いつの日か、わたしとあなたがいなくなっても。
月庭一花
■月■■日・■「ある日、渚が落ちてきて」
鳥が啼いた。
二度、三度、と……。
わたしたちの足元に海猫の影が薄く、淡く、壊れた古いモビールみたいに、ゆらゆらとゆれている。いつもと変わらないようなのどかな声で、みゃあ、みゃあ、と互いに鳴き交わしている。
わたしたちは手を繋いだまま振り返り、鳥の姿を見ようと、空を仰いだ。
岬の突端の少し手前で、「それ」を背にした格好で。
見上げると頭よりももっと遠い高いところに海猫は、翼を広げた姿のまま空に浮かんでいた。
風はあんまり吹いていなかったけれど、海猫たちはその翼に、上空の風を受けているのかもしれない。
近くの背の低い雑草が、風に吹かれて、一斉に、さあ、と鳴った。
でも、
鳥も、植物たちも。
もうすぐこの世界が終わってしまうことを知らない。きっと知らない。
わたしたちの失敗のせいで、わたしたちの選択のせいで、全部。
あと……数時間も経たないうちに。
全てが終わってしまう、その最初が訪れることを。
何も知らないのだ。
瞬間、心臓が強く胸を打ち、どくん、と嫌な音を立てた。
きっとそれが伝わってしまったのだろう。わたしたちの不安がシンクロしたようになって、繋ぎ合わせた手を、同時にきゅっと握りしめた。そして、視線をまた、一緒に、海の向こうへと戻した。
遥か上空、直径四百キロメートルを優に超える「それ」……「何か」が、ゆっくりと、傍目からは本当にゆっくりと、この星に衝突しようとしていた。
小笠原諸島のさらにその向こう側に落ちるのだというのに、その「何か」……政府の偉い人は隕石だと言っていたけれど、でも、わたしたちは知っている。あれはソラリスと同じ種類のもの。同種のもの。とてもとても大きい。空の半分以上を覆っている得体の知れない「何か」。
……ううん、違う。「何か」じゃない。
あれは「何か」なんかじゃない。「それ」なんかでもない。そんな他人行儀なものじゃない。わたしたちの命を奪う、絶対者なのだから。知性ある、他者なのだから。
だから、わたしたちはふたりで「渚」という名前をつけたのだ。
命名したのがわたしたちのどちらだったかなんて覚えていない。けれど、あの巨大なものは、わたしたちの「渚」なのだ。
それは人の名前だった。そしてネヴィル・シュートの小説のタイトルから拝借した。あとからグレゴリー・ペックの古い映画があったのを思い出して、わたしたちは一緒にソファに座ってテレビに映るモノクロの映像も見た。
小説や映画と同じ、この世の終末をもたらすもの。その象徴。終わってしまった命の名前。命の誕生を奪うもの。わたしたちが「渚」と名付けたのはだから、自明のことだったのだと思う。
あるいは……今思えば……名前をつけたのは、確かにそこに存在する、世界の終わりをきちんと受け入れたいな、という、その気持ちの表れだったのかもしれないのだけれど。でも、
本当に最初はとても小さな、空に浮かぶ点だったのに。ただの……黒い点だったのに。
「怖くない?」
わたしたちの声が重なった。思わず顔を見合わせて、笑ってしまった。笑っている場合じゃないのに、笑いあってしまった。
「怖くないわけないよね」
握り合わせた手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。
「でも、ずっと一緒だから」
最後まで。最後の瞬間まで。
その言葉は、どちらの口からも出てこなかった。けれど指先の動きだけで、お互いがお互いの気持ちを、理解し合っていた。
もうすぐ、もうすぐ。
圧縮断熱が起きて、「渚」の表面は真っ赤に燃え上がるだろう。気圧が変化し、大きな地響きとともに、激しく大地が揺れるだろう。衝突。衝突が起きたら。地殻が宇宙までめくり上がり、日本なんてみかんの皮を剥ぐように消えて無くなってしまう。吹き上がった灼熱の溶岩蒸気が驚異的なスピードで世界を覆っていく。ものすごい速さで海を干上がらせていって、地表には一滴の水も残りはしない。世界は燃えて、焼け落ちて、一日足らずでこの星を原初の火の玉みたいなものに変えてしまう。
誰も……助かりはしないのだ。
植物も動物も、人も微生物も、すべて消えてしまうのだ。
永久に残るはずだったプラスチックのゴミも、核の廃棄物も、人類の栄光も、色々なしがらみも、多様な生命の営みも、全部。全部無くなってしまう。
政府の出した見解や科学者たちによる研究報告では、地下五十キロメートルまでのすべての生き物は死滅するという。
遥か上空四百キロメートルに浮かぶ宇宙ステーションや人工衛星も、巻き上げられた岩石によって破壊されるという。
この星を脱出するほどの科学力なんて、そもそも人間は有していない。人類はもう月にだって到達できない。元々月に住むことなんてできやしない。ましてや隕石を止めるほどの力なんて、最初から持ち合わせてはいない。そこまでの英知は結局人類には生まれなかった。だから。
どうしようもない、と皆が思った。それは絶望と同じ意味だった。そもそも、「渚」からのギフトは、すでにわたしたちから未来を奪っている。「渚」がもたらした……ばら撒いた感染症に似た「毒」は、すべての胎児を奇態な、ただの肉の塊に変えてしまった。「毒」はかつて多大なる薬害をもたらしたサリドマイドよりも強固にセレブロン蛋白質に結合し、基礎特異性を変化させた。その結果。わたしたちは子どもを子宮に宿すことができなくなった。ううん、子どもを作ることができても、健康体として産むことができなくなった、と言い換えた方がいいだろうか。わたしたちの子どもは皆、子宮の中で人の形をなさずに死んでいく。だから。「渚」が落ちてこなくても、「渚」の「毒」により遅かれ早かれ人類の絶滅は決まっていた……のだと思う。
混乱と暴動があった。
神様にすがる人たちの姿があった。
「毒」に対する治療法は皆無だった。
地球にあるすべての核兵器を、その怒りも込めて、元凶である「渚」に使用する計画もあったのだけれど、それだって大国同士の思惑のせいで頓挫してしまった。まあ、実行されても無駄に終わっただろうが。
今は全部が徒労に終わって、失敗してしまって、人は「静かに」その時を、最後の瞬間を待っている。そういう段階に来ていた。
静かに……というのは、恐怖に耐えきれなかった数多くの人たちがもう、消えてしまったからだ。やさしいやさしい政府が配ってくれた薬で、苦痛も恐怖もない、向こう側に旅立ってしまったからだ。
今生き残っているのは、不確かな思いを抱えたまま、それでも最後の瞬間をこの目に焼き付けてから死にたいという、奇特な人たちばかり。
そのひとりであるわたしたちは、あともう少しでこの世が終わるという段になって、ふと考える。考えてしまう。
もしも終末をもたらすものが神なのだとしたら。
頭上に浮かんでいる「渚」は、まさしく神の「み姿」そのもの……なのだろうか、と。
命と死の裁定者。絶対的でありながら、わたしたちの隣に常にいる、断裂と断罪、そのものの姿。わたしたちの罪が具現化した何か。未来を断ち切るもの。それは……神様と呼ばれる存在そのものかもしれない。……ふと耳を傾ける。
どこか遠いところから、教会の鐘の音が聞こえる。
最後の審判の始まりを告げる、天使の喇叭が、今にも吹き鳴らされようとしている。
わたしたちは畏敬の念にも似た厳かな気持ちに押し潰されそうになりつつ、それでも「渚」をじっと見つめ続けていた。狂ったように鳴り響く、鐘の音を聞ながら。
もうすぐ、もうすぐ。
この世の終わりが来るのだと。
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