8月12日・金「痛みのない街」
夏休みの部室には、わたしとお姉さまの姿だけ。締め切られた部屋は空調が効いている。エアコンの微風にレースのカーテンがゆらめいて、中央の机に不思議な影を作っている。
天気は快晴。蝉の鳴き声がやけにうるさい。
「大変な目にあったのね」
そう言ってお姉さまはくすくすと笑った。三つ編みの髪が小さくゆれた。
「笑いごとじゃないです」
わたしは少し憤慨しながら、そう答えた。
「本当に大変だったんですから。わたしあのあと、その人の……」
「その人の?」
問い返されて、わたしは思わず口を噤んでしまった。
「……いえ、なんでもないです」
言えない。
お姉さまには、絶対に言えない。
「ところで、原稿の方なのですけど」
「そうね。あなたたち以外のものは、幾つかもらっているわ」
わたしはその言葉を聞いて、少なからず驚いた。
文芸部には、わたしたち以外の部員はほとんど顔を見せない。その中で、どうやって原稿を集めることができたのだろう。
「なあに? 不思議そうな顔をして」
「いえ。……よく集まりましたね」
姉はわたしの質問に苦笑で答え、別に大したことじゃないわ、と呟くように言った。
「それで……。あなたたちの小説は、まとまりそうなのかしら」
「一応、形にしてきました。一読していただいて、手直しをしようかと」
「見てもいい?」
「はい」
わたしはプリントアウトした原稿を鞄から取り出して、姉に手渡した。姉は少しのあいだタイトルを眺め、それから紙の束を捲り始めた。
……クラレは舞踏会の夜、暗闇に紛れて国を出る。そして、長い旅路の末に夜の国へとたどり着く。夜の国は月の光によって花咲く、美しい場所だ。けれど、ここでもクラレは異物だった。
なぜなら、夜の国の住人は、みな、クラレよりももっと、夜の色をその花に宿していたから。
クラレは自身の花が、本当の夜の色ではないことを知る。クラレは夜の国で白い花と呼ばれる。黒い花の住人よりも、ずっと、花の色が薄いから。それは夜明けの色。もしくは日暮れの色。クラレはわからなくなる。自分が何者なのか、わからなくなる。それでもクラレはここが自身の場所だと信じて、夜の国に馴染もうとする。夜の国に太陽は存在しない。月の光だけが空を照らしている。クラレは光の届かない場所で、少しずつ、少しずつ白くなっていく。それはかつて、自身が望んだ姿。でも、ここでは、夜の国では、みなに溶け込めない色。絶望しかけたクラレの前に、ある日、一人の少女が現れる。サキノハカ。彼女は生まれつき目が見えない。色というものを理解しない。だから、クラレの花の色に気づかない。そんなものに興味を示さない。サキノハカはクラレの心を解きほぐす。クラレはやがて、サキノハカを愛するようになる。目が見えるということは、「見る」ということの妨げになることを知る。サキノハカは盲目の歌うたいだった。街から街へ、歌を歌いながら旅をする。クラレはサキノハカの杖の代わりに、彼女の目になる。クラレがかつて旅をしたときに通り過ぎた街を、一つひとつ、さかのぼるように。二人で旅をする。赤い花の国、青い花の国、……そして白い花の国にたどり着く。クラレはもう、白い花でも、黒い花でもなくなっている。それは画用紙の、何も描かれていない色。無色の花。はたから見れば白い色の花なのだけれど、違う。違うのだ。クラレは誰にも気づかれない。両親も、王子も、クラレを認識できない。ただ、サキノハカだけが彼女を知っている……。
「……面白かったと思う」
姉は原稿の束をテーブルに置き、わたしを見つめた。
「不思議な話だけれど……これ全部、沈花ちゃんが?」
「後半の部分は、わたしもアイデアを出しました。それから二人で話し合って、こういうお話にまとめたのですけど……ラストだけ少し違和感があって」
「違和感?」
「はい。閉塞感があるというか……うまく言葉にできないんですが」
わたしは言って、小さくため息をついた。違和感、というよりも、もどかしさ、だろうか。自分でもよくわからない。
姉は最後の箇所をもう一度見直して、そうかしら、と呟くように言った。
「わたしにはうまく書けていると思う。センスや感性がいいと思う。直す必要もないと思うけれど……。ねえ、本当に小説を書くの初めて?」
「初めてです。……小説を読まれるって、こんなに恥ずかしいんですね。お姉さまに読んでいただいているあいだ、ずっと手汗が止まりませんでした。今でも、ほら」
わたしはそう言って、両の手のひらを広げて姉に示した。姉はその仕草を見て、くすくすと笑った。
「わたしも、わたしのお姉さまに小説を初めて読んでもらった日のこと、覚えているわ。お姉さまが原稿から目をお上げになるまで、生きた心地がしなかった。ほら、わたしのお姉さま、小蝶はおぼえているかしら、いつも無口だったでしょう? なんて言われるかと、ビクビクしていたっけ」
「それ、どんなお話だったのですか?
わたしは好奇心から訊ねてみた。姉が初めてお姉さまに読んでもらった、というのであれば、それは姉が一年生のときの話、ということになる。
わたしが一年生のときにお会いしたことがあるけれど、わたしの姉のお姉さま……雨さまとは、ほとんど言葉を交わしたことがなかった。あの方が姉の小説をして、どんな風に評したのか、気になるところだった。
「ずいぶんと気持ち悪い小説を書くのね、って」
姉はそう言って苦笑した。わたしはあまりに明け透けな言い方だと思って、思わず絶句してしまった。
そして、……やっぱり違うのかもしれない、と思った。姉は、あの人じゃないのかもしれない、と。それとも……ネットと部活とでは作風を変えたりするのだろうか。
「それはまた……内容が訊きづらくなりました」
わたしも姉に倣うように、なんとか苦い笑みを口の端に浮かべてみせた。
「ええと、もしよろしければタイトルだけでも教えてくださいませんか」
「いいわよ。それは短編だったのだけれどね、名前は」
姉はどこか遠いところを見つめる目をして、『痛みのない街』というの、と答えた。
ぱらぱらと、小さく雨の音がしていた。
指先で、そっと畳の表面を撫でた。わたしのアパートの畳とは、まるで違っていた。どう表現したらいいのかわからないけれど……高級そうだというのは、なんとなく理解できた。座布団もふっくらと厚くて、生地も立派で、座り心地もいいのに、……落ち着かない。きっと、わたしが根っからの貧乏人だからだろうと、少しだけいじけた気持ちで、思う。
それにしても……どうしてこんなことになってしまったのだろう。
わたしは息を殺しつつ、目の前に座っているふたりの姿を盗み見ていた。一花さんに対する恐怖心は多少和らいだものの、手のひらにはずっと、汗が滲んでいた。
「ここはかつて、父のお妾さんの家だったの」
一花さんが、わたしを見るでもなく、ぽつりと言った。
「今はわたしのものだけれど」
そして、よかったらくつろいでね、と続けた。……そんな話を聞いたら、余計に、くつろげるわけがなかった。
「ところで
「さあ、……どこ行かはったんやろ」
夜々子さんが少し困り顔で、手で探るように盆の上の碗を取り、わたしに勧めてくれた。薄茶が点てられていた。
中前栽の方に目をやると、開け放たれた猫間障子の向こう側に、葉を茂らせた古い梅の木が植えられていて、雨に濡れそぼっていた。
風情のせいだろうか、それとも自分の置かれた環境のせいだろうか。思いの外涼しく、夏の京都の蒸し暑さを感じさせない。
執事のようなあの男は一花さんを車の座席から抱えあげて家に送り届けたあと、すぐにいとまを告げ、消えてしまった。あの黒塗りの大きな車も。家に張られた結界が、女たち以外を遠ざけるように。彼らがどこに行ってしまったのか、どこに去ってしまったのか、わたしにはわからない。先ほど彼女たちが話していた芯というのは……はて、あの男の名前だったのだろうか。
ここには、足の不自由な一花さんと、目の不自由な夜々子さんしかいない。それはなんとも……とても不用心な話だけれど。
「ごめんね、無理やり連れてきてしまって」
一花さんが足を崩しながら……といっても足先は失われているのだが……わたしに言った。
「ふふっ、でもあなたのこと、ちょっと気に入ってしまったの。……というわけで、改めまして。わたしは月庭一花。カサンドラ・プロジェクト西日本支部の、リーディング・マスターをしているわ」
「え、と、カサ……?」
わたしは横文字ばかりで聞き取れなくて、返す言葉に詰まってしまった。
「カサンドラ・プロジェクト。カサンドラというのはトロイアの悲劇の王女の名ね。アポロンに愛され予言の力を得るけれど、アポロンの浮気を予言して彼を拒絶し、それが元で呪われてしまう。誰も彼女の予言を信じなくなる、という呪いをかけられるのよ。トロイア戦争のことは学校で習った?」
「いえ、習ってはいませんけど……ええと、それってギリシャ神話の、ですよね」
「そう。トロイの木馬の。トロイア戦争は紀元前一二〇〇年頃にあった実際の出来事だというけれど。どうなのでしょうね。本当のところはよくわかっていないみたいだけれども。ただ、舞台となったイーリオスの街はシュリーマンによって発見されているから、もしかしたら事実なのかもしれないわね。まあ、エリスの不和のリンゴがきっかけに起こった戦争……ではないのでしょうけど」
わたしは半ばぽかんとしながら、一花さんの話を聞いていた。
「わたしたちは現代のカサンドラ。数多ある虚構……小説の中から戦争の可能性を見つけ、警告を発する予言者。暴力的言語の広がりを時系列の感情分布図に置き換えていく。当代の魔女よ」
真剣な瞳。
中庭から入った風が、一花さんの方顔のベールを、翻した。どのような事故、事件によるものなのかはわからない。癒えることのないその傷跡は、……赤黒い傷痕は、まるで地獄の花のようだった。
わたしは思わず、ごくん、と唾を飲んだ。
「……もっともカサンドラの伝承と同じで、わたしたちの言葉に『本当に』耳を傾ける人は少ないけれど、ね」
ふっ、と表情を緩めて、一花さんは苦笑混じりにそう言った。
「それでも我々は国家のプロジェクトとして存在している。わたしはね、その中でも今は特にネットの、ファンタジー小説やSF小説を担当しているわ。出版されない数多の小説の中にある、集団的無意識、世相、志向、そう言ったものから戦争の気配を感じ、分析するのがわたしの仕事。小説というのは今の時代の写し身だから。異世界への転生物語や、VRMMO、自分を捨てた仲間を見返す物語が現代に流布するのにもちゃんと理由があるはずなの。現実の生きづらさ、理不尽に対する抵抗。楽をして理想を手に入れたい、という甘え。本来は脱却すべき幼さゆえの万能感。自分は他人とは違うという自負。承認欲求による注視願望。こんなはずじゃない、もっと自分は特別な存在なはずだという自尊心。ううん、劣等感の裏返しなのかしらね。現実世界で見向きもされないような自分が、チートでハーレムで、って。何百万人からの支持を受けるVチューバーに、って。ありもしない夢を見る。そもそも現実世界の底辺に生きている人のメンタルが、異世界に行ったくらいで変わるとでも思っているのかしら。でもね、否定的な意見としてそんなテンプレと呼ばれる要素が取りざたされることが多いけれど、違うのよ。本質はもっと別のところにあるのよ。これらの小説はグロテスクなシーンや情欲、死の場面を描きつつもどこか軽い。他人の、自分の痛みを痛みとして認識していない。理解しようとしない。鴻毛のような命の軽さを感じさせてしまう。他人の体を、心を痛めつけることを、物語を盛り上げる一つの道具くらいにしか思っていない。そもそも非道を行う悪人の思考は単純化されて深みがない。だからやられて当然、というスタンスで描かれる。でもね、それらを目の前にした主人公の取る行為もだいたい一緒。すぐに、殺すしかない、みたいな思考に単一化される。わたしは思うのだけれど、どうしてモンスターにしろ敵にしろ、現代人の感覚を持ち得ながら、物語の主人公は皆、命を奪うことにそれほど抵抗がないのかしら。現在に生きているわたしたちは食べ物を得るために命を奪う経験が少ないわ。魚が開きや刺身で泳いでいると思っている、なんていうのはギャグかもしれないけれどそういう……なんて言ったらいいかしら。命を奪う希薄さみたいなものが影響しているのかしら。想像力が欠如していると言い換えてみてもいいかもしれない。牛や豚を日常的に食べていても、屠殺した経験のある日本人なんてほとんどいないのだもの。害獣を駆除した経験のある人がどれだけいる? 小動物でさえ、わたしたちは命を奪うことに抵抗を覚えるのに。それなのに、数多の小説では敵も味方も命を奪う痛みが薄いわ。ねえ、考えてもごらんなさい。人型の魔物を殺すことに抵抗感を持たないわけがないじゃない。殺されることに恐怖を抱かないわけがないじゃない。わたしは、敵だから、敵対するから殺す、それにとどまらず拷問も辞さない、というメンタルの帰結を看過できない。悪役だから当然それを行うという思考に共感しない。それに耐えうる精神の醸成が理解できない。主人公側から見ても、やられたら倍返し、なんて論理を正当だとは思えない。それはわたしたちの危惧する未来の予兆だから。破滅に繋がる前兆だから。……まあ、そんなことを言ったら厨設定系の小説なんて元も子もないのかもしれないけれど。本当はその先にある……『人や世界といかにして関わるか』まできちんと描ければ物語として読むに耐えるものにもなり得るのだし、こういった小説が命というものの在り方を教えてくれたりもするはずなのだけれど。でもね、小説とゲームは違う。小説はゲームとは違って、殺さなくてもいいの。それでも先に進める物語が構築できるの。例えば……ああ、ごめんなさいね。夜々子が点てたお茶が冷めてしまったわね。新しいものと取り替えましょうか?」
「いえ、大丈夫です。このままで」
答えて、わたしはそそくさと碗に口をつけた。そのときだった。
意図せずにお腹がきゅるきゅるっと鳴ってしまって、思わず手で胃の辺りを押さえた。めちゃくちゃ恥ずかしかった。
「あら、……そういえば夕食がまだだったわね。夜々子、何が食べたい?」
それまでじっと一花さんの横に侍っていた夜々子さんは、急に話を振られて慌てて顔を上げた。
「へ? ……何でうちに訊きますの。そんなん花さんに訊かへんと、でしょ? 花さんは……何がお好きなん?」
「あ、ええと、その」
「馬鹿ね、お客様に訊いたりしたら逆に答えられなくなるでしょう? だからあなたに訊いたんじゃない。ほら、何が食べたい?」
「言うても仕出しやろ? せやったら……」
「じゃあ、鰻でいいわね」
夜々子さんの言葉を途中で遮り、言うが早いか、一花さんはスマホを取り出して画面をフリックさせている。それを聞いた夜々子さんは困り顔で、
「一花、鰻好きやね……」
と小さな声で呟いた。
「あら、夜々子だって好きでしょ?」
ちらり、と隣の夜々子さんを見つめる一花さんの目は、不思議な色をたたえていた。盲目の夜々子さんは、けれど、それには気づかない。
「花ちゃんは?」
一花さんはそのまま、流れるようにわたしを見て、訊ねた。ちゃん付けで呼ばれるとは思わなかった。
「鰻。好き?」
「わたし……鰻って、食べたことがないです」
「そうなの? 嫌いなわけじゃなく?」
「はい」
土用の丑の日、なんて騒がれていても、わたしたち親子は鰻なんて口にできるような生活とは無縁だった。少なくともわたしは、慎ましく、密やかに。生きてきたのだ。
羨ましいと思ったことも、なくはないのだけれど。でも、わざわざあんな高いものを食べたがる人の気が知れない、とも思っていた。
「ふうん。……じゃあ、花ちゃんの初めてをわたしが奪っちゃうわけね」
ちろり、と赤い舌を出して、一花さんが蛇のように笑った。
一瞬、背筋がぞわっとした。
「またそんなわざといやらし言い方して……花さん、堪忍ね」
「ふふふっ。じゃあ、楽焼きがいいかしら、それとも蒸籠がいいかしら。悩むわね」
一花さんは楽しそうに、わたしのことを忘れたみたいに。スマホの画面を見つめていた。
総檜の湯船で足を伸ばしながら、今頃クラスメイトもお風呂に入っている頃だろうか、と思った。
クラスメイトに肌をさらさずに良かったという思いと、なぜか……人嫌いなはずなのに……寂しいという思いがないまぜになって、気持ちの整理がつかない。腕を湯の中で動かすと、ちゃぷん、と小さな音がした。わたしのささやかな胸が、お湯の勢いに負けて、少しだけ揺れる。
小さくため息をつく。今、いったい何時になるのだろう。一花さんの住まいには時計もカレンダーもテレビすらなくて、時間の感覚がよくわからない。自分のスマホを盗み見るのもなんとなく憚られて、ポーチの中にしまったまま。ただ、なんとなく、リューシカのあの船の中にここは似ている、とわたしはそぞろな気持ちで思う。流れている空気の質が、同じもののように思えるのだった。
……夕ご飯が届くまでまだちょっと時間がかかるから、先にお風呂に入ってらっしゃい。お湯は溜まっているから。下着と服も用意しておくわ。
一花さんにそう言われて、うまく断ることもできず、わたしは今、こうしてお風呂に入っている。
湯船には細い、針のような松の葉が浮かべられていて、外の蒸し暑さを忘れるくらいに、清涼な香りが湯殿に漂っていた。気持ちが幾分、すっとする。……これは一花さんの手によるものなのか、それとも夜々子さんがしてくださったのか。もてなし、というものが、その本質が、この瞬間だけはなんとなく理解できたような気がした。
風呂を出ると、脱衣所にはわたしの脱いだ……身につけていたものは無くなっていて、代わりに大振りのバスタオルと、真新しい折り目がついたままの、下ろしたてのショーツ。そして白地に藍染めされた、あやめ柄の浴衣が出されていた。わたしは一瞬身構えたけれど、もうなるようになれ、と思いながら、何度も洗い晒され、手触りが良くなった浴衣に袖を通した。紬のものらしい薄桃色の兵児帯を結んで出ると、一花さんと夜々子さんの二人もいつの間にかやわらかそうな生地の浴衣に着替え終えていた。どちらも藍地に芙蓉の花が、白く染め抜かれている。結わえた兵児帯も、同色の淡い緑。
「着替えだけ、ね」
わたしの視線に気づいたのか、一花さんが答えた。
「お先にいただきました」
「どういたしまして。夜々子。お願いできる?」
「ええよ。うちに掴まって」
一花さんが夜々子さんの首に、腕を回す。
夜々子さんが無造作な感じで一花さんを抱きかかえる。まるで羽毛を抱くように、軽々と持ち上げているように見える。ちぎれた足先が、ぷらぷらと揺れている。……夜々子さん、昼間自転車にぶつけられて足を痛めていたはずなのに。大丈夫なのだろうか。そういえばこの家に着いたとき、夜々子さんは少し足を引きずっていた。今も若干痛そうにしている。それでも、夜々子さんは一花さんを抱きかかえ、それを当たり前のことのようにしている。……そもそも一花さんの重さって、いったいどうなっているのだろう。夜々子さんだって線が細くて嫋やかなのに。彼女には人ひとり分の重さが、本当にあるのだろうか。ふと、そんなあれこれを、つらつらと思う。
「もしもお湯を使っているあいだに岡持ちが届いたら、受け取っておいて。お金を払う必要はないから。心配しないでいいわ」
そう言い残して、二人は部屋を出て行った。夜々子さんは痛そうにするそぶりを一切一花さんには悟らせず、彼女を抱えながら歩いていく。それこそ勝手知ったる、といった感じの足の運びで、廊下を迷ったり、ぶつかりそうになったり、しないのだった。
ひとり残されたわたしは、足を崩して座り、掃き清められている美しい部屋の中を見回した。誰が掃除しているのだろう。六畳の部屋なのに広く感じるのは、物の少なさと京間のせいか。
よく磨かれた床の間には違い棚に筆返し。「一雨普潤周沙界」と書かれたお軸。その下には追朱の香合。花器には名前のわからない百合に似た黒い花が生けられていて、右隣、長押の上の欄間には、揚羽蝶の透かし彫りが鮮やに施されている。また、お茶をいただいた食台近くの手文庫の上には、一冊の本が無造作に置かれていて、本好きのさがでなんとなく近くに寄ってタイトルを確認すると、『リューシカお願い、わたしを殺して』と書かれていた。
……リューシカ?
なぜ?
どうしてここで、この場面で、リューシカの名前が出てくるのだろうか。
この小説の題名……まさか、わたしの知っている彼女のことではあるまいが、不思議な一致が気になって、そっと手を伸ばすのと、廊下側の障子がからり、と開いたのが、同時だった。
廊下に這いつくばるような格好で、一花さんがそこにいた。湯を使ったにしてはあまりにも早く戻ってきたのに驚いて、わたしは言葉を失ってしまっていた。しっとりと濡れた髪が、彼女の顔の傷跡の上に、張り付いていた。
「あら、驚かせてしまった? わたし、いつも烏の行水だから。夜々子はもう少しかかると思うけれど」
わたしは慌てて手を引っ込めながら、ぎゅっと握り合わせた。変な汗が背中を流れ落ち、心臓が漠々と音を立てていた。
「まだ来ないみたいね」
「え?」
「鰻」
そして、ちらりと目を光らせて、
「そういえば花ちゃん。あなた、任那ってネットの小説家、知っているわね?」
と訊ねた。
……どこかで、にゃー、と。間延びした猫の声がした。それは家の中から、聞こえた気がした。
わたしは目を見開いたまま、一花さんを見ていた。
「どうしてって、顔をしているのね。わたしの専門はネット小説と言ったでしょう? あなた、任那の小説に感想を書き込んでいたわよね。ネット用のハンドルネームみたいな偽名ではなく、遊崎花という、花ちゃんの本名で。だからあなたの名前を聞いたとき、ふと、そのことを思い出したのよ。もしかして、って思ったの。花という名前はありふれているかもしれない。でも、遊ぶに崎と書いて『ゆさき』と読む苗字は少ないわ。そういうわけで、あなたと任那の話がしたかったの。ここに呼んだのはそのためよ。まあ、夜々子のことはついで、といったところかしら。あ、お礼は言うわ、もちろん。夜々子を助けてくれたことに対しては、本当に感謝している。ありがとうね。それで、……そう、任那のこと。『さんざめく、しじまに』にもあなたはレビューを寄せていた。花ちゃんは随分と任那に心酔しているのね。ん? 読めばそれくらいのことはわかるわ。あなたには書評の才能があるのね。読む人の心を掴む書評だったわ。それであなたのことを覚えていた、というのもあるのよ。そうそう、そのレビューの話。あなたは戸惑ったと書いていた。物語の後半、二人の祖国が侵攻を受けることについて。戦場のシーンが、ひどく生々しかったことについて。そして今度の『ある日、渚が落ちてきて』にはまだ、いつも書いている章ごとの応援コメントが書かれていない。どうしてかしら? 任那の小説が嫌いになった? それとも自分の好みと違うから読まなくなっただけ? ……そんな顔をしないで。わかっている。わかっているわ。あなたにとっての任那はもはや好きとか嫌いとかというレベルじゃないことくらい。花ちゃんの生き甲斐そのもの。レビューにも書いていたように、あなたの背骨、なのでしょう? そういうのをなんていうのだったかしら。そう、推し。推しと言うのだったわね。わたしに取っても彼女は推しだわ。あら、どうしたの? 花ちゃんは同担拒否ってタイプ? ああ、任那を彼女と言ったのが気に入らないのね。筆致や文章のクセを見れば女性だと思うのだけれど。それとも憧れの作家さんは男性の方が良かったかしら。違うか。自分よりも彼女を理解しているように見えるがわたしが気にくわない、って感じかしら。ふふ、怒らないで。あなたを怒らせたかったわけじゃないの。ごめんなさいね。つい、からかってみたくなって。ふふふ、あなた、本当に可愛い」
膝立ちとなり、にじるように近づいてきた一花さんが、わたしの頬に触れた。
氷のような冷たい指先に、わたしの心臓は一瞬にして凍りついた。
もう、猫の鳴き声はしない。ただ、雨音だけが部屋を満たしている。
わたしは怖くなって、一花さんの指から逃れるように、顔を背けた。
……どうして今の今まで気づかなかったのだろう。部屋の左端の隅に小さな仏壇が添え付けられ、黒い位牌が一つだけ置かれていた。あるいは無意識のうちに、わたしは目にしないようにしていたのだろうか。
艶やかな黒の光を湛えた位牌には、金色の文字で小さく、「雪誉紅梅花照禅定尼」と書かれていた。誰の位牌なのか、わからない。けれど、なんとなく見てはいけないもののような気が、した。……もしかしたら、ここに囲われていたお妾さんのもの、なのだろうか。
なら、どうして彼女は死んだのだろう。
「任那を名乗る人物は女よ。間違いない。そして、きっとあなたを知っている。知覚し、認識しているはずよ。あなたの感想は確かに彼女に届いているわ。そう。そうなの、あなたと出会ったことで任那の小説が、作風が変化しているようにわたしには思えるの。ふふふ、あなたの影響ってすごいのね。あなたが物語世界を変えてしまったのね。それが現実世界の戦争の予兆につながるかもしれないのにね。でも、……まあ、そうね。そんなこと言われてもって、感じよね。いいのよ。そんなに慌てないで。大丈夫よ、花ちゃんはわたしの言葉を信じてくれてもいいし、鼻で笑ってくれてもいい。だってわたしは当代のカサンドラ、なんだから。わたしの予言は誰にも信じてもらえない。それが運命なのだから。でもね、今度の小説、『ある日、渚が落ちてきて』がもしも現実になるようなことがあったなら、……ふふ、それこそ杞憂だわね。直径四百キロメートルの巨大隕石が落ちてくるなんてありえない。いや、違う。違うわ。……天災の姿を借りた何か。絶対的な他者。まるでソラリスのような知性を持った……。待って、それは今世界を覆っているあのリースという感染症についても一緒なのかしら? でもそれなら、まさか……」
思考の袋小路に入ってしまったのか、一花さんは一人でぶつぶつと呟き続けていた。わたしにはもう、彼女の言っていることが何一つ分からなくて、ただただ怖いと思うだけだった。狂女が垂れ流す妄想を聞いている気分だった。一花さんの独り言は湯上りの夜々子さんが顔をみせるまで続いた。
「……一花? 何ひとりでぶつぶつ言うてはるのん? 花さんのお相手、してたんと違うの?」
「あら、夜々子。いつの間に出てきたの」
「いつの間にも何も、……今あがってきたとこやないですの」
「まだ髪が濡れているわね。そこに座りなさい。拭いてあげるから」
「ええと、花さんは? 居られんの?」
「いるわよ。ねえ?」
一花さんがわたしを見た。
そこにはもう狂気の色はなかったけれど、瞳の奥にはまだ熾火のようにチラチラと燃える何かがあるのを、わたしはしっかりと感じていた。
「またお客さんほっぽっといて、そない独り言言うて。……そういえばお店の人、来はったん?」
「……まだね。何をしているのかしら」
一花さんが小さくあくびをした。
それがひどく現実的で、わたしはなんだか肩の力が、すっと抜けてしまったのだった。
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