5月6日・金「銀河と水の迷路」
カタン、カタン。
ゴールデンウイーク明けの金曜日。
明日はまたお休み。
なら、今日も休みでいいのに。
わたしは小さくため息をついて、そんなやるせない気持ちを一緒に吐き出す。朝の電車の中はスーツ姿のサラリーマンでいっぱいで、圧倒されてしまって、気持ちが悪かった。
背の低いわたしはゆらゆらと揺れる人ごみの中、なんとかつり革につかまって、その状況に耐えていた。
カタン、カタン。
電車が揺れる。それに合わせて、灰色の背中がわたしの顔を覆い尽くす。ただでさえ感染症対策のマスクをしていて苦しいのに、息を吸うことも吐くこともできない。もう、どうにかなってしまいそうだった。
わたしは人が嫌いだ。
男も女も大嫌いだ。
でも、
……わたしが一番嫌いなのは、わたし自身だ。
つり革から手を離して顔を背ける。息が吸えて少しだけほっとする。
わたしはわずかに安堵して、空いた手でスマホを操作する。ネット小説のアプリをタップして読みかけの小説を開く。「
わたしはいつもそうするように親指だけで画面をスクロールさせて、小説を読み進めていく。
この小説が、もしも逆であったなら。きっと醜悪だっただろうな、と思う。雌性成熟であったなら。十八歳で皆男になってしまうとしたら。その世界はきっと、醜怪だったに違いない。今だって世界は、ほとんどすべて男の理論で動いている。それがさらに明確にされてしまった世界は、年端もいかない女の子とセックスする男性の世界は、ひどく息苦しいに違いない。きっと、わたしにとってはなおさら。
カタン、カタン。
電車の軌道が大きくカーブを描くと、体がどこかへ流れて行きそうになって、慌てて足をずらして踏ん張ろうとしたのだけれど、思わず男物の革靴を踏みそうになって、……踏んづけてしまえばよかったのだが、わたしはなんとか空いているスペースを見つけて、学校の制服姿なのに、足を大きく広げた情けない、あられもない格好で、バランスをとった。
カタン、カタン。
ただでさえ、悪目立ちのする制服なのに。
生成りの白の、ワンピースの制服は、成都御心女学館の象徴。元はアイルランド系の僧院の、修道女が着ていたスカプラリオにその原型を求めることができるらしい。一部の制服マニアには高値で売られているという噂も耳にしたことがあるが、本当かどうか、わたしは知らない。
カタン、カタン。
わたしにとっては、制服なんて
カタン、カタン。
スカートの部分が人と人に挟まれて、引っ張られているのがわかる。スマホで小説を読むのを諦め、鞄を胸の前に抱えて自分のスペースを確保する。足は開いたまま。一ミリも動かせない。ちらりと視線を上に向けると、自分と同じように、白いマスクをした大人たちの姿。
カタン、カタン。
駅に着いて降りる人の数より、乗ってくる人の方が多くて、電車の中はことさら窮屈になる。
誰かの手が、わたしのお尻に当たっている。気のせいだと、自分に言い聞かせる。スカートはまだ、引っ張られたまま。足はまだ、大きく広げられたまま。
カタン、カタン。
スカートが、少しずつ上に、ずれていくのがわかる。
誰かの手が、足の……ふとももの裏に触れている。
痴漢だ、と思う。そう確信してしまう。でも、声が出ない。鞄を抱えた手を、その片方を、お尻に向かわせていいものか、考えてしまう。
誰かの手に触れてしまったら。
誰かの手がわたしの手を掴んだら。
その方がよっぽど怖い。
後ろを振り返って、欲望に満ちた目を見てしまったら。
下卑た笑みに出会ってしまったら。
それはとてつもなく恐ろしい。
だから、じっとしていた。
本当は声を上げなくてはいけないのに。
抵抗しなくてはいけないのに。
動けなかった。
生温かい指が這い上がってきて、
下着に触れそうになった瞬間、
電車が止まった。どこかの駅に着いたのだ。
わたしは慌てて体を前のめりにさせて、降ります、と声を上げた。マスクのせいもあって、声は小さく、かすれて震えてもいたけれど、そんなの気にしていられなかった。逃げなきゃ、と思った。もう、こういうことは嫌だった。誰かの手がスカートを掴んでいるように思えて、気が気じゃなかった。
人が壁のようだった。得体の知れないバリアーのようだった。ダークグレーの背中がわたしの視界を塞いでいる。でも、急がないと降りるタイミングを失ってしまう。
「降ります、お願いします、通してください」
もう一度言う。今度はもっと、はっきりとした、大きな声で。
そしてそれから息を殺して、体当たりするようにして、なんとか車内から飛び出た瞬間、
ビッ、という変な音がしたので振り返ると、スカートのお尻の部分が、カッターか何か、鋭い刃物によって切り裂かれていた。
ぞっとした。ぞっとしないわけにはいかなかった。人の悪意が形を成したさまを、わたしはまざまざと見せつけられたのだから。思い出させられたのだから。
切られた隙間から淡い水色のキャミソールが見えていた。そのキャミソールにも傷跡というか、ほころびが見えた。
電車の扉が閉まる。その中に、悪意が、その主がいる。わたしは、今度は目を逸らさなかった。
じっと、閉まる扉を、走り去る電車を、見ていた。見続けていた。
カタン、カタン、と音を立てて。
各駅停車の銀の電車が行ってしまうと、わたしは持っていた鞄でお尻を隠しながら、駅の名前を確認した。キョロキョロと辺りを見回し、反対側のホームの柱に、青い駅名が書かれたプレートを見つけた。
ここは……わたしの立っているこの場所は、『
この路線を通学で使い始めてから、初めて降りた駅だった。というか、こんな駅……沿線にあっただろうか。その記憶すらわたしにはなかった。
朝のざわざわとした空気は、どの駅のものとも変わらないはずなのに。なぜかわたしは違う、と感じていた。
スマホを操作するサラリーマン。
音楽に聞き入っている学生。
カラフルなマスクをした、小学生。
駅員さんのアナウンス。
皆が次の電車を待っている。
律儀に、きちんと列を成して。
やわらかい五月の朝の光が、少し斜め上から、そんなホームに降り注いでいる。光はもうすでに夏のように眩しくて、見上げるわたしの視界を白いハローが覆った。わたしは雑多な光景、音、匂いの中に、どうしてだろう、水の気配を感じていた。
違和感の正体は……それ、なのだろうか。
わたしは不織布で出来た使い捨てマスクを少しだけ鼻の下まで引き下げ、鼻をひくひくとさせた。確かに少しだけ……水の匂いがする。
とてもじゃないけれどそのまま学校に行く気にはなれなくて、わたしはそっとその場をあとにした。着ている制服がワンピースなのもあって、お尻のところを縫うにしても何にしても、一度服を脱がなきゃいけない。
犯人に対する恐怖は、なぜかあまり湧いてこなかった。制服を破られたことには怒りを感じたし、嫌な汗もかいたのだけれど、怖いとは思わなかった。ただ、憐れだと思った。犯人が電車の中でしか女性に触れることのできない、そして服しか傷つけることのできない情けない人間なのだと思うと、その存在自体が憐れで仕方がなかった。
でも、二度と痴漢には会いたくないから、明日から電車の時間と乗る場所は変えよう、とは思うのだけれど。
わたしは少しだけ急ぎ足で駅のトイレの個室に入り、恐る恐る自分のお尻を見た。
スカートが縦に、手のひらくらいの幅で切り裂かれていて、本当に、よく怪我をしなかったものだと思った。
トイレから出て再びホームの雑踏の中でひとり立ち尽くし、わたしは途方にくれた。
乗客が電車から吐き出され、また吸い込まれていくそのさまを、ただ見るとはなしに見つめていた。しばらくはそうしていた。太陽の位置が、ほんのわずかに変わって、空の光が強くなった。
このままここにいたら飲み込まれてしまう。もう一度電車の中に飲み込まれ、悪意に晒されてしまう。不意にそう思った。そう思ったら胸がざわざわとしてきた。どうしてだかはわからない。でも、もしかしたら、「何か」の気配に呼ばれたのかもしれない。あそこが危険な場所なのだと、知らせてくれたのかもしれない。
ホームを離れて改札を抜けると、駅前のロータリーには何台かのバスが停まり、タクシーが客待ちをしていた。
バスの行き先の表示は見たこともない地名ばかりだった。駅舎にほど近いフィットネスクラブの二階から無人のサイクリングマシンがわたしを見下ろしていた。その隣の店舗では、チェーンのカフェテリアで朝食をとっている、OL風の女性の姿が見えた。
ふと頭上を見上げると、雲ひとつない青空に、黒い点が見えた。飛行機や風船などではなかった。もっとずっと遠いところに浮かんでいる。なんだろうとぼんやり眺めていると、歩いてきた大学生風の男に肩をぶつけられた。
とっさに頭をさげると、ち、という、舌打ちが聞こえた。舌打ちしたいのはこちらの方だった。でも、怖くて、顔も見たくなくて、わたしはうつむいたまま、歩き始めた。ただ、黙々と、あてどもなく歩いた。
やがて大きな川のほとりに出た。
土手にはシロツメグサが生い茂り、真っ白な花がどこまでも続いていた。対岸は春の空気に霞んでいて、建物の形が淡く滲んで見えた。
ここは、閖町は、水の、絶えず流れる場所だった。
川はいくつもの支流に分かれ、そこには大小さまざまな橋がかかっている。上空から見下ろしたら、きっと網の目か蜘蛛の巣のように見えるに違いなかった。欄干もないような橋も珍しくなくて、川下り……なのだろうか、まだ朝なので客を取っていないだけなのかも、と推測するのだけれど……小さな舟が幾つも川面に浮かんでいて、そのどれもがきちんと整備されている。
わたしは大通りを離れ、小さな支流、さらに小さな支流へと足を向けながら、カバンでお尻を隠しつつ、町の中を適当に歩いていた。どの脇道に入っても川の気配、水の流れる音がついてくる。それはたぶん、錯覚なんかではなかった。駅に向かう疎らな人並みに逆らうようにして、わたしはてくてくと歩いた。やがて住宅がまばらになり、農地が広がっていった。田植えの済んだ田んぼも幾つかあって、水が満ちていた。水、水、水。わたしは水の音に耳をすませ、柳の樹がさらさらと、枝を川面の風になびかせているのその姿を目の端に見つつ、ただただ足を動かしていた。
その日は暑いくらいの陽気だった。歩き続けていたせいか、わたしはひたいにうっすらと汗をかいていた。太陽の光だけが、その位置を少しずつ、高い場所へと移動させ続けていた。
町は、どこもかしこも水の……流れる水の匂いに満ちていた。
林を背にした古い、大きな農家の敷地を曲がってみると、裏手はやはり川だった。違うのは、そこに少し変わった船が停泊していること。広めの屋形船くらいの大きさで、中央にはなぜか居住スペースのようなものが建てられていた。農家の近くの電柱からは、細いけれど電線も通っている。苔むした護岸からは丈夫そうな板が渡っていて、簡易的な橋になっており、船と陸地とを行き来できるようになっていた。観光客向けの船ではなさそうだったが、そこには今でも使われている場所特有の、人の気配の残滓があった。
それになんだか……神社みたいな、清い場所のような気がしたのだった。
まさかこんなところに人が住んでいるわけでもないだろうけど……と思いながらしげしげと見ていると、かたり、と小さな音がして、立て切られていた船の戸が開いた。
驚いて見つめていると、中から出てきたのはひとりの女性だった。
妙齢の、そして少し不思議な雰囲気が漂う、とても美しい人だった。
灰色がかった髪は緩く波打っていて、まるでこの川の様相そのものみたいだった。赤いフレームの眼鏡越しにこちらをじっと見つめるその瞳も、髪と同じ色をしていた。目鼻立ちはしっかりとしていて、眉が濃かった。感染予防のマスクはしていなかった。左耳に吊るされたピアスの、不思議な色の丸石が、ちりちりと朝日を受けて光っていた。そして、わたしは、
……この人、どこかで見たような気がする、と思ったのだ。
見ていると胸が苦しくなるようなこの気持ち。これはいったい、なんなのだろう?
「……誰」
女が眉根を寄せて、訊ねた。髪と、瞳と同じ色の、少しかすれた声だった。
「お客様?」
「あ、その、ごめんなさい、じろじろ見てしまって。すぐに帰りますから」
わたしが慌てて背を向けると、女はちょっと待って、と言って、わたしを呼び止めた。
「スカート」
「え?」
「破けているわ」
わたしは瞬間、切られた場所を手で隠していなかったことを、今更ながらに気づいた。
恥ずかしくなって、急いでお尻を隠しながら女の方に向き直ると、彼女はやわらかく笑っていた。やっぱり、胸の奥がうずくような、さみしいような、不思議な気持ち。どうしてこんな気持ちになるのか、全然わからない。けれど。
「針と糸、あるから。おいで」
「でも」
「大丈夫。取って食べたりしないわ」
わたしが躊躇すると、彼女は眼鏡を取り、微笑みながらわたしを手招いた。
「おいで」
その声はかすれていてなお美しく、抗い難く、わたしはこくんと息を飲むと、お邪魔します、と小さく口の中で言って、桟橋代わりの木の板に足をかけた。
ぎし、と音がして、足元が大きくたわんだ気がして、少しだけ肝が冷えた。
冷や汗をかいたおかげか、一瞬我に返った。
この人は誰だろう。
どうしてこんな船の中にいるのだろう。
この船は、いったい何なのだろう。
「どうしたの? 揺れて怖い?」
わたしの逡巡を、彼女は察知したのだろうか。
そっと手を差し伸べて、わたしの指先にやさしく触れた。瞬間、まるで静電気のようにピリッとした何かが流れて、わたしたちは顔を見合わせた。それは電気よりも直感的で、そして運命的な何かだった。
「あなた、わたしのこと……知ってる?」
不思議そうに女が訊ね、わたしの手をきゅっと握りしめた。しっとりとした、冷たい指の先だった。
「いいえ、知りません」
と、わたしは咄嗟に答えた。答えたのだけれど、でも、どうなのだろう。面と向かって言われると、自信がなくなってしまう。
「……多分」
だから気づくと、そう付け加えていた。彼女の手を、指を、わたしは振りほどくことができずにいた。それはわたしの肌に馴染んで、一つになってしまいそうなくらい、心地よかったのだ。
人が嫌いなはずなのに。
男も女も大嫌いなはずなのに。
本当に。本当に。……この人、いったい誰なのだろう。
「じゃあ、改めて。初めまして、わたしはリューシカ。よろしくね」
リューシカ。……リューシカ?
それはこの国の人の名前ではない、ような気がする。たとえそうなのだとしても、どんな字をあてるのか、見当もつかない。
漢字、漢字で名前を表すこと。それは、わたしにとっては、とても重要なことのひとつだった。だからその人の名前が片仮名かも知れないなんて、最初は思いもしなかった。
でも、もしかしたら彼女は、どこかの国のハーフ、なのだろうか。それともペンネームみたいな、偽名なのだろうか。
それにしたって一体全体、どうしてこんな場所に……船の上にいるのだろう。
疑問が堂々巡りしてしまう。納得いかないものを感じつつ、女の、リューシカの手を借りて人ひとり分の幅の板を渡り、船の上に降り立った。ちゃぷり、と舳先から水の音がした。
この船の材質は何だろう。ふと疑問に思って船の上を見回した。
見た目の通りの木製だろうか。それとももっと水に強い、そして軽量な何かなのだろうか。船の上には小屋……と呼んでいいのだろうか、まるで神社の拝殿か何かみたいに感じる……がちょうど中央に建っていて、壁面には黒ずんだ色の引き戸と、明かり取り用の蔀が設けられていた。
リューシカが建て切られた引き戸をからりと開けて、ほの暗い室内……船内に入っていく。わたしもそのあとに続いて、中に入った。鞄は床に、適当に置いていいからね、と声をかけられながら。
そしてそこに、わたしの目の前に広がっていたのは……。
小さな靴置き場。その先にはほの暗い、板張りの室内。黒柿の文机とその上に置かれた原稿用紙、二本の万年筆と最新のスマホ。壁際に積まれた雑多な書籍は、川の湿気のせいで皆同じように少しずつたわんで波打っていた。部屋の右奥に敷かれた緋色の布団がいやに目を惹いて艶かしい。炭の熾ている火桶とそこに刺さったままの火箸。蓮台に似た荷物置きの上に立てかけられたアコースティック・ギターと龍琴。その隣には黒鉄のアール・デコ風の燭台と火の消えた白い和蝋燭。壁にはエル・グレコの受胎告知のレプリカ。それから浮鯛抄云々と書かれた古い巻物が額装されている。溶けかけた氷の沈んだ蕎麦猪口と金色の瞳が描かれた琥珀色のウイスキー・ボトルが並んで無造作に床に置かれ、そしてそう、特に目を惹く左奥の
……なんというか、しっちゃかめっちゃかだった。
リューシカは不意に振り返ると、唖然としているわたしの右耳に手をかけ、するりとマスクを取ってしまった。
一瞬のことに驚いて、わたしは動くことすらできずにいた。
ここ二年くらいで急速に広まった新型の感染症のせいで、ずっとマスクをつけて生活するのが当たり前の世の中なのに、彼女もしていないし、わたしのマスクまで取るというのは、いったいどういうことなのだろう。
「もしかしたら知っている人かと思ったのだけど、やっぱり知らない顔だったわ。ねえ、あなたは何さん?」
リューシカは小首を傾げながら、わたしにマスクを返しつつ、そう訊ねた。彼女の言葉からは少しだけアルコールの匂いがして、乳白色に洋酒を溶かしたようなピアスの石が、左耳の先で鎖に吊るされ、小さく揺れていた。
でも、お互いに、知らない間柄なのだ。見ず知らずの人なのだ。相手がどんな人かわからないのは一緒だ。感染症に罹患するリスクだって、ゼロではないのに。どうして彼女は、こんなにも堂々としていられるのだろうか。わたしはマスクを再度つけようかどうか少しだけ逡巡して、結局スカートのポケットの中にそれを仕舞った。なんとなく癪に感じてしまったからだった。
「お名前。教えて欲しいな」
リューシカが微笑みながら訊ねた。
「
「遊崎……何さん?」
わたしはちょっとだけためらって、息を小さく吐き、
「
と、答えた。
きっと顔が、少しムッとした感じになっていたに違いない。わたしは自分の名前が嫌いだ。今どき花なんて名前、同年代では見たことがない。
それに、初対面の人に……本名を名乗ってよかったのだろうか。
ふと不安がよぎる。
それなら最初から、わたしのお姉さまにつけてもらった……。
「花?」
不意にリューシカが、わたしの名前を舌の先に乗せた。わたしははっとして、リューシカを見た。わたしを花と呼ぶのは今では母だけだったから。名前を呼ばれただけなのに、なんだか不思議な気持ちがした。
「そう、……花っていうの。素敵。あなたにぴったりな、素敵な名前ね」
一瞬馬鹿にしているのかと思ったけれど、リューシカが心からそう思っているらしいのが伝わってきて、わたしは何も言えなくなってしまった。
花。
……花。
わたしの名前。本当の、わたしの名前。
明かり取りの蔀から、川風が入ってきた。
室内をさやさやと吹き流れ、あちらこちらの雑多なものを、そっと撫でていった。船がゆっくりと揺れ、それに合わせるように光がやわらかく踊った。
「あの、リューシカさんは、」
「リューシカって呼び捨てにして。さん付けって、なんだかくすぐったくて。恥ずかしいから」
わたしの質問を遮って、彼女は言葉を続けた。
「その制服、成都のでしょう? 成都御心女学館。違う?」
出鼻をくじかれた格好で、わたしはただ、はい、と答えた。
「お嬢様なんだ」
「そんなことないです。全然、です」
わたしは視線を、リューシカからわずかに逸らした。
確かに成都御心女学館はお嬢様学校として世に知られている。けれど……わたしの家庭は裕福というの範疇の埒外にあった。そのことを思うとどうしようもない、言いようのない感情が湧いてきて、胸が苦しくなる。コールタールみたいな粘っこい何かがわたしの心を支配して、息ができなくなる。
そんな薄暗い感情を持て余していると、
「そうなの? まあいいか。じゃあ、継いであげるから脱いでね」
リューシカが不意に言った。
わたしは意味がわからなくて、きょとんとしていた。
「制服、脱いで。それとも、人前で脱ぐのは恥ずかしい?」
「いや、その。……針と糸さえ貸してもらえれば、自分で縫います」
リューシカは小さく首を横に振って、わたしの後ろに回った。そして膝を折って屈み込むと、慌てているわたしの手を退かせ、まじまじと正面から、わたしのお尻を見つめた。
お尻、というよりも……その切り裂かれた痕を。彼女は見ていたのだけれど。なんだかめちゃくちゃ恥ずかしい。
「ただ縫っただけだと、跡が残ってしまうと思うのよね。けれどかけ継ぎをすれば、傷は目立たなくなるから。ねえ、花。……わたしに任せてくれないかしら」
いきなりナチュラルに呼び捨て、と思ったけれど、彼女も自分のことは呼び捨てでいいと言っていたので、……きっとそういう人なんだろう、とわたしは考えて、自分を納得させた。
ただ、継ぐという言葉の意味はいまいちよくわからなかった。けれどなんとなく、抗い難くて……彼女の声はどうしようもなく抗い難いのだ……わたしはゆっくりと制服を脱いだ。
下着……キャミソールとショーツという格好になってしまうと、途端にいたたまれない気持ちになってしまった。男の前であれ、女の人にであれ、誰かに一方的に肌をさらすという行為は、いたたまれない。切ない気持ちになってしまう。
そんなわたしのことを慮ってくれたのか、リューシカは奥の布団の上から桃色の薄掛けを取ってくると、わたしの肩に、そっとかけてくれた。わたしはさらさらとした生地に包まれて、自分の身を隠した。
薄掛けからは彼女の、リューシカの若い山椒のような、澄んだ匂いがした。
どのくらい時間が経っただろう。
リューシカは燭台の和蝋燭に火を灯し、文机に向かっている。時折火箸で芯を摘んでいるのは、和蝋燭特有の所作なのかもしれない。
「ねえ、リューシカ」
緊張感を漂わせたその背中に、わたしは集中を乱してしまわないよう、小さな声で訊ねた。
「リューシカはこの船に住んでいるの?」
「そうよ」とリューシカはわたしに背中を向けたまま答えた。「もう、ずっとここにいるわ」
ぱちん、と。炭の爆ぜる音がした。リューシカはそっとにじり寄って行って、火桶の炭を、芯を摘んでいた先ほどの火箸でつついた。そしてまた元の文机の前に戻った。
かけ継ぎ、という技法は、ひどく集中力を要するのだという。裂かれた生地自体を……どういう手法か説明されてもいまいちわからなかったが……元通りに戻すのだという。わたしは背中を丸めているリューシカの姿を見つつ、自分の手首に巻いた時計にちらりと目をやった。
朝の礼拝の時間はとっくに終わっていて、もうそろそろ一限目のチャイムが鳴る時間だった。完全な、そしてありえないくらい完璧な遅刻。スマホを鞄から取り出して確認すると、学校からの電話の通知が届いていた。
アパートの……母のところにも連絡は行っただろうか。
そう考えて、わたしは無意識に、小さく首を振っていた。たとえ電話があったとしても、母がこんな時間に起きているはずがない、無視するに決まっている、と思ったのだ。
「どうかした?」
わたしが何やら、背後でごそごそしているのに気付いたのかもしれない。リューシカが手元に集中しつつ、声だけで訊ねた。
「学校から電話があったみたいで。たぶん、遅刻の連絡をしなかったからだと思うんだけど」
雑談の途中にリューシカから敬語も使わないで、こそばゆいから、と言われたのをきっかけに、わたしはリューシカに対して敬語で話すのをやめた。そうしたら、ずっと前からの知り合いみたいになった。
……もしかしたら本当に、前から知っていた人なのかもしれない。
ふたりとも相手の記憶をなくしていて、今日、もう一度奇跡的な邂逅を果たしたのかもしれない。
ふとそんなことを考えてしまうくらい、彼女との会話は気安かった。気安くて、心地よかった。
他人なんて、大嫌いなはずなのに。
わたしはリューシカの背中を少しのあいだ見つめて、それからまたスマホに視線を戻した。リューシカの部屋にいることも相まって、学校に電話をする気にもなれず、いつも閲覧している小説サイトのアプリを開いた。
「今度は? 何を見ているの?」
するとすぐにまた、リューシカから質問が飛んだ。もしかしたらこの人は、背中にも目があるのだろうか。わたしはずり落ちた薄掛けを肩に戻しつつ、
「小説投稿サイトの、好きな作家さんの作品」
と答えた。
「任那っていう、たぶんペンネームだと思うんだけど、男の人かも女の人かもわからない作家さんがいて。朝、続きがアップされたから電車の中でも読んでいたんだ。……わたしの最近の推しなの」
「推し? なんて小説?」
「……『さんざめく、しじまに』ってタイトルのSFチックな小説。この世界の男の子はね、ある年齢に達すると」
「矛盾してる」
リューシカが背中を向けたまま言った。
「さんざめくは大勢で騒ぐこと、しじまは静寂や、口を閉ざすこと。……どうしてそんな名前のタイトルをつけたのか。花にはわかる?」
矛盾。
小説の中の矛盾。
全員が男として生まれ、やがて全員女になる世界。好意をいだきあっている少年同士が、その片方だけが先に女になって、でも、性行為には至らない。大人になった……女同士で、子をなすことを拒否して、それでも愛し愛されるのを、夢見る世界。
それは矛盾なのだろうか。
それが矛盾なのだろうか。
そもそも……どこからが矛盾なのだろうか。
大勢の中にいて、喧騒の中にいて、それでも静寂を感じてしまうということ。世間を横溢する愛の言葉の海に、けれどもふたりだけ、口を閉ざさざるを得ないということ。
それは、矛盾なのだろうか。
大勢の中にいても、どんなに愛されていても。孤独な人はきっと、永遠の孤独からは逃れられない。
心から愛しあっていたとしても、結ばれることを拒否するのは……子を成すことを否定するのは、矛盾なのだろうか。
わたしがリューシカにそう訊ねると、リューシカは手を止めて、ゆっくりと振り返った。眼鏡の奥の瞳が、やわらかかった。
「読者である花がそう思うのなら、作品をそう読み解いたのなら、あるいはそうなのかもしれない」
それから少し考えるそぶりをして、
「ただ、わたしから、ひとつだけ言えることがあるとしたら」
こちらに向かって微笑むリューシカを、わたしはじっと見つめた。
「あなたの物語はきっと、幸せな結末を迎えるはずだわ」
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