5月9日・月「鉱石ラジオ、もしくは偽物の歌」
無断欠席の反省文を提出して職員室を出ると、廊下が暮れなずむ夕日に赤く染まっていた。
けれどもあの日、リューシカの船の上から見た空の色は、もっと、血のように濃い赤だった。船に滞在しているあいだに、俄かに降り出した雨が空のほこりを綺麗に拭い去って、夕日を、その光を、一層美しくさせたのだろう。正午頃からの激しく川面を打つ雨は、ただただ美しかった。雨粒が屋根を叩く音が不思議に反響していた。リューシカはずっと作業を続けていた。わたしはその背中をぼんやりと見つめていた。
そのあいだ、わたしたちは本当にとりとめのない話をしていただけなのに。
いつの間に時間が経っていたのだろう……。まるで浦島太郎になったような気分に成りながら、わたしはそのとき、無自覚に自分の下腹部に手を当てたのだった。全然空腹を感じていなかったし、トイレに行きたいとも思わなかった。
スカートの傷が縫い終わった頃に、雨が上がった。
リューシカが帰り際に念のため、と言って持たせてくれた折りたたみの傘は、通学用の鞄の奥に、大事にしまってあった。いつでも返せるように。今日も持ってきている。
「大丈夫だと思うけれど、もしかしたらまた少し降るかもしれないから。これ、持って行って」
そう言ってリューシカが差し出したものをわたしはまじまじと見つめた。何の変哲もない、黒一色の折りたたみ傘だった。
「古いものだし、返さなくてもいいから」
「そういうわけには」
わたしは朝、鞄にしまったままにしていたマスクを、再びつけながら言った。
「……スカートのお礼を兼ねて、また、必ず来るから」
「そう? じゃあ、待ってる」
リューシカは小さくはにかむように笑って、船の入り口から手を振った。
たった数時間なのに、揺れない地面に足をつけると、帰ってきた、という気持ちになって、正直ほっとした。現実味のないところにいたという思いが、ひしひしと湧いてきたのだと思った。
「どこまで帰るの? 駅までの道、わかる?」
リューシカが訊ねた。
周囲を見渡しながらええと……、と言葉を濁していると、
「この川の流れをずっと辿っていけば駅に行き着くわ」
苦笑しながら、リューシカが川の上流の方を指差した。
「でも、もう一度、ここに来るためにはどうしたらいい?」
気づいたたらそう訊ねていた。不安だったから。もしかしたら二度とここには来れないんじゃないか、と思ったから。
「ん? 地図のアプリで登録すればいいんじゃない? スマホがあるんだから」
それに対するリューシカの答えは、いたってシンプルだった。思わず拍子抜けしてしまった。でも、確かにその通りだった。
「花はSNSとかやる人?」
リューシカが訊ねた。
「あんまり。そういうの苦手で」
学校の……クラスのグループラインにも、わたしはコメントしたことがない。
「わたしも。苦手な人」
リューシカが屈託無く笑った。それにつられるようにわたしもマスクの下で笑った。
「でも大丈夫、わたし待っているって言ったもの。ちゃんと繋がっているわ。花はまた、ここに来られる」
「本当?」
とわたしは訊ねた。
「本当よ」
ひと気のない学校の廊下の、熟れすぎた果実のような赤い日の光の中を歩きながら、わたしはあの日の川面に反射する光を、その幾千幾億がきらめくさまを、思い出していた。
ふと窓の外に目をやった。
夕日よりもずっと高いところに、不思議な黒い点が浮かんでいた。なんだろう。先日も見た。あの黒い点。わたしは目をこすって、もう一度それを見ようとして、
「
そのとき不意に背中から、声をかけられた。
この学園の中で、わたしをそう呼ぶのはひとりだけ。
「お姉さま」
振り返るとそこには一学年上の、わたしの姉が立っていた。
不織布の白いマスクと二つに分けた三つ編みの髪が、そこから緩くほつれた幾本かの髪と耳の産毛が、夕日に晒されて、赤く染まっている。
手に鞄を下げているので、もしかしたらわたしを待っていてくれたのかもしれない。姉は優しいから。
姉。……正確に言えば本当の姉ではなくて、学園での姉代わりの生徒。下級生一人ひとりに割り当てられた指導役の上級生……なのだけれど。誰かに紹介するときには、わたしの姉、わたしの妹、と言い添えるのがここでの流儀。
そして、
姉妹には、姉妹だけの密儀があるもの。
例えば自分のロザリオを下級生に譲渡すること。
例えば同じ髪留めや同色のリボンを身につけること。
例えば大切なものを交換すること。
例えば、……姉妹だけの秘密のあだ名をつけること。
「金曜日はどうしたの?」
姉がわたしに訊ねた。
「学校を無断で休んだ、って聞いたのだけれど……何かあった? 今も泣いていたように見えたのだけど」
姉は小柄な人だった。たぶん並ぶと、わたしと同じくらいの身長だと思う。いや、あるいは姉の方が低いくらいかもしれなかった。
その姉がわたしに小蝶と名付けたのは、何か……もしかしたらコンプレックスみたいなものがあるのかもしれないな、と思ったことがある。
姉もわたしと同じ外部生だ。きっと、学園生活を送る中で、しなくてもいい苦労をした経験があるのだろう。だからだろうか。わたしが二年生になった今でも、こうしてわたしを気遣ってくれる。
わたしは人が嫌いだ。
男も女も大嫌いだ。
でも、
来年はこの姉もいないのか、と思うと、少しだけ寂しい。
「泣いてないです。ただ、目にゴミが入ったみたいで」
部室のある旧棟に向かって歩き出しながら、わたしと姉は肩を並べた。
二つの足音が、少しだけ不規則に。夕暮れ時の廊下に反響している。
「実は金曜日の日は、電車の中で痴漢にあってしまって」
ちらりと姉の顔を見た。
「とっさに途中下車して、逃げたんですけど……そのときにスカートを。切られてしまったんです」
姉は眉を上げて驚いた顔をして、一瞬わたしを見つめた。
「怪我は? しなかったの?」
「はい。なんとか」
「それで、切られた場所って……」
「お尻の、ええと、この辺りです」
わたしはその場で立ち止まって、姉に背中を向けた。そしてあの日切られた……リューシカに継いでもらった箇所を、姉に見せた。
「……なんともなっていないようだけれど。今日は違う制服なの?」
「ええと、お姉さまは『かけ継ぎ』って知ってらっしゃいますか?」
姉は小さく、首を横に振っている。
「衣類の傷を修復する技術らしいんですけど……たまたま知り合った方に助けていただいて」
あの奇妙なリューシカのことをどう形容したらいいのかわからなかったから、結局は黙っていることにした。
リューシカのことは姉には話せなかった。でも、リューシカの手技そのものにはわたし自身も驚歎した。裏は当て布をしてあるが表の切られた箇所は多少ほつれているのがわかるくらいで、概ね元通りになっていた。布地にじっと目を凝らさなければ、表側からでは見分けもつかないくらいに。
「ただ、どうしても時間のかかる方法だったので。その作業が終わるまで動けなかったんです。学校には……なんとなく連絡する気になれなくて。そのまま放置しちゃいました。そのせいで反省文を書かされる羽目になったんですけどね」
姉とまた二人、歩き出した。
姉はしばらく無言だったが、不意に、悲しかった? とわたしに訊ねた。
悲しい……その言葉の意味がよくわからなかった。
今でもあの日の……痴漢された出来事を思い出すと、胸のあたりに鉛を詰め込まれたように、息ができなくなって、苦しくなる。それが姉の言う悲しい、ということなのだろうか。それともそのあとの、被害者に反省文を書かせるという、学校側の理不尽な仕打ちのことを言っているのだろうか。
「悲しいかどうかはよくわかりませんが……もう、あんな目に会うのは嫌なので。早い電車に乗るようにしました」
ただ一つ言えるのは、痴漢なんかに遭わなければ……あの町にはたどり着けなかったということ。リューシカと知りあうことはなかった、ということ。
姉は何かを言いかけて、けれども結局口にはせず、ただ、わたしの横に並んで、同じ歩幅、同じ速度で歩いていた。
文芸部の部室に
わたしはそれを当たり前のこととして……姉は少し残念そうにして、鞄を中央のテーブルの上に置くと、互いに読みかけの本を開いた。
金曜日は読書の日、と決まっていたから。
姉の本は劉慈欣の『三体』。
わたしの本は通読二回目の、宇佐見りん『推し、燃ゆ』。
すぐに本に集中して、互いの存在を忘れてしまう。
さり、さり、と。ページをめくる音。そして身じろぎしたときに立てるパイプ椅子の音。姉の呼吸。わたしの吐息。それが、ここでのすべて。
……電子書籍や投稿サイトではなく、紙の本を読むのが、ここでのルール。
人気の小説は市の図書館ではなかなか順番が回ってこないので、部費で本を購入できることや、補助が出るのはとてもありがたい。学校の図書室はあまり現代小説に重きを置いていないから。もっとも、わたしの希望がいつも通るわけではないのだけれど。それに、文芸部、というからには、書く方もしなきゃいけないわけで、……そのことを考えるとどうしても、気が滅入ってしまう。
わたしはなるべく執筆のことを考えないようにしながら、本の内容に集中する。わたしはこの小説から、「推し」という概念を教わったのだ。
わたしの背骨。その確固たる言葉。確かにその通りだと思う。今のわたしにとっての推しは、スマホの中の、任那の小説だ。わたしの支え、わたしの背骨。……でも。わたしの推しは女性か男性かもわからない。任那もわたし同様あまりSNSには興味がないようで、次の小説の更新がいつなのかもよくわからない。感想を送っても返事はない。きっと読んではくれているのだろう、と思う。そうであって欲しいと思う。でも、確信は持てない。もしもサイト内に、推しに課金できるシステムがあったのなら、間違いなくわたしはそうしていたはずだ。他のサイトではサポーターだけが読めるようなコンテンツがあったりするのだから。少ない……本当に雀の涙のような……お小遣いを全部つぎ込んだとしても、悔いはないと思う。
どのくらいの時間、姉と、本をめくり続けていたのだろう。
気づくと窓の外に、夜の帳がおりていた。
母はもう、仕事に出た頃だろうか。
夜の、母の匂いが、わたしはどうしても好きになれなかった。
壁の時計を見上げると、その気配を感じたのだろう、姉も顔を上げて、時刻を確かめていた。
「もう、外は真っ暗ね」
姉がぽつりと言った。
「帰りますか」
「……そうね。ねえ、小蝶。次の部誌のことなんだけど」
「小説、ですか」
わたしはちょっと苦いものを口にしたように、その言葉を吐いた。
「ええ。あなたにも……沈花ちゃんにも、書いて欲しいの」
だって、このままだと読書部になってしまいそうだもの。
そう言って、姉は苦笑を浮かべた。そしてほんの少しの間を置いてから、自分の鞄を手にした。
「わたしも鞄を取ってきます」
姉は優しい。
優しすぎるから、つい甘えてしまう。
わたしはアンティーク調の電灯が釣り下がっている廊下を、のろのろと歩きながら、思った。
わたしが文芸部に所属しているのは、姉がそこにいたからだ。沈花にしたところで、多分そうなのだ。わたしがいたから、文芸部に籍を置いているだけ。滅多に顔も見せない。
でも、わたしはそれでもいいと思った。姉もそれを許した。そして、だから緩やかに瓦解していくのだ。全部が。すべてが。
灯りの消えた暗い教室で、自分の鞄を手にした。その底に仕舞われている黒い、折りたたみの傘を思った。
次の日にまた訪ねるなんて不躾だろうか。
日曜日は誰かと会ったりするのだろうか。それは恋人だったりするのだろうか。バッティングしたらどうしよう。本当に訪ねていいのだろうか。天気もなんだかぐずついてきている。また雨が降り出したら、せっかく傘を返しに行ったのに、また借りることになってしまう。それにお礼。お礼を兼ねて、ってわたしは言った。でも、彼女にどんなお礼をすればいいのだろう。
そんなことを考えていたら、あっという間に月曜日になってしまった。
ため息をついて、窓の外を見た。わたしはリューシカのことを何も知らない。LINEも、アドレスも、何もかも。
窓の外には大きな月が出ていた。
アパートの部屋には誰もいなくて、薄汚れてひびの入った曇りガラスの窓から、月の明かりが射し込んでいた。それはとても白くて冷たい光だった。物が少ないはずなのに、妙に散らかって見える室内は、わたしが朝、家を出たときと同じ汚さのままだった。
わたしは小さくため息をついて、洗濯物をまとめると、廊下にある二層式の洗濯機の中に放り込んだ。このぼろアパートの二階には、わたしたち親子の他はもう誰も住んでいない。一階には生活保護を受給している老人が三人ほど住んでいるらしいが、詳細はよく知らない。学校に行く時間には顔をあわせることもないし、たとえどこかですれ違ったとしても、わたしも向こうも挨拶なんてしない。
父はわたしの物心がつく頃にはすでにいなかった。もしかしたら最初からいなかったのかもしれない。詳しいことは聞いたことがない。
母は時々外に男を作ったが、どれも長くは続かなかった。男たちはいつも、ある一定の期間が過ぎると、アパートに出入りするようになり、決まってわたしに、……いたずらをした。わたしは黙っていた。仕方がないことだと思っていたので、口を閉ざしていた。でも、なぜかそれは母の知るところとなった。そして母が男を追い出す。その繰り返し。どうしてそんな男ばかりを母が好きになるのか、わたしにはわからない。ずっとずっと、わからない。
制服から私服に着替えて、炊飯器にお米を二合セットしてから、スーパーに買い出しに行った。さすがにあの制服のままだと悪目立ちし過ぎるから。なるべく地味で、目立たない格好をする。
タイムセールで安くなった物を見繕って、買い物かごの中に次々入れていく。賞味期限近くの豆腐が三十円で投げ売りされている。わたしはそれを手に取りながら、小説、と思う。
こんなわたしに、いったいどんな小説が書けると言うのだろう。無垢で、汚れを知らない、乙女たちのような小説? 過去の、先輩たちが綴ってきた小説が、皆そうであるように?
そんなもの、書けない。書けるはずない。
豆腐を手に持ったまま立ち止まると、スーパーの店内放送がやけにうるさく聞こえた。食品売り場は冷房が効きすぎて、初夏間近のこの時期なのに、寒いくらいだ。
小説。……小説。わたしにとっての小説は、読むものだった。最初から、書くものではなかった。
一年生のときは読書感想文のような拙い批評でお茶を濁した。姉は少し呆れて、でも何も言わないでいてくれた。けれども文芸部は代々、部誌に小説を載せている。わたしに言わせれば、毒にも薬にもならないような小説を。
……今年のわたしは、そして一年生の沈花は、どうするつもりだろうと、自問してみる。二年生も一年生も他に部員はいるはずなのに、書類の上だけの話で、部室に来ている姿なんて、見たことがない。
沈花にしたところで元々体を動かす方が得意なタイプで、うちの高等部に外部生として入学するまでは、読書すらしたことがなかったらしい。どこかのクラブに入らなきゃいけないから、姉であるわたしがいる文芸部に所属しているだけ。本当の彼女の姿は、学校の外にあるようだ。
あの子に小説を書けだなんて、とてもじゃないけれどわたしには言えない。
それとも、書かせてみたら意外と文才があったりするのだろうか。
おつとめ品の、葉っぱのしなびた大根を入れると、買い物かごが途端に重たくなった。
わたしは切れ長の目の、身長の高い、沈花の姿を思った。野生動物のような、そのしなやかな四肢を思った。それはまるで、わたしとは別の生き物のようだった。わたしとわたしの妹の共通点は、学校が大嫌いという、ただその一点だけだった。
帰り道を急ぐ。拡張した近所の道路は新しく、嫌に広々としていて、そして敷地を削られた近隣の家屋がみすぼらしくて、その有りようがまたなんとも田舎臭い。その道を、暗がりの中、スーパーの袋を手に、わたしは足早に歩き続けた。家に帰ってすぐ洗濯物を脱水槽に移し、わたしの夕ご飯と、母が朝帰ってきたとき用のご飯を作る。しなびた大根の葉っぱだって、味噌汁にしてしまえばわからない。三十円の豆腐を半分刻み、一緒に具材にした。
不意に窓ガラスががたがたと揺れる。過積載のダンプが先ほどの大通りを通り過ぎて行ったのだ。玄関の外では、古い洗濯機が荒々しく、震え続けている。
本当に古いアパート。ひび割れた外壁と、赤錆の浮いた外階段の手すり。足元のベニヤがはがれかけた玄関の扉。前の人が置いていった粗大ゴミのような洗濯機をそのまま使い続けている。北向きでどこからも陽が射さない自室。安物ばかりが散らかった、汚らしい母とわたしの居間。ゆがんで変な匂いのする畳。テレビはなく、古いラジオは雑音ばかり。
そのうち全部取り壊されて……ううん、取り壊されるまでもなく、やがて、すべて、跡形も無くなってしまうだろう。
いつか崩れ去る日が来る。全部が。その日が、わたしは待ち遠しい。
わたしは母を愛していた。
母もわたしを愛していた。
でも、それと同じくらい。
わたしたちはお互いを憎み合っていた。
憎んでも憎んでも憎み切れないほど、わたしたちは結びついていた。
じめじめとした油っぽいキッチンで調理を続けながら。ラジオから流れる安っぽい、破滅の序曲を聞きながら。
わたしは全部終わってしまう日を、今か今かと、心待ちにしている。
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