第13話
私はスマートフォンのアラームを、午前6時にセットしています。
事務所の営業は午前10時からなので、本来ならそこまで早く起きる必要はないのですが、私はただ同然の家賃で事務所が入っているビルのフロアにある一室に住まわせてもらっています。
普通の人ならラッキーと思ってギリギリまで惰眠を貪るのでしょうが、私は「哀れまれる人になっては駄目。慈しめる人になりなさい」と幼い私に語って聞かせた母の言葉の影響か、それとも、「金銭にしろ何にしろ、貸し借りはすぐに清算すべし」と語って聞かせた父の影響かわかりませんが、過剰な温情には対価を支払わなければ気が済まないたちです。
だから私は、安すぎる家賃の対価として家政婦の真似事をしています。
彼が食べる朝昼晩の食事を作り、彼が脱ぎ捨てた衣服を洗濯して干し終えてから、私は自分の身支度を始めます。
それが終わると、今度は事務所の掃除です。
毎日掃除していますが、たまにしか訪れないお客様に不快な思いをさせぬよう念入りに掃除し、彼がおっとり刀で来るタイミングを計ってコーヒーミルで豆を挽き、自腹を切って買ったサイフォンでコーヒーを淹れてお出しします。
自画自賛になりますが、コーヒー好きだった父の教育のおかげで、そこらの喫茶店で出されるコーヒーよりも美味しく淹れることができます。
彼がブラックのまま飲むのを見て面食らったのは、今では良い思い出……でもないですね。ビックリしましたし、理解に苦しみましたから。日本人はコーヒーになにも入れず飲むとは噂で聞いていましたが、まさか本当だとは思っていませんでした。
「いやいや、何を長々と脳内回想をしているのですか、私は」
寝起きだからでしょうか。
それとも、OFFにし忘れていたアラームにいつも通り起こされた私の頭は、瞼を開けるなり飛び込んで来たいつもと違う風景を見たせいで、誤作動を起こしたのでしょうか。
「そういえば、私はいつ布団に……。あれ? 彼はどこに……」
眠る前の記憶が曖昧です。
普通に考えれば、寝落ちした私を彼が布団に寝かせてくれたのでしょうが……。
「い、一応。本当に一応、ないとは思いますが念のために……」
私は彼の前で、無防備な姿を晒しました。
それを思い出すなり足の先から頭の天辺まで駆け抜けた悪寒に従って、色々と確認しました。
浴衣に乱れは多少ありますが、これは寝返りによるものだと思われます。客室内にあるトイレに駆け込んでできる範囲で確認しましたが、いかがわしいことをされた形跡はありません。
「安心はしましたが、これはこれで腹が立ちますね」
彼は、私に手を出しませんでした。
自他共に認める、日本人の目から見ても美少女で現役女子高生でもある私が無防備に……今思うと、本当に無防備ですね。下着を着けていないので、帯をほどくだけで即全裸。しかも、よほど激しいことをされない限り起きないくらい熟睡してしまったようですから。
そんな私に、彼は一切手を出しませんでした。
浴衣をめくって中を見るくらいはしたかもしれませんが、それ以上は何もされてないと思います。
その事実が、私の自尊心をこれでもかと傷つけました。
「まさか、ここまでヘタレだったとは……ん? テーブルに置いてあるあれは……」
昨夜、彼が警察から渡された捜査資料。トイレから出ると、それが無造作にテーブルの上に置かれているのを発見しました。
これは、見ても良いのでしょうか。良いですよね?
でなければ、これを放置して部屋を空けるわけがありません。
「改竄された形跡は……ないですね」
とは言ったものの、修正テープなどであからさまで間抜けな改竄でもされていない限り、原本を見ていないので改竄されていても気づけません。
「アリバイがないのは、部屋で寝ていたと証言した次男だけですか。薬剤服用歴は……さすがにまだ調べられていないようですね。科学鑑定も、まだ結果は出ていませんか」
犯行予想時刻に若女将と番頭は南棟一階にある厨房で、市内から通勤している板前と仲居を交えて翌日の食事メニューの相談をしていたそうです。
その際、食材を発注している業者が訪れて直接発注したそうで、その確認もとれて証言に食い違いも認められなかったので、この四人のアリバイは確定しました。
「業者と言う第三者が、犯行予想時刻に都合よく訪れるなんて出来過ぎな気もしますが……」
今は後回し。
東棟二階の一号室と三号室に泊まっている次女と三女はその時間、私たちと入れ替わるようなタイミングで入浴していたそうです。
身内による証言はアリバイとして認められませんので、この二人もアリバイはありません。と、言いたいところですが、先に言ったようにアリバイがないのは次男だけ。
次女と三女は、スマートフォンを使って入浴風景を市内の友人(と、二人は証言したそうですが、実際は市内にあるホストクラブのホスト)にライブ中継(ホストはしっかりと録画)していました。もちろん、確認もとれたそうです。
「入浴風景をライブ中継だなんて、日本人の考えることは理解できません。ましてや、自分を食い物にしている赤の他人の男性にだなんて……」
軽蔑はしますが、この軽率で軽薄な行動が二人のアリバイを証明したのも事実。
アリバイだけで見れば、次男が犯人である可能性が濃厚……と、警察は思っているのでしょうが、事情聴取をされていない人物が二人います。
それは私と彼。第三者かつ、彼が警察の信頼を我が物としているため、私と彼は疑われてすらいません。
アリバイがハッキリと証明できないにも関わらず、野放しにされているのです。
「まあ、彼はともかく、私はアリバイが完全にないわけではありませんけど」
捜査資料にはこうあります。
この旅館で採用されているオートロックは、宿泊客がQRコードをドアノブのスキャナーに読み込ませて開錠した時刻が受付にあるパソコンに送信され、記録される仕組みになっているそうです。
私が部屋に戻ったのは次男から逃げてすぐなので、時間にして1~2分後。そんな短時間で長男の部屋に忍び込んで眠らせ、殺害して部屋へ戻るなど不可能です。
対して、彼が部屋に戻って来たのはそれから約30分後。犯行は可能です。
可能ですが……。
「どうやって、部屋に入ったのでしょう」
鍵となるQRコードは、一度発行されると同じQRコードは二度と発行されないそうです。
つまり、チェックイン時に受け取るレシートに印字されたQRコードが、チェックアウトするまでの唯一の鍵。例外があるとすれば、翌朝9時に発行されるマスターキー的な役割を果たすQRコードだけです。
「ん? では若女将は、どうやって長男の部屋に入ったのでしょう」
悲鳴を聞いた私と彼が現場に駆け付けた時、部屋のドアは開かれていました。
食事を摂らず、返事もないからと言って、換えたばかりの鍵を破壊するとは思えませんから、この資料に記されている以外の開錠方法があるはずです。
「ああ、そういう事ですか」
その答えは事情聴取の項の、若女将の証言の中にありました。若女将は長男、次女、三女のQRコードを、スマートフォンで撮影していたのです。
その理由は、要約すれば次男がいるから。
遺産が誰にどの程度相続されるか知らない四人は、何をしでかすかわからない次男を警戒して結託し、自分たちに何があってもすぐに対応してもらえるよう、長女である若女将に自室の鍵を預けていたのです。
「なるほど、彼が「簡単だ」と言ったのは、これに気付いていたからなのですね」
スマートフォンで撮影した画像で鍵が開くのなら、撮影さえできれば誰にでも侵入は可能。実際、私と彼もQRコードをスマートフォンで撮影して鍵にしています。
「簡単すぎると逆に解けない。これは、肝に銘じておくべきですね」
部屋の前に置いてあった膳の件でもそうですが、どうも私は、普通の人からすれば簡単な事を無駄に難しく考える悪癖があるようです。
これは早急に改善する必要がありますね。
どうやら今回、彼は私の盲点を突くトリックを多用しているようですから。
「司法解剖の結果も……載っていないようですね」
ですが、一字一句逃さず読んで記憶しました。
記憶し終わった私は、どこにいるかもわからない彼を探すのを後回しにして、温泉へ向かいました。
彼を野放しにしていたら新たな被害者が出るとわかってはいるのですが、私は寝起きです。
熱いお風呂に浸かって寝汗を流し、まだ本調子ではない頭を叩き起さなければ、彼を見つけたところで何もできません。
言わば、戦闘準備です。
けっして、朝一の露天風呂を一人でゆっくりと朝食前に堪能したいと思ったからではありません。
「そう言えば、ここはサウナもあったのでしたね」
着替えとして持って来たセーラータイプの改造制服と下着を脱衣籠に入れてから浴衣を脱ぎ、女湯の中を経由して露天風呂へ向かう途中で、改装中のため使用禁止となっているサウナに目がとまりました。
「入れるのは、4~5人くらいでしょうか」
日本には、サ道と呼ばれる入浴法……と、言って良いのかはわかりませんが、とにかく作法があるようです。
ちなみに、イギリスにもサウナはありますが、基本的に浴場と併設されていません。お風呂とサウナは別の施設と言っても過言ではないでしょう。
そのサウナで、私は「ととのって」みたいのです。
本当に体に良いのかと疑問が頭の隅っこをかすめますが、私はサ道の作法にのっとって「ととのって」みたいのです。
「まあ、それはそれとして、今は温泉を堪能しましょう」
現在の時刻は午前7時前。
日の出を逃したのは痛いですが、朝の清々しい空気の中で入る温泉は最高のはず。入浴した後は、寝汗と一緒に昨日の痴態も失態も恐怖も不安も、全て洗い流されるはずです。
「それにしても、所長はどこへ行ったのでしょう」
肩までお湯に浸かった私は、誰にともなくそう呟きました。
私は彼を冴えない童貞中年だと思ってそう接していますが、彼の本性を知らない赤の他人から見るとそうではありません。
切れ長ですが、柔らかさも併せ持つ瞳は適度な緊張感と安心感を見た者に与え、ほどよくしわが刻まれた面長の顔はダンディズムを感じさせ、声量が低くてもしっかりと耳に残る低い声は胸の鼓動を否応なく高めるらしいです。
体型も理想的だそうです。
中肉中背で手足は長くもなく短くもなく、何着もあるそれなりの値段がするグレーのスーツを着こなしたその姿は、一流のビジネスマンと遜色がないのだとか。
こう聞くと個性的ですが、実際は無個性。
彼は、本来なら特徴のない自身の風貌に適度な特徴を加えることで周囲に溶け込み、何度も会ったことがある人にさえ外見の特徴を記憶させません。
実際、私も彼の顔を思い出せません。
毎日見ているのに、私の頭に浮かぶ彼はのっぺらぼう。
記憶力が普通の人よりも優れている私が、目の前にいないだけで彼の顔を思い出せなくなるのです。
「それこそが、きっと……」
多種多様なトリックを思いつく頭脳も、犯人に仕立て上げると決めた人に自分は犯人だと思い込ませる話術も、彼にとっては後付けでしかありませません。
所謂、オプションです。
最も恐ろしいのは、目の前にいなければ思い出せず、目にしさえすれば違和感なく彼だとわかるその異様な姿。付き合いの浅い者には彼を彼だと認識させず、幽霊のようにそばに突然あらわれるその透明性こそが、最も凶悪な彼の凶器だと私は思っています。
「彼は今頃、次の事件の下準備をしているのでしょうか。それとも、すでに実行済みなのでしょうか」
彼を見失った時点で、私の負けは濃厚になります。
過去12件の事件でもそうでした。
私は彼のあとをついて周り、彼の一挙手一投足を見逃さないよう注視しました。
それでも、性別が違うせいでトイレや入浴の際はどうしても監視の目が届かず、逃げられたこともありました。日本文化に疎い私が、行った先で目にする日本文化に目を輝かせている間に逃げれたこともありました。
他にも様々な要因で彼に自由な時間を与えてしまい、その結果、彼に犯行を許してしまいました。
「だから今回こそはと、私なりに気合を入れて捨て身に近い事もしたのですが……」
見事に逃げられました。しかも、二回。
最初のたった3~40分で一人殺されたのに、二回目はいつから彼がいないのかわからないと言う体たらく。過去の経験を、まったく活かせていません。
そこは反省すべきですし、犠牲者を出してしまったことを後悔しています。していますが、反省と後悔をしているばかりでは彼の犯行を解き明かせません。
なので、気持ちを切り替えます。
犠牲になる人には申し訳ないですが、ここからはいつも通り、彼が起こした犯罪を解き明かすことだけに注力します。
要は、原因療法から対処療法へ切り替えるのです。
「そうと決まれば、まずは現場検証ですね」
私は彼が犯した犯行のほころびを探すために事件現場へと向かうために湯船を出て、女湯に続く戸を開けようとしました。
ですが、戸に手をかけるよりも早く、鼓膜を震わせるどころか引き裂かんばかりの爆発音とともに、戸の方が私へと飛び掛かって来ました。
不可思議なその現象を頭が理解するよりも先に私は戸に押し倒されて、意識を失ってしまいました。
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