6月11日・土「メアリ・シェリの双子たち」

 朝から雨が降っていた。梅雨特有の音のない雨が暗いアパートを包んでいる。湿気がひどくて、畳からは饐えた匂いがした。

 母はもうスーパーのレジ打ちのパートに出てしまっていた。隣の、居間と兼用になっている母の六畳間はもぬけの殻だった。

 寝乱れたままの布団がそのままになっている。母の不在を物語るように。母とわたしの時間が、決定的に合わない、その証左のように。

 わたしは……自室である奥の三畳間の……薄い布団の上で体を横たえたまま、スマホから目を離して、ふすまの隙間から覗くそんな母の部屋を見て、小さなため息をついた。

 テレビも新聞もない生活の中では、雑音混じりのラジオを除けばスマホは唯一の情報源で、そしてどうしようもなく目にしたくないものに囲まれている状況に倦み、嫌気がさしていて、だからわたしは依存してしまったのだろう。気づくとスマホばかり覗いている。

 もっともトピック的なネットニュースよりも、わたしが興味あるのは情報の奥底に流れる雑多な物語の川だった。流行りによって姿を変え、けれども色あせずにきらきらと光り輝くもの。忘却の海に向かって流れ続ける夢の残滓。わたしはその川の流れの中で、ネット小説家の任那と出会えた。それは本当に奇跡のような出会い。

 推しが更新した小説の新たな章を読み終え、けれどわたしは、少しだけ困惑していた。戸惑っていた。

 BLともGLとも判別がつかない小説『さんざめく、しじまに』は、今や当初とは違った様相を呈しつつあった。

 SFチックな恋愛小説だったはずなのに、物語の中では戦争の足音が聞こえ始めていた。

 戦争。兵士に必要なのは力。純粋な力。暴力。男の人の「力」。十八歳を過ぎたらやがて女性に変わってしまう世界で、それでもなお、求められるのは雄の力だった。

 政府は女性化するのを遅延させるために、少年たちに「薬」の投与を奨励し始める。主人公の幼なじみにもその通達が来た。そして幼なじみは主人公が止めるのも聞かずに「薬」を使い、男のまま十八歳の垣根を越えた。

 先に女性に転じている主人公は懊悩する。煩悶する。今までのように幼なじみを自分の性と同じと見て愛すべきなのか、それとも異性と見て愛すべきなのか。……ふたりのあいだに、子を望むべきなのか。

 愛する幼なじみはやがて戦地に赴くだろう。帰れないかもしれない場所に。そのとき、自分と幼馴染みのあいだには、いったい何が残っているというのか。

 少年時代の淡い同性愛は、大人になっても変わらずに、女性同士の同性愛へと移行するはずだった。子どもはいらない。自分たちだけでいい。同じ性だからこそ分かり合えることがある。その関係が変わってしまうのは嫌。ふたりは……少なくとも主人公は、そう思っていた。

 なのに。それなのに。

 世界が、情勢が、彼女と彼を許さない。

 わたしは窓ガラスを伝う水滴を見ながら、もう一度ため息をつく。

 リューシカはこの物語が幸せな結末を迎えると言ったのに。

 物語がこの先どう転んでいくのか、全然予測がつかなかった。「故郷が火に包まれる光景を、何度も、幾度も夢に見た」と幼馴染みは言った。主人公は杞憂だと笑った。でも、本当は気づいている。今日にも、明日にも、敵国の軍隊が攻めてくるかもしれない、と。

 ……本当に甘エビなら良かったのに。

 甘エビの国には戦争なんてないはずだもの。

 自分たちの雄性成熟の体を、どうしようもない現実を、そんな風に笑う幼馴染の姿は、とても悲しい。

 わたしは勢いをつけて布団から起き上がってスマホで時間の確認をした。それからパジャマ代わりに着ていた中学時代のジャージを脱いでキャミソール姿になり、洗面台の前に立った。

 母の雑多な化粧品が散らばっている。それを横目に見ながら、わたしは自分の髪に櫛を入れ始めた。

 鏡の中の自分を見つめながら、唐突に、わたしは、リューシカに会いに行こう、と考え始めていた。傘を返しに行ったのが先月の二十二日だから、約三週間ぶりの逢瀬、ということになるだろうか。

 母が売れ残りの惣菜を持って帰ってくるのは日が落ちてからだから、それまでに戻れば特に問題もないはずだった。

 前回は……先月二回目に会ったときは、リューシカはまるでわたしが来るのをわかっていたみたいに、川面を見つめながら船のへりに腰を下ろして、待っていいてくれた。今日あたり来ると思ったの、と言いながら。船内にお茶とお菓子の用意までして。最初に会った日と同じように、結晶化した虹のような色のピアスを左耳に吊るし、赤いフレームの眼鏡をかけて。そして帰り際には、またいらっしゃい、と微笑みながら言ってくれたのだ。……わかっている。それがお世辞や常套句のようなものだってことくらい。でも、期待してしまう言葉だった。わたしはやっぱりリューシカと会うと緊張してしまって、どんな話をしたのかなんてあまりよく覚えていないのに、……その言葉だけは嫌なくらいしっかりと耳に残っていた。

 あの、晴れた日曜日。緑色の風と、甘い植物の香り。そして、町を覆う濃い水の匂い。それらが甘酸っぱい思い出となって、わたしの胸の底に残っていた。

 閖町はやはりどこを歩いても、水の気配が漂う場所なのだ。どの路地を歩いても、どの角を曲がっても、常に水の流れる音がしていた。

 あの気配が、音が、匂いが、今、わたしをもう一度呼んでいた。古い映画のワンシーンみたいに。傘を返してしまって、もう接点も何もない彼女と、それでも会いたいと思っているわたし。……自分のことながらちょっとだけその執着心が滑稽に思える。

 わたしは少しだけ色のついたリップクリームを唇に塗り終えると、学校の制服に袖を通した。前回もこの服を着て行った。なぜかリューシカに会うときには、この服装じゃなきゃいけないような気がした。それはもしかしたら、彼女が一生懸命繕ってくれたから、かもしれない。

 もっとも……わたしが持っている立派な服が、制服以外にない、というのもあるのだけれど。

 いつもそうするように、赤錆の浮いた手すりに制服の裾を擦らぬよう、傘を片手に、ゆっくりと階段を降りる。もろもろと今にも崩れそうな階段は、編み上げのショート・ブーツの底で切なげな音を立てた。階段を降りたところで傘をさした。マスクをしていなかったのに気づいて、慌てて肩に下げたバッグの中からウレタン・マスクを取り出して、口を覆った。マスクをするのだから、リップクリームなんて……それも色付きのなんて、余計だっただろうか。

 そう思って少しだけ悲しい気持ちになった。

 感染症。……「wreath(リース)」と名付けられたこの感染症が世界に蔓延して、もう三年近くが経つ。最初の頃の……悪性のインフルエンザのような症状からは、今では随分と様相が変わってしまった。大部分の人は軽い風邪程度の症状で済んでしまって、人工呼吸器をつけるほど重症化する人はほとんどいなくなった。マスクをつける習慣だけが残って、日常化していった。人と人との繋がりがより一層希薄になっただけのように思えた。

 けれど……目に見えないところで新しい感染症は、静かにわたしたちを蝕んでいた。まだ、誰も知らないところで。確実に。

 階段を降り、安物の傘をさすと雨の音がその中に籠った。音に押し潰されて、耳が痛かった。

 雨の音を苦痛に感じながらアパートの敷地を出る、その間際。わたしはシルバーカーを押した老女とすれ違った。子どもが着るような、不似合いな黄色い雨合羽を纏っている。シルバーカーはたっぷりと雨を吸って、濡れた泥のような汚らしい色に染まっていた。

 彼女はどろっとした濁った目で、わたしを見ていた。

 そしてしわがれた小さな声で、お可哀そうに、と呟いた。

 その意味がわからなくて、わたしはしばし立ち尽くした。振り返ると老女はアパートの角のブロック塀を曲がって、見えなくなるところだった。

 雨の匂いだけがいつまでもわたしに絡みついていた。


 閖町の駅を出ると雨の匂いがより濃くなった。

 木々の新しい葉がが濡れて、緑の濃さを増している。

 編み上げのブーツは先端が雨を吸って、少し色が変わっていた。

 駅前のロータリーに止まったタクシーを見やりながら、傘を開き、わたしは歩き始めた。

 前回訪れたときにはスマホの地図アプリに注視しつつ、辺りをきょろきょろと見回しながら、本当にあっているのだろうかとおっかなびっくり歩いたものだけれど。三回目となると大体の道は覚えている。歩いているあいだずっと、雨がぱらぱらと傘を叩いた。

 コンビニの角を曲がり、大通りを抜け、川の支流に沿ってゆるゆると歩いていく。同じくらい田舎っぽい町なのに、わたしの住んでいるところとは、匂いが違う。水。水の匂いが濃い。わたしはマスクを少しずらして、町の空気を吸い込んだ。

 六月の生ぬるい風の中に、雨と川の匂いが混ざっている。

 ぬかるんだ畦のあいだを、茶色い水が流れている。ぱらぱら、ぱらぱら、という傘を叩く音が次第に強くなっていく。田んぼの稲は一ヶ月前よりも強く濃くなっている。わたしは制服の裾を気にしながら、ゆっくりと歩いた。

 大きな農家の脇道を通り、増水して濁った支流の上に浮かぶリューシカの船が見えると、なぜか少しほっとした。この程度の雨で流されるような作りではないとは思っていたけれど、直接見るまでは、やはりどこかに不安があったのかもしれない。

 ……ううん、違う。違うと思う。わたしの不安は、いつの日かあの船が忽然と消えてしまうかもしれない、という、漠然とした恐怖だったのだと思う。いつか何も告げずにいなくなってしまうかもしれないという、得体の知れない苦い煙のような、重く暗い想いだったのだと思う。

 リューシカは前回も、最初に会ったときも、わたしが……というよりも誰かが来ることを、予見していた、あらかじめ知っていたような気がするのだけど……そう思うのは、あるいはわたしの気のせいなのか。もしも本当にそうなら。わたしを拒絶することだって、彼女には簡単にできてしまうはずだった。

 それともあの船に誰かが不意に訪ねることが日常的にあるのだろうか。

 初めてここに来たときにも、二度目に訪ねたときにも。リューシカはわたしを受け入れてくれた。学校の先輩でも後輩でもない、ましてやいたずら目的の大人でもない、何のつながりもない赤の他人に受け入れられたということが、わたしにはなんだか不思議だった。初めてのことだったから。

 だから今日も……迎え入れてくれるかもしれない。そんな甘いことを、わたしは少しだけ、ほんの少しだけ考えるようになっていたのだと思う。船が消えてしまうことを、どこか心の奥で、恐れながら。

 わたしは前回、前々回と同じように、濡れて滑る渡し板を踏み越え、船のへりに足をかけた。鍵もない黒ずんだ引き戸が見え、声をかけようとしたとき。

「「リューシカは今、その船にはいないのよ」」

 背後から、不意に、重なり合うような声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこには同じ藍染の……たしか鰹縞というのだと思う……和服姿の女性が二人、全く同じ形の二本の赤い傘をさして、わたしを見ていた。同時に首をかしげる姿も、そっくり同じだった。

 同じ髪型。

 同じ背丈。

 そして、同じ顔。

 年齢は三十代後半くらいだろうか。少なくともわたしの母よりも肌に色艶があって、若々しく見えた。その立ち居振る舞いや所作が着物姿のせいか、すっとしていて美しく、年齢を曖昧なものにしていた。ただ、この時節なのに、ふたりともマスクはしていなった。

「ちょっと体の調子を崩していて、リューシカは母屋で寝ているの。ね?」

「そうね。リューシカは血の道が少し悪いの。ね?」

「そうね。大事な体なのに」

「本当に。大事な体なのに」

 ふたりは顔を見合わせながら、鈴の鳴るような声で、掛け合うように言い合いながら、苦笑を浮かべていた。赤い傘のふちから同じタイミングで、雨粒がぽたりぽたりと落ちていく。なんだか不思議なお芝居を見ているような気分にさせられる。でも、少なくともこの二人がリューシカを知っていることだけは、確かだった。

「あの、わたし、遊崎花と言います。リューシカさんに会いに来たのですけど……彼女、ご病気なのですか」

 わたしが訊ねると、彼女たちは病気というほどでもないのだけれど、と口をそろえた。

「でも、せっかくだから、会ってあげて」

「そうね、せっかくだから見舞ってあげて」

「あなたのことは知っているから」

「リューシカから聞いているから」

「だから彼女も喜ぶわ」

「ええ、きっと喜ぶわ」

 彼女たちは母屋の……船を係留させてくれているあの大きな農家の、住人なのだと説明してくれた。双子の家主。彼女たちの口ぶりから察するに、リューシカともとても親しい様子だった。同じ仕草で手招く姿を見ながら、わたしは魔法にかけられたような、不思議な気持ちにさせられていた。

「あ、そうそう、わたしたちの名前がまだだったわね」

「うっかりしていて。ご挨拶をしていなかったわね」

「わたしはくだんゆう」と左側の女性が言った。「件が苗字で右が名前」

「わたしはふせひだり」と右側の女性が言った。「伏が苗字で左が名前」

 そして声をそろえて、よろしくね、と笑みを浮かべた。

 え、双子じゃなかったの、と内心驚いているわたしに構わず、その奇妙な二人は同じ形の笑みを浮かべたまま、

「「さ、我が家にいらっしゃい。花さん」」

 と囁くように、そう言った。


 玄関の戸を開けると、最初に強い草の匂いが鼻についた。

 三和土は昔ながらの石灰がまぶされたもので、足の裏にはコンクリートのそれよりも、やわらかく感じた。濡れた靴の形に、黒く水跡がついた。

 式台の手前に揃えられた薄い紫色のミュールがリューシカのものなのだろうか。視線を右手……東の方向に向けると、青々とした何かの葉が、屋敷内にある物置……というよりも風通しの良いひらけた厩のような場所に、大量に広げられている。切り取られた植物の匂い……青い匂いの正体はそれであるらしかった。

 二人のうちのどちらか……多分左さん……が玄関先のふすまを開けるとそこは板の間で、なんと驚いたことに、囲炉裏が切ってあった。鯉の形の自在鉤の下、炭に火が燠ている。しかし囲炉裏の近くには薄い座布団が置かれているだけでとこが敷いてあるわけもなく、リューシカの姿は見えない。手前の影に二階へ続く階段が見えたから、彼女はそちらなのかもしれないな、とわたしは勝手に思った。

 見上げると太い梁。その向こうの天井は、細かな竹を網代に編んだような作りになっていた。

 大きく曲がりくねった太い梁に視線を移すと、それは幾重にも複雑に重なり合いながら、この屋敷の天井をしっかりと支えていた。

 雨のせいなのか、部屋は全体的に薄暗かった。

「上はおさんの部屋よ」

「リューシカはこっちよ」

 気づくと右さんと左さんは次の間の前でわたしを待って、手招いていた。

 それにしてもこの二人は、いったいどういった関係なのだろう。どうして別の苗字なのだろう。こんなに姿形が似通っているのに。それに、彼女たちの名前……。意味がわからない。あるいは一人が結婚して苗字が変わった……とかなのだろうか。

 ずっと胸の底に疑念と疑問が渦巻いていたけれど、口にするのも質問するのも憚られるような感じがした。なんだか少し、知るのが怖い気がしたのだ。少し前に読んだSF小説でもあるまいが、クローン、なんて言葉が、わずかに脳裏をよぎったせいかもしれない。

 二人の手がふすまを、小さな音を立てながら開けると、そこはまた別の、広い畳の部屋だった。二十畳くらいはあるだろうか。本来は二間続きの部屋の障子を、今は全て取り外している。奥の間にはなぜか不似合いな洋風の小さな祭壇があって、銀色の燭台が置かれていた。蜜蝋キャンドルの火が静かにゆれて、甘い匂いがこちらまで漂っていた。向かって右手奥にはこれまた不釣り合いなサン・ダミアーノの十字架と、サン・ジノサンの絵画が壁にかかっていた。

 つい奥にばかり目が行ってしまったが、仄暗い手前の間の中央では、キャミソール姿のリューシカが敷かれた布団の上で、静かに横たわっていた。前回も前々回もつけていたあの不思議な色をした石のピアスは、今も左の耳に吊るされたまま、枕の上で光っている。その枕元には赤いフレームの眼鏡が折り畳まれ、無造作に置かれている。腰のあたりまで掛けられたタオルケットが仰臥したリューシカの下半身の線を、美しく浮かび上がらせている。

 わたしが敷居をまたいだとき。

「リューシカは寝ているみたいね」

「花さんはゆっくりしていてね」

「「今、お茶を淹れてくるから」」

 二人はそう言って、わたしが声をかける間も無く、ふすまを閉めてしまった。振り返ったふすまには、葉を生い茂らせた桑の木陰の下で、子猫と蝶が戯れている可愛らしい絵が描かれていた。

 わたしは小さくため息をついて、仕方がないのでリューシカのそばに座った。雨雲のような灰色の髪が、彼女の呼吸に合わせて微かにゆれている。額にうっすらと汗をかいていて、前髪が幾筋か張り付いていた。

 何の気なしにそれを払うと、リューシカが目を開けた。わたしを見て、不思議そうな顔をしていた。

 一瞬、どきっとした。

 灰色の目が、とても綺麗。と思った。

「ごめん、起こしちゃった?」

「……花?」

「また急に来ちゃって、ごめんね」

「メアリーとシェリーは?」

「……誰?」

 わたしは訊ねた。リューシカは再び目を閉じて、首を横に小さく振った。そして微かに顔をしかめた。

 一瞬、同じ顔のあの二人のことが脳裏をよぎった。少しだけ不安になって、あるいは現代のプロメテウス、と。取り留めもないことを思った。

 ……メアリーにシェリーだなんて。それは、その名前は、フランケンシュタインの作者じゃないか。

「ここのお家の……右さんと左さんがここに案内してくれたの。でも、リューシカ具合が悪いのに、勝手に来ちゃって……寝ていたところを起こしちゃって、ごめんね」

 わたしが取り繕うようにそう言うと、

「花」

 リューシカは目をつむったまま、わたしの名前を呼んだ。

「……ん?」

「謝ってばかり」

 リューシカはもう一度薄く目を開けて、枕元の眼鏡をかけ、わたしを見て、そして、小さく笑った。それから、大丈夫よ、もうだいぶ良くなったし、それに最初から眠ってはいなかったから、と続けた。


「わたしはね、眠れないの。ずっと」


 どういう意味なのかよくわからなかったけれど、わたしもぎこちなく笑みを返した。

「訊いてもいい?」

 わたしはリューシカの前髪を、再び払いながら訊ねた。

「お二人が、ね。……リューシカは血の道が悪いって言ってたけど……病気なの?」

「ううん、ただの生理痛」

 わたしの問いかけに、リューシカがぽつりと答えた。

「でもわたし、毎回毎回がひどくて。布団からは起きられないしご飯も食べられないし。本当に最悪」

 言われてみると、リューシカが青白い顔をしているのに気づいた。声にも張りがないような気がした。

「痛い?」

「さすがにね。腰に……太い針が刺さっているみたいに痛い」

「お薬は?」

「効かないから、いつも飲まない」

 わたしは少しためらってから、

「さすってあげようか」

 と訊いた。わたしは、人間が嫌いだ。男も女も大嫌いだ。普段なら自分から誰かに触れたりなんて、絶対にしない。苦しんでいる人がいたって、手を貸したりしない。……でも。でも。

 リューシカが少しだけ驚いたように、わたしを見た。

「お願いしていい?」

「いいよ。少し体を……ええと、向こう側になれる?」

「うん」

 リューシカが横になったまま、背中を向ける。

 タオルケットが、はらりと布団のきわに落ちかかる。

 生クリーム色の、薄い、キャミソールの背中に、それが見えた。最初は見間違いかと思った。でも、違った。それは確かに、そこにいた。


 白い蛇、だった。


 わたしは恐る恐る、肌に刻み付けられた、その蛇を見つめた。いや、本当に蛇なのかよくわからない。たてがみのようなものや、額に小さな角……が生えている。

 手足はなく、燃え盛る青い焔の中で舌を出し、鬼灯のようなその眼で、わたしを見つめ返している。一匹の白いくちなわ。

「リューシカ、背中のこれ……何?」

「蛇の刺青。……怖い?」

「怖くない。怖くはない、けど」

 蛇……本当に蛇なの? リューシカがそう言うのなら、それはきっと蛇なのだろうが。

「けど、なに?」

 ちらり、とリューシカがわたしを見やる。

「……刺青って、わたし初めて、見たから」

 触っていい、と訊ねると、リューシカはいいよ、と答えた。

 ゆっくりと、ブラとキャミソールの肩紐をずらして、わたしはその肌に触れた。

 思ったよりもひんやりとしていた。

 それは人の肌じゃないような、なんとも不思議な質感だった。表皮がつるつるとしていて、まるで……本物の蛇に触れているような気分だった。

 どのくらいそうしていただろうか。わたしは腰をさすってあげるという約束をすっかり忘れていたことに気づいて、慌ててリューシカの肌から指を離した。そして腰のあたりに右手を添えて、ゆっくりとさすった。人嫌いのわたしが他人に触れようとしたことへの、罰なのかもしれない、と思いながら。

「背中のこれはね、もう一人の自分の……その影、なの」

 リューシカが背中を向けたまま、小さな声で言った。ちり、とピアスの鎖が鈴のような音を立てた。

「そして、……呪い」

 呪い。……呪い? それはいったい、どういう意味なのだろうか。言葉通りなのか、それとも何かの隠喩や暗喩なのか。わたしにはわからなかった。……でも。

「呪いなら、解く方法があるかもしれないじゃない」

 わたしは言った。リューシカが小さく身じろぎした。

「例えば?」

「例えば……」と言いかけ、けれどもそのあとの言葉が、思い浮かばない。

 わたしはしばし沈黙したあと、もう一度白い蛇に触れた。

「王子様の、キス、とか」

「わたしは男の人、嫌い」

「……わたしも苦手、だけど」

「じゃあ、一緒ね」

「うん。一緒だ」

 わたしは再び、リューシカの腰をさすり続けた。どうしてここに来たのか、なぜ雨の中、リューシカを訪ねてきたのか。その理由がわたしには、もう、よくわからなくなってしまっていた。

 本当は、わたしの推しの小説のことを……色々と話したかったはずなのに。今はこうしてリューシカの体温を手のひらに感じている。やわらかで、あたたかい……しなやかな獣のような。先ほどの刺青の肌とは違う。人の温かみを感じる。

 ……この人はいつも、どんな暮らしをしているのだろう。リューシカの背中で見え隠れしている真白い蛇を見つめながら、ただ、そんなことを思っていた。

 仕事は何をしているのだろう。この家のあの奇妙な二人は、リューシカとどういう関係なのだろう。そして。……呪い。彼女の背中のこの刺青は、いったい何なのだろう。どうして……蛇、なのだろうか。それは呪いの形なのだろうか。

「わたしがリューシカにキスしたら、呪い……解けると思う?」

 わたしは言った。一体全体どうしてそんなことを口にしたのか、自分でもよくわからなかったけれど。気づいたら、言葉にしていた。

「花はわたしが好きなの?」

 リューシカがちらりと振り返り、わたしの目を見た。わたしもリューシカの目を見返した。

「ごめん、わたし、好きっていうのがよくわからない」

 リューシカが抑揚のない、かすれた声で言った。

「わたしも。今まで誰とも付き合ったことがないもの」

「そうなんだ」

「うん。そうなの」

「一緒だね」

 わたしは小さな声で言った。リューシカは何も言わずに、わたしを見ていた。

 ……それにしても。あの二人、いつになったらお茶を持ってくるのだろう。

「する?」

 リューシカがわたしよりも、さらに小さな声で言った。

 よく聞き取れず、わたしは、え、と訊ね返した。

「してみる? わたしと。キス」

 リューシカが再びわたしに背中を向けて、そう言った。

 白い蛇が、じっとわたしを見ている。

 家の外ではさらさらと音を立てて、静かな雨が降り続いていた。

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