6月14日・火「羽化する恋人」
長い雨の季節を抜けると、回廊式の中庭の緑は一段と濃くなった。中天を過ぎたばかりの陽射しは強く、刺すようで、まるでもう夏のそれに近い。
成長して、迷路のようになった、様々なグラデーションの緑の中を、わたしは少し汗ばみながら進んでいく。花の盛りを終えた蔓薔薇のアーチの陰で、見知った顔の少女がベンチに座っているのが見えた。耳にイヤホンをしたまま、サンドイッチを食んでいる。
「ごきげんよう」
と声をかけると、彼女は一瞬胡乱な目でわたしを見て、それからいそいそととイヤホンを取った。
「ごきげんよう、お姉さま」
口の中のものを飲み下して、彼女は小さくお辞儀をした。
「何かご用でしたか」
座ったまま上目遣いに見るその視線が、冷たいと感じることもあったけれど。彼女の鋭い目も、ぶっきらぼうな物言いも、初めからわたしは嫌いじゃなかった。
「一緒にお昼を食べようかと思ったのだけれど。お邪魔だった?」
「いえ。でももうすぐ食べ終えてしまいますが」
それでもよければ、と。彼女はお尻の位置を少しずらして、わたしのためにスペースを空けてくれた。
彼女の座っていた場所が、まだ、ほんのりと温かかった。
「ありがとう、沈花」
沈花はちらりとわたしを見て、何かを言いかけ、けれどもまた、無言のままサンドイッチに口をつけた。口の端に玉子の具の、黄色い色が付いていた。
わたしは自分のマスクを外しながら、ここ、ついてるよ、と、自分の唇の端を指先でつついた。
「ここ、ですか」
「ううん、反対」
「……取れました?」
「うん」
たわいのない、姉妹の会話。
……姉妹か、とわたしは思った。こんなわたしにも妹ができるなんて、一年前は想像もしていなかった。もっとも、ちゃんとした姉になれている自信なんて、今も、これっぽっちもなかったけれど。
ちらりと沈花の横顔を見ながらわたしも自分のポーチからおむすびと水筒を取り出して、ベンチの上に置いた。
「お姉さまはいつもおにぎりですね」
「自分で用意しなきゃいけないから、どうしても簡単なもので済ましてしまうのが癖になって。沈花は購買部のパンばかりだけど……栄養足りてる?」
沈花は微苦笑して、それなりに、と答えた。そして少し視線を上にあげて、花の終わった蔓薔薇の葉を見ている。
彼女はいつも、……雨や雪でも降らない限り、この場所でお昼を食べている。お気に入りの音楽を聴きながら、誰にも邪魔されないようにして。
わたしは時々彼女と一緒に、ここでお昼ご飯を食べる。
沈花にとってわたしは闖入者のはずだが、あまり邪険にされたことはない。わたしが姉だから、ということもあるとは思うけれど、多分、互いに疎外された者なのだという共通項、共通意識があるからかもしれない、と思っている。
さわさわと、六月の心地よい風が、沈花の短い髪を撫でていく。なんの花の匂いだろう。南国のエッセンスの、少しスパイシーな甘い香りがわたしの鼻の奥を刺激した。
「ブロックの栄養食品とか、まあ、いろいろ、休み時間に食べてますので」
沈花がぽつりと言う。さっきの続きみたいだった。
「そうなの?」
「はい」
まあ、そうじゃなければその身長に見合ったカロリーは得られないだろう、などと思いつつ、わたしも自分で握ってきたおむすびに、口をつけた。中身はいつも一緒。梅干し。それから鰹節。ただそれだけ。別に両方、とりたてて好きなわけじゃないけれど、梅干しには防腐効果があると聞いたので。それから鰹節は出汁に使った残りが使えるから。いつもおむすびの具材はその二つだ。それに、……お昼ご飯のことまであれこれと考えるのは、正直面倒くさい。
重なり合う葉のあいだから、木漏れ日が降り注いでいた。沈花の髪や日に焼けたうなじを、まだらに染めている。風が吹くたびに、光の点が彼女の上でゆれた。
「お姉さまこそ、おにぎりばかりで。栄養が偏りませんか」
沈花の言葉に、わたしは、おむすびが好きなのよ、と嘘をついた。お家ではちゃんと、栄養のあるものを食べているから。わたしは大丈夫なの。
「そうですか」
と沈花はぽつりと言って、また自分の食事に戻った。わたしの嘘には、多分、気づいていない。
しばらくは無言の時間が続いた。
風がやさしかった。緑を揺らし、わたしたちのスカートの裾を、そっと、くすぐるように撫でていく。淡々とした光の粒が、それに釣られたみたいに、回廊のあちらこちらで踊っている。
ぺこ、と音がした。見ると牛乳の紙パックを握りつぶして、沈花が白いビニール袋にゴミをまとめていた。カサカサ、と小さく、少し耳障りに擦れる音がした。
「お姉さま」
「うん?」
「わたしには、小説なんて書けません」
沈花が……やっぱり何か察したのだろうか、わたしの顔を見ずにそう言った。
「今日はそのことでいらっしゃったのでしょう? お姉さまは以前、書きたくないならそれでもいい、とおっしゃってくださいました。……部室に顔を見せる必要もない、とも。それに甘えてしまっている今のこの現状はわたしの……我が儘でしょうか」
「そんなことないわ」
わたしは沈花の横顔を見ながら言った。
「わたしにも、小説なんて書けない。何を書いたらいいのかわからないもの。わたしのお姉さまには、今度の成都祭に部誌を出したい、小説を書いて欲しいって言われているのだけれど。でも、わたし、何を書いたらいいのかわからないの。書きたいものが、わたしには……ないから」
沈花がわたしを見た。
切れ長の涼しげな瞳が、切なそうな色を帯びていた。
「去年」
と、沈花が言った。そして少しのあいだ押し黙った。沈黙が続いた。
「……お姉さまがお書きになった幾つかの書評を読みました。わたしは、あの部誌に掲載されたどの小説よりも……お姉さまの文章が好きだと思いました。切実さを感じました。それでも、小説は……お書きにはなれないのですか」
今度はこちらが鼻白む番だった。わたしは何も言えず、去年小説から逃げるようにして書いた、読書感想文みたいな拙い文章を、あの堕落した羊のような文章のことを思い出していた。
沈花が部誌を読んだのは、わたしの妹になってからだと思うから、多分に妹の欲目もあるのだろうけれど。でも、あの文章が好き、だなんて。そんな風に誰かに言われたのは初めてで、情けないけれど、少しだけ嬉しく感じている自分がいる。
忸怩たる、というのは、こういうときに使う言葉だっただろうか。
「お姉さまは書きたいものがない、とおっしゃいましたが」
沈花が言った。
風がさらさらと木の葉を揺らした。
「なら、どうして文芸部に籍を置いているのですか」
どうして、と言われても、困る。わたしの場合も沈花と同じで、たまたま姉が文芸部に所属していたから。ただそれだけだった。でも、
「……物語が好きだから」
とわたしは言った。沈花の求めている答えとは違うかもしれない。けれど、最初に本心を、色々なことから逃げている自分自身を披瀝してしまっては、意味がない、と思った。なぜならそれでは根本的な解決には繋がらないから。彼女が自分の居場所に対して感じている息苦しさを、ぬぐってあげられないと思ったから。わたしはさらに続けた。
「誰かが紡いだ、誰かに綴られた物語を読むのが好きだからよ。だからわたしは文芸部にいるの」
わたしは自分のスカートの裾を少し直して、隣でじっとわたしを見つめる沈花の瞳を、見つめ返した。
「今はわたしのところにいればいいと思う。わたしもお姉さまに甘えている身だから。でも、いつか
「けど?」
「あなたの妹になる子の居場所を奪ってしまうわけにもいかないかな、って。最近は思ってる。そのためには、わたしも何か書かないわけにはいかないかなって」
外部生には外部生の妹が宛てがわれることが多い。異端者はあくまでも異端者として扱われるのがここでの通例だ。
「でも、どうしたものかしら。……文章を褒めてもらえたのは嬉しいけれど、わたしは基本的には空っぽの人間だから。書くべき内容が何もないの」
わたしはため息混じりにそう言った。それから残っているおむすびを、ゆっくりと食んだ。沈花もしばらくは所在無さげにしていた。
「……お姉さま」
沈花が意を決したように、わたしをしっかりと見つめた。
不意の強い眼差し、問いかけに、わたしは少したじろぎつつ、小さく首をかしげた。
「さっきお姉さまは、誰かが紡いだ、誰かに綴られた物語を読むのが好きって、そう仰っていましたが……それは、わたしの物語であっても、同じように思ってくださる、ということですか」
「もちろんよ」とわたしは言った。「わたし、あなたの綴る物語を読んでみたい」
沈花は意を決したように、ごくん、と一度唾を飲み込んだ。
「でも、わたしにはそれを文字にする力がありません」と沈花は言った。「ですので……それをお姉さまにお願いすることは、可能でしょうか」
わたしは三たび言葉を失った。それは、とりもなおさず、小説を合作する、という意味だろうか。わたしと沈花で一つの小説を綴る、ということだろうか。
「……そういうのもありかな、って思っただけです。でも、ちょっと、考えておいてもらえると、嬉しいのですが」
沈花がわたしの顔色を見ながら、そう付け加えた。わたしはやってみるのも面白いかもしれないね、と。少しかすれた声で答えた。それ以上は何も言えなかった。
沈花が腕時計の時刻を確認して、一度息を吐き、ベンチから腰を上げた。わたしも一緒に立ち上がった。そうしてみると、妹の身長が、わたしよりも頭一つ分は高いことに嫌でも気づかされる。
ほんのちょっとムッとしているわたしをちらりと見下ろして、少しだけ苦笑して、それから沈花は薔薇のアーチの外に出た。
光のシャワーが沈花を眩しく照らしていた。
アスファルトに影が焼きつくくらいに、濃く、強く。そして、ゆっくりと空を見上げて、
沈花が言った。
「ところであの空に浮かぶ黒い点、あれはいったい、なんでしょうね?」
沈花が去ったあと、わたしは呆然と空を見上げていた。
青い深淵のような空の彼方に浮かぶ、黒い点を見ていた。
あれは、いったいなんなのだろう。ずっとあの場所から動かない、空の黒い点……。
「ぼうっとしてらっしゃるけれど、そろそろ予鈴の鳴る時間ですわよ」
声をかけられて慌てて振り返ると、そこにいたのは一人の女子生徒だった。回廊庭園の中とはいえ、学内だというのにレースの付いた白い日傘を差していて、けれどもそれが全然場違いには見えない。本物の貴族の裔。わたしのクラスメイトの、
「妹との逢瀬を邪魔しちゃいけないかなって思って、しばらく様子を見ていたのですけど……その顔色から察するに、三行半を突きつけられでもしましたの? お顔がまるで白い紙のようですわ」
「……
肌が病的なまでに白いのは、彼女の方なのだが。そうは思っても、口にはしない。艶やかなストレートの黒髪と、口元の黒いマスクだけが、彼女の色だった。
彼女の親は篤志の顕彰で時々名前が挙がる。それほどまでに学院に対する寄付金が多いということは、やはりそれなりのステータスを持っているということで、噂では、ご母堂が公家の血を引いている……とかなんとか。
いやはや、とわたしは内心ため息をつく。
わたしとは最初から、生まれも住む世界も違う人なのだ。
「まあ、破局というのならそれはそれで……面白いのですけど」
「何かご用ですか」
わたしがマスク越しに硬い声で問いかけると、龍烏さんは日傘を優雅な仕草でくるりと回して、今度のお食事会のことなのだけれど、と言った。
わたしは今度こそ本当にため息をついた。それは言わずもがな、来月学期末テストあとで……わざわざ京都で行われる、和食のマナー講習会のことに違いなかった。
学年全体で幾つかの料亭を借り切って、食事マナーの講習を行うというのだから、考えただけでも目眩を起こしそうな話だった。なんでも京都の姉妹校との交流会も兼ねている、ということだったが……。
「遊崎さん、わたくしと一緒のグループのメンバーになりましたのよ。なるべく早くそのことをお伝えしようと思ったものですから」
それはご丁寧に、とわたしは言った。あまり喋ったことのない……というより、わたしと親しく話すようなクラスメイトは元々皆無なのだけれど……相手だったので、わたしは少し気後れしてしまっていた。
「そういえば、わたしたちのグループは『空木』になりそうですわ。鱧がいい季節でしょう? 楽しみですわね」
「……うつぎ?」
「嵐山にある料亭の名前ですけれど。ご存知ない?」
そんなもの、知っていてたまるか、と思ったが、わたしは笑顔を貼り付けたまま、あいにくと、不勉強で。そう、やんわりと答えた。
龍烏さんはわたしに日傘を差しかけながら、それでもわたしの強張った表情には気づかずに、続きは歩きながらにしましょう、午後の授業に遅れてしまいますわ、とあくまでも優雅な口調で言うのだった。
わたしたちはひらひらとした傘の陰で肩を寄せ合いながら、……いささか窮屈な思いをしながら、緑の回廊を抜けていった。季節柄色々な花が咲いているけれど、わたしには薔薇以外の花の名前なんて、一つもわからない。赤。白。薄い紫。ただ、頭の奥を溶かすような、胸の奥を焦がすような、甘い匂いがするだけ。
龍烏さんは、続きは歩きながら、なんて言っていたのに、自分からは何も話さず、前を見据え、終始無言のままだった。衣擦れの音だけが、風が木の葉をゆらす音だけが、耳に届いていて。
いたたまれなくなり、つい、わたしから話しかけてしまう。
「龍烏さんはどうしていつも日傘を差しているの?」
登下校の際も日傘を手放さない彼女のことは、さすがに物珍しく、わたしも少し気にはなっていた。入学当初から彼女は、誰に憚ることもなく、そのスタイルを貫き通していた。もちろん、出自が出自だから……誰も何も言わない、言えないのだろうと、漠然と思っていたのだけれど……。
「あら、日焼けしたら大変だからに決まっていますわ。日光は皮膚のトラブルの元凶ですもの。本当は外で行う体育はすべて見学で済ませたいのですけど……そういうわけにもいかないのがつらいところですわね。ただ、夏でもジャージだと暑くて嫌ですわね。まったく、融通の利かないこと」
わたしはその答えに、いささかあっけにとられてしまった。美、というものは、斯様なものなのか、とも思った。わたしには日焼けを気にして体育をサボるなんて発想は、思いつきもしないものだった。
などと呆然としながら考えていると、
「というのはまあ、さすがにオーバーなのですけどね。でも、紫外線過敏症の
わたしは龍烏さんの横顔を盗み見た。白くきめ細やかな肌は、その内側の骨を透かすほどに美しく、綺麗だった。お化粧して隠しているわけでもないだろうに、シミやソバカスの類いは一つも見えない。毛穴すらないんじゃないかと思えるくらいだった。
「そういえば、あなたの妹は随分と日に焼けていらっしゃったようだけど……何かスポーツでも?」
「さあ、詳しいことは」
「ふうん」
わたしの妹に言及して訊いてはみたものの、龍烏さんもそれほど興味はなかったのだろう。その後はまた無言になってしまった。
そして、なんとなくお互い喋ることもなく、校舎についてしまう。入り口の扉の前で日傘をたたむと、彼女はわたしをちらりと見て、正対し、さっきから少し気になっていたのだけれど、ちょっと失礼していいかしら、と断りを入れた。
「えっと、あの……どうかした?」
龍烏さんはわたしの問いかけには答えず、わたしの首元に顔を寄せると、すんすん、と小さく鼻を鳴らした。そして不思議そうな顔をしていた。わたしは意味がわからなくて、めちゃくちゃ恥ずかしかった。肌が近くて、変な汗をかいていた。
「どちらの香水?」
「え、え?」
「変わった匂いのものをお付けなのね。ああ、先生には内緒にしておきますわ。今度わたしにもどこのお品か教えてくださいね」
そして上目遣いにわたしを見て、龍烏さんが小さく笑った。
……濡れた彼女の瞳は、まるで空に浮かんだ黒い星のようだった。
放課後の部室には、いつもと変わらずわたしと姉の姿だけ。日が伸びたせいで、並んだ本の背表紙に、光の帯が浮かんでいる。部屋の埃がキラキラと輝き、雲母のように瞬いている。
「……合作?」
小さく首を傾げて、姉が訊ね返した。
「ええ、わたしと沈花の。だめですか?」
「だめじゃないけど……どういうお話になるの?」
「それはまだ……。沈花の原案を、わたしが小説に起こす、という感じになると思うのですが」
姉はふうん、とひととき顎に手を当てて考えていたが、
「いいわよ。小蝶がそうしたいのなら」
と言って、わたしに向かって微笑んだ。
「何より、ふたりが小説を書く気になってくれたのが嬉しいわ。……あとは沈花ちゃんが部室に来てくれれば、言うことはないのだけれど」
「それは……」
「ううん、いいの。言ってみただけ。わかっているから」
「すみません」
「大丈夫よ。あなたが謝ることじゃないわ」
姉は優しい。
優し過ぎるのが、たぶん、この人の欠点なのだろうな、と茫漠とした心持ちで思う。
「そういうお姉さまは、どういった作品を書くおつもりですか?」
「わたし? ……うん、そうね」
姉は目を細めて、書棚の方へと視線を向けた。
「わたしが書くとしたら、やっぱりSFかしら」
「去年は確か……ディストピアな感じのお話でしたよね」
わたしは訊ねた。
部誌に載っていたのは、なんとも重苦しい、AIに統治された近未来のお話だった。
三年生たちが綴る華やかな小説の中にあって、姉の小編は救いようのない、暗黒の光を放っていた。……姉の心の内の一端を垣間見たような、遣る瀬ない気持ちになったのを覚えている。
「全部死んでしまうお話がいいかしらね」
姉がまるで夢でも見るように、優しい声でそう言った。
わたしは聞き違えたのかと思って、え、と。小さな声で問い返した。
「ある日、巨大な隕石が落ちてくるの。ツングースカの隕石よりも、恐竜を絶滅させたユカタン半島の隕石よりも、もっともっと大きな。それは地殻を巻き上げて、この世の全てを火の中に閉じ込めてしまう」
「……お姉さま?」
開け放たれた窓から、やわらかな風が吹き込む。
レースのカーテンをはためかせて、姉の横顔に影を作る。
時々同じ夢を見るのよ、と姉は静かな声で言った。
「誰もいない、鳥の鳴き声と下草をゆらす風の音。それだけが聞こえる岬の突端に、わたしは誰かといるのだけれど……その誰かのことが、わたしには思い出せない。わからないの。とても大切な人なんだってことは、理解できているのだけれど。名前も、顔も。夢から覚めると覚えていないのね。わたしは……わたしたちは手を繋ぎながら、海の彼方に落ちる隕石を、ただ、ぼんやりと見つめているの。怖い? 怖いよね、って。囁きあいながら」
帰りの電車の中で、わたしは食い入るようにスマホの画面を見つめていた。
任那が小説の、最終章をアップしていたからだ。
……敵軍が防衛線であった工業地帯を越えた。
首都への侵攻はもはや時間の問題だった。陥落したした街の痛々しい姿が連日のように報道されていた。若い男たちが……女性になる前の少年たちが次々と戦場に赴いていく。戦局は悪化の一途をたどっていた。
逃げよう、と主人公は言う。どこに、と幼馴染が悲しそうに、そして少し苛立たしげに訊ねる。どこにも逃げる場所なんてありはしない。砲撃された溶鉱炉が真っ赤な炎をあげながら夜空を焦がしている。火の粉が闇の中で踊っている。軍靴の音がする。それはもう、幻聴などではないのだと二人ともわかっている。不安。焦燥。あれほど仲のよかった主人公と幼馴染が口論している。思い余って、主人公は幼馴染の「薬」を捨てようとする。わかっている。わかっていた。そんなことをしても何にもならないって、自分でもわかっているのに。主人公は泣きながら「薬」を握りしめる。嗚咽が慟哭に変わる。わかっている。わかっているんだ。彼は……幼馴染は、たとえ自身が女に変わっても、この街から出撃していくだろう。故郷を守るために、愛する主人公を守るために。でも、それは本当に正しいことなのだろうか。幼馴染のいない世界に、何の価値があるというのだろうか。すでに自分は女になっているから守られる側なのか。まだ男の幼馴染は国を、主人公を守らなければならないのか。そんなとき、「薬」の欠陥が見つかる。急造されたものだったから、だけじゃない。彼女たちの世界では、男のまま大人になることができないのだ。大人とはすなわち、女なのだから。男のままでいるということは、人ではなくなってしまうことと同義なのだから。やがて廃人になってしまうことは、初めから決定づけられていた。
わたしも戦う、と主人公が言う。わたしたちはずっと、同じだったのだから。同じものなのだから。一方が一方を守るのも、守られるだけなのも、間違っている。女にだって戦える。男の力、男の論理がなくても戦える。だから「薬」を使うのはやめて。それであなたの力が弱まるのだとしても、わたしたちなら互いに補い合える。主人公の濡れた頬を、幼馴染の指がやさしく拭う。小さく頷く。まぶたを閉じる。唇を重ねる。今は男と女だけれど、また、同じものになれる。幼馴染が言う。わたしたちはまた同じものになって、いつまでも愛し合いましょう。と。主人公は頷く。ずっと、ずっと、幼馴染が自分と同じ気持ちでいてくれたことが、嬉しくて。……やわらかな繭を静かに見つめながら、これで良かったのだと主人公は思う。繭の表面に指先を這わせる。そっと目を瞑る。もうすぐ、幼馴染が羽化する。敵はすぐそこまで来ている。絶望的な状況は何も変わっていない。銃声。キャタピラーと飛行機械の轟音。悲鳴と怒号。建物が壊れていく。日常が壊れていく。その音が聞こえる。戦火は、戦禍は、やがて彼女たちを、彼女たちの街を、燃やし尽くしてしまう。でも、主人公は、じっと目を瞑りながら思う。想像する。
愛しい愛しい幼馴染が、大人になった姿を。
自分と同じものになった、彼女の姿を。
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