にうっすらと汗が浮かんでいる。眼鏡は外されていて、灰色の髪が少し跡のついた頬に張り付いていた。
それはあまりにも美しい情景。
美しすぎて、少しだけ、わたしは目のやり場に困った。
「もうお仕事しないの?」
「ちょっと休憩。腰が痛くなっちゃって」
「……さすってあげようか」
わたしはアイスペールを文机の上に置き、リューシカに訊ねた。
「ふふっ、お願いできる?」
「どうして笑うの。ほら、……うつ伏せになって」
リューシカがうつ伏せに体の向きを変えると、背中の白い蛇が、まっすぐにわたしを見上げる格好になった。わたしはその赤い目を見据えたまま、ゆっくりとリューシカの腰に手を当てた。
「前に腰をさすってくれたのは、わたしが生理になったときだったわ」
リューシカが枕に顔をうずめながら、小さな声で言った。
「そう、だったかな」
わたしは曖昧に答えた。でも、本当はわたしだって、はっきりと覚えていた。あんなにドキドキしたことは、生まれてから一度もなかったから。
わたしは男も女も、嫌いだった。人間なんて大嫌いだった。……はずなのに。
「覚えてないの?」
リューシカがちらりとわたしを見た。
「初めてキスした日なのに」
「……そういうこと言わないでよ」
「どうして?」
「恥ずかしい」
リューシカが枕に顔をうずめたまま、くすくすと笑った。わたしは多分、傍目に見たら、顔を真っ赤にさせていたことだろう。リューシカがこっちを見ていなくてよかった。そう思いつつ、彼女の腰をそっと、さすり続けていた。
……どうしてだろう、リューシカと触れ合うのは、好きだと思う。ううん。……好きなのだ。
時折蝉の声がした。
水音が規則的に、船の壁面から聞こえてくる。
アイスペールの中の氷が緩んで、からり、と小さな音がする。
キス以上のことは、していない。それ以上のことをリューシカとしている自分は、想像がつかない。それでも、こうやって肌と肌を合わせていると、不思議な気持ちになる。
リューシカ以外の人との接触は、未だに苦手だ。リューシカとだけ平気な理由は、わからない。
わからないことにかこつけて。以来、リューシカの船に、入り浸っている。こういうのも、恋人関係……付き合っていると言うのだろうか。よくわからないけれど。
「そうだ、花。ギター弾いてみる?」
リューシカが突然起き上がって、不意にそんなことを言い出した。
「え? ……わたしが?」
「うん。教えてあげようか。花が弾けるようになったら龍琴と合奏できるじゃない?」
「でも、わたし不器用だから……」
いいからいいから、ほら、こっち来て。リューシカはわたしを立ち上がらせると、部屋の隅に手を引いていった。そしてわたしを座らせ、後ろから抱きしめて、ギターをかかえさせた。右手は、ここ、コードはこの指……お酒の匂いと、甘いリューシカの香り。背中に当たる彼女の胸の温かさ。……正直、運指を覚えるどころの話じゃなかった。
「無理。やっぱりわたしには無理」
いろいろ限界で、わたしは小さな声で抗した。
「そう? 残念」
リューシカはわたしからギターを引き取って、弦をつま弾きながら、英語の歌を歌い始めた。優しく、儚げな声。……なんて曲?
「ビートルズの『In my life』って曲。この歌好きなの」
「……わたしも好き。好きになった、かも」
「じゃあ、今度また練習しようね」
リューシカは笑顔を浮かべ、ギターを元の位置に戻したあと、再び横になってしまった。わたしは所在なさげに、そのまま座り続けていた。
わたしたちはゆらゆらと水の上で揺れながら、ただ、時が経つのに身を任せ、互いが互いに、何か別々のことを考えていたんだと思う。
……どのくらいそうしていただろう。
「そういえば、再来週だった? 一泊二日って言っていたよね」
リューシカがくぐもった声で、ふと、そんなことを訊ねた。
「京都のこと? 再来週だったかな、学期末のテストのあとだから……」
「勉強は教えてあげられないけど、がんばりなさいね」
「うん」
「京都はテストのご褒美なのね」
「そうかな」
「そうよ、きっと。あ、わたし、お土産は八つ橋がいいな」
リューシカがくすくすと笑っている。でも、わたしが手を止めてうつむいたまま、黙っていると、
「……花、本当は行きたくないんだよね。でもね、わたしのためと思って行ってきたらいいんだわ。きっと新しい出会いだって、あると思うから」
「新しい出会い?」
「そう。ただ、渚には気をつけなさいね」
「……渚って何よ?」
「何かしら」
「何かしらって、リューシカはいつもそう、いい加減なんだから」
「たぶん、暗黒の星だと思うんだけど」
リューシカの言うことは曖昧で、時々予言じみていて、よくわからない。わたしはそれ以上質問するのを諦めて、完全に手を休め、彼女の腰の上に、そっと自分の頭を乗せた。
背中の蛇が平面的で静かな、それでいてい鋭い視線で、わたしを見ている。
「花は甘えん坊なのね」
「重くない?」
リューシカがわたしの頭に合わせて、少しだけ腰の位置を直した。
ただ、それだけだった。
「わたしね、……わたしのうちね、とても貧乏なの」
わたしは言った。
リューシカの背中から、甘い匂いがする。
白い蛇がじっと、わたしを見ている。
「お餞別が欲しい?」
「そんなつもりで言ったわけじゃないわ」
わたしはリューシカの背中を軽く噛んだ。
リューシカがぴくん、と肩を震わせた。
「黙って聞いて。……わたし、わたし自身が嫌いなんだ。この制服も嫌い。学校なんて大嫌い。あんな高校、受験したくなかった。でもね、成都御心女学館は、母の母校なの。母はどうしてもわたしを入学させたかったの。意味わかんないよね。入学金は高いし、授業料も高いし、寄付は多いし、周りはお嬢様ばかりだし、奨学金が取れるほどわたし、頭良くないし。本当は入試の時、わざと落ちればよかったんだ。そうすればこんな思いをすることもなかったのに。……母はね、わたしの学費のために働きづめになった。いつも疲れた顔をしているよ。要領が良くないから、男にも騙される。わたしにだってとばっちりがくる。酷いことも色々された。口にできないようなこともされた。みんな馬鹿。馬鹿ばかり。嫌い。……わたし、わたしが大嫌い」
わたしは気付いたら泣いていた。
唇を噛み締めて、リューシカの背中にしがみついていた。
何を言っているのか途中からよくわからなくなり、嗚咽だけが口からこぼれた。涙が後から後から流れてきて、リューシカの背中を濡らしてしまった。
「ねえ、花」
身じろぎもせず、小さな声で、リューシカがわたしの名前を呼んだ。
「わたしはあなたのお母さんじゃない。わたし、あなたのお母さんには成れないわ」
「知ってる」
わたしは言った。
「知ってるわ」
アパートの部屋に、明かりがついていた。人影が動いているのが見えた。
まだお店に行かないのか、と一瞬思ったが、そういえば今日は土曜日だった。スーパーのレジ打ちの日だったことを、わたしは失念していた。
今、目は赤くないだろうか。こんなときに母と顔をあわせるのは嫌だな、と。少しだけ母を恨む。わたしは何度か深呼吸をして、
「ただいま」
立て付けの悪い玄関のドアを開けた。
「あら、お帰りなさい」
母が珍しく、狭い台所でコトコトと鍋を煮ていた。
カレー粉を入れる前の、野菜の匂いがした。
「ごめんなさい、遅くなっちゃった」
「ううん。それよりなあに、制服なんて着ちゃって。学校?」
「……うん。勉強してた」
わたしは真顔で嘘をついて、小さく笑った。
「そう。学校は楽しい?」
母が鍋の中を見ながら、わたしを見ずに、訊ねた。わたしは小さな笑顔を貼り付けたまま、楽しいよ、と返した。
「お母さんが料理してるの、珍しい」
わたしは言った。男が来ているときは、母は料理なんてしない。女の嫌な匂いだけをさせて、濁った目で男を見ているだけ。
最近また、付き合いだした男がいるらしい、というのはなんとなくわかっていた。まだ、家には連れてきていないけれど。そのうちこのアパートに、当たり前の顔をして、入り浸るようになるのだろう。
今までの男たちと、みんな同じだ。
「そう? そんなに珍しいかしら」
ちらり、と母がわたしを見る。目と目が合う。
カレーの、その前段階の、匂い。
どうしてだろう。なぜだか泣きそうになってしまった。
薄暗い台所で見る母の姿は、みすぼらしい。首に寄ったシワや、やつれた表情、肌だってずいぶんくすんでいる。光線のせいか、黄色味がかってさえ見えた。もともとお酒だって強くないはずなのに。母からはいつも、いつまでも、アルコールの匂いが消えない。
そこまでして、あの学校に固執する理由がわたしにはわからない。どうしてわたしをあそこに通わせる必要があるのか。
聞けばいいのだろうか。聞けばよかったのだろうか。こんな風になる前に。
「再来週、京都ね」
母が言った。
「着物、どうする?」
京都のマナー講習では、着物の着付けも含まれていた。礼法の授業用に誂えさせられたポリエステルの
わたしがそう言うと、
「あら、あの着物じゃ京都の夏は暑すぎるわ。それにクラスメイトの子も、ここぞとばかりに着飾ってくると思うわよ? ふふ、懐かしい。わたしの頃もそうだったな。……そうだ。絽か何か、新しく夏物を誂えましょうか? 小物も必要よね?」
わたしは母の言葉に唖然として、何も言えなかった。
どこにそんなお金があるの、と叫びたい気持ちを無理やり押し殺して、奥歯を噛んだ。
母の気持ちはとても嬉しい。体が、切り裂かれるぐらい嬉しい、のに。これ以上わたしのために身を粉にするつもりなのか、それとも付き合いだした新しい男にたかるつもりなのか。今までだって逆に、いいカモにされてきたのに、まだわからないのか。そんな怒りの感情の方が、強く、心を支配していた。
わたしは母の、こういうところが、大嫌いだった。
天真爛漫で何も考えていなくて、あとになって悔やむ。何も学ばない。その繰り返し。元々はいいところのお嬢様だったらしいのに、どうして……いや、この性格だったから、こういう人だから、墜ちるところまで堕ちたのだ。
「……大丈夫だよ。そんなことしないでいいから。着物を着るのはマナー講習の……お食事会のときだけだから」
そしてそんなことしか言えない自分自身が、わたしは本当に、大嫌いだった。
母の横を通り過ぎて、わたしは自分の部屋に戻った。制服を乱暴に脱ぎ捨て、下着姿になった。そのまま無力な自分が情けなくて、嫌な気持ちに苛まれていると、お風呂入っちゃいなさいね、という母の声が聞こえてきた。無邪気な、声だった。
早く母を開放してあげたい、という気持ちと、こんな場所から早く開放されたいという気持ちがぐちゃぐちゃに入り混じって、気が狂いそうだった。
たぶんあの人は、わたしに遠い過去の自分を見ているのだ。順風満帆だった頃の自分を重ね合わせているのかもしれない、と考えると、悲しかった。
鞄の中でスマホが震えた。
なんだろう、と思い、しゃがみこんで取り出して見てみると、任那が新しい小説を投稿サイトにアップしている、その通知だった。
ついこのあいだ『さんざめく、しじまに』を完結させたばかりなのに。もう、新しい小説をアップしているなんて……。胸が興奮に高鳴り、指先が震える。画面をタップするのももどかしい。
慌ててタイトルを確認する。そこには『ある日、渚が落ちてきて』と書かれていて。
取り憑かれたように冒頭の部分、数ページを読み終えたわたしは、下着姿なのも構わずに自室の窓を開けた。そして頭上の暗闇に目を凝らした。
湿気の多い夏の空には、ほとんど星なんて見えやしない。
ましてや、暗黒の星なんて、そんなものが夜の闇の中に見えるはずもないのに。
そもそも存在するはずが、ないのに。
わかっている、わかっているのに、わかっているからこそ、わたしは激しく混乱した。
誰?
……任那は、誰なの?
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