エピローグ

 彼女が自室に入るのを確認した山田は、事務所のデスクに腰かけるなり引き出しから二冊のノートを取り出して広げた。

 山田はゆっくりとページをめくり、彼女と知り合ってから起こった事件のページを流し読みしながら白紙のページまで進み、そこで手を止めた。


「これで、13件目か」


 山田は白紙のページに、ボールペンを走らせた。今回の事件の詳細を記すためだ。

 それは事件の概要から始まり、事件関係者の名前。見つけた証拠の数々。用いられたトリックの内容。覚えている限りの、関係者たちとの会話。

 それらを記し終えた山田は、スーツの胸ポケットに忍ばせていたボイスレコーダーを取り出し、有線式のイヤホンを繋いで録音内容を頭から聞きながら、それをそのまま別のノートに書き写し始めた。

 それは、彼女と交わした会話。

 旅館までの移動中に彼女とした会話。旅館についてからの会話。事件後の会話。部屋の前で別れるまでの会話。彼女との全てのやり取りを、一言一句たがわず正確に、音声を文字に変換した。


「……よし、終わりだ」


 山田は関わった事件の記録を、探偵を生業にする前からやっていた。

 だが、彼女との会話を記録し始めたのは、彼女と出会ってからだ。

 今回もそのルーティン通り、全てを記録してノートを引き出しの奥へとしまい、安物故か、体重を預けるとギシギシと不快な音をさせる椅子の背もたれに身を任せて、いつもの物思いにふけ始めた。


「僕の推理に間違いはない。犯人は次男。共犯者は若女将。全ての証拠が、それを示していた。でも、やっぱり今回もだ。今回も、違和感がある」


 山田がこの違和感を初めて抱いたのは、彼女と出会ったあの事件に巻き込まれた時だ。

 生まれながらの不幸体質のせいで、いつものように仕事の都合で泊まったホテルで殺人事件が起こり、被害者がある種の権力者だったが故に、事件を早期解決させるために山田は警察から協力を要請された。

 

「やはり、アレが始まりだったのだろうか」


 数えるのも億劫になるほどの事件に巻き込まれた経験は、山田に推理力と洞察力を身に着けさせ、警察からの絶大な信頼を与えた。

 その彼の経験をもってしても、彼女と出会ったあの事件は異常だった。

 その事件の犯人は、一人目の被害者の愛人。動機は痴情のもつれ。

 いつもと同じように全ての証拠が、愛人が犯人だと示していた。だから山田は、いつものように推理してその事件を解決した。

 違和感を覚えたのは、その事件から数日ほど経ってからだった。

 あの犯人に、本当にあのトリックの数々が実行可能だったのか? 両親を殺害された彼女自身が解き明かした密室トリックは、専門的な知識がなければ実行は不可能。その後に殺害された二名に用いられたトリックも、同じ理由で難易度の高いものだった。

 それに気づいた山田は、犯人の素性を調べた。

 生い立ちや学歴、果ては警察に協力してもらい、パソコンやスマホの検索履歴まで全て調べた。

 その結果、山田は自分の推理が間違っていたと結論付けた。いや、推理を誘導されたと思い至った。

 思い至った山田は、次に最も印象深かった彼女の経歴を調べた。

 オックスフォード大学を、16歳の若さで飛び級で卒業するほどの天才。複数の学科で優秀な成績を修め、院にはあがっていないが、それまでにとれる学士号と修士号は総なめにしていた。

 しかも、両親はともに資産家。

 天は二物を与えないと言うが、あれは大嘘だな。持っている人間は、初めから全部持っている。何もなかった自分とは対照的だ。とも、当時の山田は思った。

 そんな感想を抱いた山田の脳裏に、彼女が来日する一カ月前までイギリスどころか世界中を震撼させていた殺人鬼のことが何故か浮かんだ。

 世界中のシリアルキラー全てが可愛く思えるほど残酷で残忍で、多種多様な手口。警察を赤子のごとくあしらう狡猾さ。災害と呼べるレベルの死者数。

 七年前に始まり、昼夜問わず人を殺しに殺し、今も捕まっていないその殺人鬼は、かつての切り裂きジャックよろしく忽然と活動をやめた。まるで初めから存在しなかったように突然、何の前触れもなく殺戮をやめた。

 ちょうど、彼女が来日した頃から。


「霧の天使……fog angel」


 椅子をくるりと彼女に貸した部屋の方へ向けた山田は、くだんの殺人鬼の異名をぼそりと呟いた。

 彼女の来日と、殺人鬼の活動が止まった時期が一致するからと言って、彼女がそうだと断定するのは早計だ。彼女が来日してから殺人鬼が事件を起こしていないからと言って、どうして彼女と殺人鬼が結びつく。

 そもそも、彼女と殺人鬼を同一人物だとするなら、彼女とともに巻き込まれた事件の被害者たちは、霧の天使の被害者たちと同じ特徴があるはず。

 それがある者とない者が混在しているから、山田は断定できないでいた。

 断定はできなかったが、山田の胸中には疑いが芽吹いた。


「何が天使だ。いくら殺した人のほとんどが前科者だからと言って、殺人鬼を天使と呼ぶなんてどうかしてる」

  

 掴みどころがなく、気づけば立ち込めている濃霧のごとくそばにいる断罪の天使。その被害者は全て、程度の差はあるが何かしらの犯罪に手を染めたことがある者ばかりだった。

 それ故かイギリス、特に、殺人鬼の被害者が多かったロンドンでは「悪いことをすると天使様にお仕置きされるよ」などと子供の躾に利用され、童歌までできて浸透している。

 さらにたちの悪いことに、殺人鬼を神の使いとする新興宗教までできて、それなりの数の信者を獲得している。

 キリスト教が国教であるイギリスで、だ。


「僕の不幸体質も、極まって来たな」


 山田が彼女と殺人鬼が同一人物かもしれないと疑った最大の切っ掛けは、彼女の両親が殺害された一年前の事件。

 山田は彼女の両親と会うために、事件現場となったホテルに宿泊した。彼女の両親から、娘を救ってくれと依頼されたからだ。

 曖昧すぎるその依頼の詳細を聞く前に彼女の両親は殺されてしまったが、逆にそれが、山田に依頼内容を事件後に悟らせた。

 彼女の両親は、肉親だからこそ彼女が殺人鬼だと気づいていたのだろう。

 気付いた両親は彼女の罪が明るみに出ないようイギリスを離れ、遠く離れた母親の祖国である日本に来た。

 おそらく、自分のことをどこかで聞いたのもその理由の一つだろう。

 事件解決率ほぼ100%。警察からの信頼も厚い自分の噂をどこかから聞きつけた彼女の両親は、イギリスの警察でも尻尾すら掴めない娘の尻尾を掴み、事件を起こす前に娘を止めてくれるかもしれないと、一縷の望みをかけて自分に依頼した。

 いや、しようとした。

 しようとしたが、正式な依頼をする前に彼女に気取られ、殺害されてしまった。

 彼女と出会う切掛けとなったあの事件は、彼女にとっても不測の事態だった。だが、頭の良い彼女は逆にそれを利用し、自分の両親他二名を、動機から犯人だと断定されないよう、最初の被害者の愛人が目くらましのために殺したように見せかけて殺害した。と、山田は推理した。


「だから、彼女がここへ押しかけてからはできる限り彼女から目を離さずにいたのに、今回も自由な時間を与えてしまった」


 今だかつてないほど過剰なスキンシップに戸惑いはしたものの、山田は彼女から目を離さなかった。風呂から上がっても、彼女が脱衣所から出てくるのを一時間近く待った。待っても、彼女は出てこなかった。女性は髪を乾かしたり何なりで、風呂も風呂上りも時間がかかるものだと思い込んでいたが故に、とっくの昔に脱衣所から出ているとは考えなかった。

 それが、山田が彼女に与えた一度目の自由時間。山田は彼女を探す際に鉢合わせた番頭から、彼女が次男に、執拗に絡まれていたことを聞いた。

 

「そのあと部屋に戻り、開錠だけして部屋には入らず、ドアの隙間に板のような物を挟んでデッドボルトがかからないように細工して偽りの開錠時間を旅館のパソコンに記録させた彼女は、戻って長男を……」


 殺害し、密室トリックの仕掛けをしたと、山田は推理した。

 だが、すぐに否定した。


「いや、そうじゃない。そのトリックは使われていない。アレはただ、次男を貶めるために用意されたフェイクだ」


 長男の部屋からは、食べかけの昼食と7割ほどが減った一升瓶が見つかっていた。長男が泥酔状態だったことも、司法解剖でわかっていた。長男が品行方正を絵に描いたような男で、妻子最優先だったことも、事情聴取で証言を得ていた。

 

「だが仮に、本当に仮にだが……」

 

 酒に酔っている長男の部屋に、風呂上がりだとわかる彼女が訪ねてきたらどうなる? いくら品行方正な男でも、いくら妻子最優先の男でも、魔が差してしまうのではないだろうか。彼女のような美少女に「部屋に入れてくれ」と言われたら、邪な思いを抱いてしまうのではないかと山田は考えた。

 そして長男を殺害した彼女はQRコードを手に入れ、次男を犯人に仕立て上げる工作をした。

 

「部屋に入り込むのは簡単だ。彼女に絡んでいた次男なら、彼女が少し誘惑しただけで簡単に部屋に入れてしまうだろう。次男を眠らせた睡眠薬は、イギリスの友人からだと偽ったあの下着と一緒に、送られてきたはずだ。それを次男に飲ませて眠るのを待ち、長男を殺害した際に入手したQRコードを次男のスマートフォンに仕込み、犯行に使う予定だった様々な物に次男の指紋をつけた。僕が犯行の詳細を暴いた際に彼女のことを言わなかったのは、捕まること自体は息子に遺産を相続させることを考えていた次男にとって都合がよかったからだ」


 言っていて、山田は虚しい気分になった。

 次男が犯人である前提で考え、披露した推理が、蓋を開けてみればただの色仕掛け。

 若く、容姿も優れている彼女だからできた芸当ではあるが、相手が男なら大抵のことは色仕掛けでどうにでもなり、トリックも仕掛け放題。

 それが山田には、狡く思えた。


「二度目は、完全に僕の油断だ」


 山田は、彼女が湯疲れで寝てしまったことに安心した。

 彼女も疲れれば歳相応の少女のように眠るのだと、寝顔を見て安堵した山田は彼女を起さぬよう、静かに部屋を出た。

 未成年の少女と同じ部屋にいることに耐えられなかったからではないと頭の中で言い訳をしつつ、いくら彼女でもアレは演技ではないと判断した山田は部屋を出て、関係者と雑談をするフリをして人間関係を探り、警察から捜査状況を聞き、それらを元にして推理しながら、旅館内を散策した。

 それらを終えて山田が部屋に戻ったのは、午前0時を過ぎた頃だった。

 だが、山田は部屋に入るなり、すぐさま踵を返して外へと駆け出した。

 彼女がいない。寝ていたはずの彼女がいない。どこへ行った。自分が部屋を空けたのは三時間ほど。それだけの時間があれば、何かしらのトリックを仕掛けられる。早く彼女を見つけなければ、新たな犠牲者が出る。自分の落ち度だ。今までも散々、何度も騙されてきた彼女の演技に、今回も騙された。

 そんな後悔を頭に巡らせながら、山田は旅館を、旅館の周辺を走り回った。だが、一晩中探し続けても、見つけることはできなかった。

 山田は彼女を、あの爆発が起こるまで見つけることができなかった。

 

「彼女が頭から血を流して倒れているところを見た時は、嬉しくなったな」

 

 我ながら歪んでいるなと思いながらも、山田はその時の感情が適切だと疑わなかった。

 山田は彼女を疑いながらも、違ってくれと願っていた。

 彼女はトリックの巻き添えになった。だから、彼女は犯人じゃない。彼女は無関係だ。それが嬉しかった山田は、事件現場を調べもせずに彼女を抱きかかえて外へと出た。

 その時は気づいていなかったとは言え、出る道中に通った男湯のサウナ室で次女が塩素ガスで殺害されている真最中に横を素通りし、彼女の介抱を優先した。

 頭を打っているのに迂闊に動かしたことを抗議されたらどう言い訳しようかと考えながら、救急車が到着するまで彼女のそばに居続けた。


「駄目だな、僕は。三十をとっくに過ぎているのに、彼女の誘惑に負けてしまった」


 出会って1~2か月ほど過ぎた頃から、彼女は山田を誘惑し始めた。

 今回ほどあからさまではなかったが、その頃から明らかに、彼女は山田に好意を示し始めた。彼女の胸の内はどうあれ、少なくとも山田はそう感じていた。

 それが今回、山田の判断をいつも以上に誤らせた。

 いつもより積極的で、捨て身とさえ思えるアプローチと、はっきりと口に出した告白。それが、山田に推理よりも彼女を優先させた。

 その結果が、三人目の被害者を産んだ。

 かつての、彼女と出会う前の山田なら、救急車の車内で目を覚ました彼女にした言い訳の通りにしていた。応急処置だけし、捜査を優先した。

 爆殺などと言う、派手なだけで確実性が低い殺害方法を取った理由を推理し、次女を救うことができていた。そうすれば次男ではなく、彼女が真犯人だと解き明かせたかもしれないと、山田は自分の行いを後悔した。


「僕は、彼女に気に入られてしまったのだろうか……」


 それとも、ただのスケープゴートとして利用されているだけか? と、口に出そうとして思い留まった山田は、目の前にある壁の向こうにある自室のさらに向こうにある部屋にいる彼女を、静かに睨んだ。

 睨みつつ、山田は心の中で独り言ちる。

 気に入られたのでも、スケープゴートにするつもりでも、どちらでも良い。

 彼女が犯した犯罪は、自分が必ず解き明かす。

 何度敗けようと、最後には必ず勝つ。

 それが自分に課せられた運命。

 もし、自分のような死神がこの世に生を受けた意味があるのなら、それは彼女を止めるため。

 今まで経験した事件は、彼女と戦うための力を培わせるため。その全てを駆使して、今世紀最凶最悪の殺人鬼を倒すことこそが、自分の宿命。それが、山田の大義名分だった。

 大義名分を掲げなければ、山田はあの日に終わっていた。


「ごめん。ごめんよ。僕はまた勝てなかった。今回も、君の仇を討てなかった」


 およそ七年前、山田は当時交際していた女性と一緒に、ロンドンを旅行した。

 自分は疫病神だから。自分と一緒に飛行機に乗ったらハイジャックにあってしまう。自分と一緒に旅行したら観光どころではなくなってしまうと、山田は恋人を説得した。だが、押し切られて、一緒にロンドン行きの飛行機に乗った。

 ハイジャック犯が乗っていないかとビクビクしながら飛行機での時間を乗り越えて着いたロンドンを観光している最中も、気が気ではなかった。

 旅館泊したホテルで殺人事件が起きたらどうしよう。立ち寄った店で強盗でも起きたらどうしよう。恋人が見つけ、世話を焼いた迷子が、別れた後に誘拐でもされたらどうしようと、山田は心配し続けた。


「今思うと、あの時の迷子の女の子は、彼女に似ているな」


 妙に懐かれた覚えがある。両親を見つけて引き渡した時に、一緒にいたいと駄々をこねられた覚えもある。自分のような死神に好意的な人は恋人くらいのものだと思っていた山田は、その子の行動に戸惑うことしかできなかった。

 そのことを、山田は今まで忘れていた。

 ロンドン市内を観光中に恋人が何者かに殺害され、その犯人を見つけるのに躍起になったものの見つけられなかった苦い経験が、その記憶を忘れさせていた。


「ギルティー……か。彼女は、君に何をしたんだい?」


 恋人が殺害された現場の壁には、その文字が刻まれていた。

 当時は関連付けられていなかったが、それは霧の天使が初めて現場に残したサインだった。山田の恋人が殺害された事件は、霧の天使が初めて自身の犯行だと主張した事件だった。

 散々、凶悪な事件に巻き込まれ、最初の頃こそしかたなく、なし崩し的に事件を解決していた山田だが、成人し、親しい刑事と恋人に勧められるがままに開業した探偵事務所を続けている内に、事件に巻き込まれたくないと思いつつも、山田は天狗になっていた。

 自分に解けないトリックはない。自分に解決できない事件はないと、山田は思っていた。

 自分の支えになってくれていた恋人が殺された事件を解決できなかったあの日まで、山田はそう思っていた。

 恋人の死と初めての敗北は、山田の鼻っ柱だけにとどまらず心も折った。

 何もする気になれなかった。自ら命を断とうとすら考えた。

 そこまで自暴自棄になっていた山田を立ち直らせたのは、皮肉にも霧の天使だった。

 恋人が殺害された事件以降、不可解な事件現場に残されるようになったギルティーの文字。そのことを知り合いの刑事から聞かされた山田は、歓喜した。

 恋人を殺した犯人は、まだ捕まっていない。今も、犯行を繰り返している。ならば、仇が討てる。捕まえられる。復讐ができる。

 その希望が、山田を立ち直らせた。

 立ち直った山田は出来得る限り、霧の天使に関する情報を集めた。彼女と出会い、彼女が霧の天使なのではと疑い始めてからは、彼女の情報を。

 だが、大した情報は得られなかった。

 生年月日と年齢。大学卒業時の身長、体重、スリーサイズ。大学での成績。取得している資格。幼年期の一時期に心療内科に通っていた以外は、目立った病歴は無し。 

 国を跨いでいるとは言え、結構な額を払ったのに現地の探偵はこの程度のことしか調べられないのかと、山田は落胆した。


「せめて、どうして心療内科に通っていたのかくらいは、調べてほしかったな」


 カルテは無理でも、彼女と交友のある人物からそれに関する情報は得られなかったのだろうか。幼年期の彼女はどんな性格だったとか。どんなことが好きだったとか。将来は何になりたがっていたかとか。どんなことに悩んでいたかとか。

 メールで送られてきた調査内容を見た山田は、頭の中でそう繰り返した。

 それは、今でも変わっていない。

 悪質なストーカーだと自虐しながら、山田は彼女のことを調べ続けている。

 濃い味付けよりも、素材の味を生かすような淡白な味付けを好み、お香やアロマのような匂いよりも、刺激臭スレスレの薬品のような匂いを好む。暖色系より寒色系の色が好きで、特に藤色を好む。高校の制服が好きらしく、どこかの高校の指定制服を改造した物を私服として愛用している。基本的にスカートばかりだが、機嫌が悪い時ははかず、ボーイッシュな服装をする。かなりの毒舌家で、発する言葉の8割は嫌味か悪態。プライドが高く、隙あらば蓄えた知識を披露したがる癖がある。運動は苦手。何もないところで転ぶほど酷くはないが、脚は遅く、腕力も体力もない。運動能力は、贔屓目に見て小学校高学年レベル。母親の教育と躾の賜物か家事が得意で、作る料理も日本食が主。特に、米の炊き方とみそ汁には一家言あるらしく、妥協をしない。それこそ、彼女が炊いた米と作ったみそ汁以外のそれらを、山田が食べられなくなってしまうほどに。


「癖は強いが、知れば知るほど、彼女が霧の天使だとは思えなくなってくる」


 いや、思いたくなくなってくる。と、山田は頭の中で否定した。

 自分は彼女に惹かれている。恋人の仇である霧の天使だと疑っている彼女に、好意を抱いている。

 実際、今回の件で彼女に告白された時、山田の理性は飛びかけた。本能のままに、彼女を布団に押し倒してしまいたかった。

 もし、彼女が眠そうにしていなかったら、山田の理性は本能に圧し潰されていただろう。

 

「だから、僕は彼女を置いて、部屋を出たのかな」


 彼女が眠って安心したのは、これで逃げられると思ったからだ。彼女の寝顔を見て安堵したのは、これ以上の誘惑はないと思ったからだ。彼女に惑わされず、彼女を疑い続けられると思ったからだ。

 その結果が、次女と三女の死。自分はまんまと、彼女の術中にはまってしまった。

 その後悔が、今でも山田を苦しめている。

 その苦しみは山田を狂わせ、彼女を病院に幽閉できていることを良い事に、彼女の私物を探らせ、貸している部屋も漁らせた。

 その屈辱は、彼女の素性を調べはしても、泥棒じみた真似だけはしなかった山田に、それをさせた。彼女が霧の天使である決定的な証拠を、見つからないだろうと思いながらも探してしまった。


「もしバレたら、嫌味だけではすまないだろうな。殺されるか?」


 苦笑混じりに言いながらも、「それも有か」と山田は思ってしまった。

 そこにいるだけで、関わった人に不幸を招く疫病神。関わっただけで、親しくなった人に、漏れなく不利益をもたらす貧乏神。霧の天使に断罪されるべき、不条理な死を与える死神。

 それを再認識した山田の脳裏に、在りし日の恋人の姿が思い出された。

 不幸続きで、自暴自棄になっていた幼い山田の前に突然現れた光。自分とのせいで何度も凄惨な殺人事件に巻き込まれながらも、そばに居続けて支えてくれた相棒。誰かから愛されるどころか、憎まれてもおかしくない自分を愛してくれた初めての恋人。

 山田にとって唯一の拠り所だったその恋人を、霧の天使は永遠に奪い去った。

 それを改めて思い出した山田は「はは、はははは……」と、初めは静かに嗤い、吐きつくした空気を補給するように大きく息を吸うと、「ハハハハハハハハハハっ!」と、激しく笑い始めた。

 腹の底から笑った。

 彼女に翻弄され続けている滑稽な自分が可笑しくて、生まれて初めて思いきり嗤った。

 それは恋人を失った日に抱いた絶望と悲しみを呼び起こし、勢いが弱くなっていた怒りを再び燃え上がらせた。

 霧の天使に復讐し、恋人の仇を討つ。と、山田に改めて決意させた。

 そして山田は、「いつか、僕が必ず……」と、呟きながら、人差し指を立てた右手をゆっくりと頭上に掲げた。

 そして……。


「犯人は、あなたです」


 と、言いながら勢いよく人差し指を彼女に向けて振り下ろして、勝利宣言をする決意を示した。

 奇しくも、彼女が同じ動作、セリフを言うのと、同じタイミングで。

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Duality 犯人は、あなたです 哀餓え男 @iammrcrazy

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