第9話

「はぁ……。満足です。今この瞬間に死んでも良いと思えるほど、最高の経験でした」


 お腹も心も満たされた状態で客室に戻るなり、用意された布団の上に身を投げ出してしまいました。

 はしたないと思いつつも、ほどよい満腹感に後押しされて鎌首をかかげ始めた眠気と、見た目以上にフカフカで良い匂いのする布団の感触の誘惑に抗うことができません。

 テーブルで手帳に何かを書き込んでいる彼が気にならないほど、最高の気分です。


「すき焼きを食べただけで、大袈裟すぎないかい?」


 せっかくの良い気分が、無粋でデリカシーの欠片もない彼の一言で台無しになりました。

 たった一言でここまで私を不快にできるなんて、さすがは証拠を残さず私以外の誰にも疑われずに非道を謳歌する大量殺人鬼。と、褒めるべきなのでしょうか。

 いいえ、褒めません。それは敗北を認めるようなもの。ただでさえ彼に負け続けているのに、こんな些細な事ですら負けるなんて我慢なりません。

 野蛮で理性の欠片もないので口にけっして出しませんが、やられたらやり返すが私のモットーなのですから。


「それは所長が日本人だから、私の気持ちが理解できないんですよ。私は見た目通り、母の血を濃く受け継いでいます。味覚も日本人寄りで、旨味だってちゃんと感じますし、理解もしているのです。その私が、あんなにも素晴らしく美味しい料理を食べたのですから、けっして大袈裟ではありません。この余韻だけで、ご飯三杯は食べられます」

「じゃあ、貰ってこようか?」

「所長は本当に馬鹿ですね。さっきのは例えです。すき焼きですら、一人前を食べきれなかった私がご飯を三杯も食べられると思いますか? 思えるのなら、所長の脳ミソには致命的な欠陥があります。開頭手術を激しくお勧めします」

「……前々から思っていたけど、君は丁寧な言葉づかいで人を……僕を馬鹿にするね。正に慇懃無礼だ」

 

 ほう? ついに反撃ですか。

 私が事務所に転がり込んでからの一年以上、私の口撃に一切の反撃をしなかった彼が、とうとう反撃してきました。

 それは彼にとって私が、少しくらい言い返しても問題ない。仲が悪くなることはないと思える相手になったと認識した証拠。確実に、私と彼の心の距離は縮まっています。

 ならば、反撃も甘んじて受け止めましょう。

 もっとも、されたらさらにし返しますが。


「おっしゃる通り、たしかに私は所長を馬鹿にしています。でもそれは、所長が悪いからです。その理由は、理解していますか?」

「僕に至らない点があることはわかっている。僕は特定の女性と親しくなった経験が少ない。そんな僕に、君のように年の離れた子と親しくなった経験なんてあるわけがない。それなのに、君はグイグイ来る。女性経験が乏しい僕にとって君の行動は、とんでもない誘惑なんだ。理性を保つのに、体力も精神力もはてしなく消耗している。だけど、僕はラブコメの主人公ほど鈍感じゃないつもりだ。君の気持ちは嬉しく思っているし、できる限り応えようとも思っている」


 はて? 彼は何を言っているのでしょう。

 ここに来て、私と彼とで致命的な認識の違いが浮き彫りになりました。

 私は彼が犯罪を起こせないよう、可能な限り監視下に置こうとしてきました。それこそ、貞操の危機が付きまとう着替え中や入浴中、就寝中も関係なく、彼を見張り続けようとしています。

 両親の仇である彼を刑務所に叩き込むために、私は私にできること全てやるつもりでそうしてきました。

 その行動が彼に、変な誤解を与えてしまったようです。ストレートに言うなら、私が好意を抱いていると思わせてしまった。裸を見せることすら辞さない私の行動が、私にとっては屈辱と等しい感情を抱いていると彼に思わせてしまった。誘惑するつもりなど微塵もなかったのに、私は彼を誘惑していたのです。

 それはそれで好都合なのですが、不都合なこともあります。

 私は容姿が整っている自負はありますが、あくまでもそう思っているだけ。男性の目に自分が実際はどう映っているのかわかりません。

 故に、フラれてしまう可能性がある。

 彼の好みと私の容姿がマッチしていなければ、告白してもいないのに彼のような冴えない中年童貞 (仮)にフラれると言う、侮辱と辱めが混ぜ合わされたような絶望を味あわされるでしょう。

 ですが、好都合なのも確か。ならば、ここは攻めるべきですね。

 彼が私をフリにくいよう誘導し、むしろ、交際しようと言わせてやり……ああ、だったらあの時、冗談で済まさずに彼に責任をとらせておけば良かったですね。失敗しました。

 では、今回はその失敗を取り戻すためにも、徹底的にやりましょう。


「で、どういう風に応えてくれるのですか? キスでもしてくれるのですか? それとも、抱いてくれますか?」


 言っていて虫唾が走ります。

 彼とキス? そんなことをするくらいなら、唇を削ぎ取ってしまいます。

 彼とセックス? 彼に抱かれるくらいなら、見ただけで吐き気を催すほど肌を傷だらけにします。彼にこの体を好き放題されるくらいなら、二度と真っ当な人生を送れない体になってもかまわない。それくらい嫌なのです。

 でも、必要なら我慢します。

 キスだってします。セックスだってします。好きだと言います。愛していると言います。それで復讐が果たせるのなら、感情くらいいくらでも殺します。

 どんなことでも、する覚悟です。


「踏ん切りがつかないのなら、つくようにしてあげます」


 私は浴衣を脱ぎ捨てて、彼の前に立ちました。一糸まとわぬ姿を彼に晒しました。

 不思議なことに、恥ずかしくありません。

 頭は冷静で、彼が私をどうするか、どう動くか、何を言うか予想し続けています。こんなことになるなら、あの下着を持って来ておけば良かったと反省すらしています。


「やめなさい。君には、まだ早い」

「早くありません。私は体付きこそ貧相ですが、生理は問題なくきています。第二次性徴もほぼ終わっていますので、出産も問題ありません。コンプライアンスを一切気にせず言うなら、私は年齢的にも肉体的にも、最も健康な子供を作れるベストな時期なのです。だから、抱いてください。私の気持ちに、応えてくれるのでしょう?」

「応えるとは言ったが、さすがに性急すぎるだろう?」

「いいえ、遅いです。私がこの一年間、どれだけアピールしてきたか覚えていますか? 羞恥心に身も心も焦がしながら誘惑し続けたのに、所長は梨の礫だったじゃないですか。今だってそうです。所長は私の方を見てくれません。背中まで向けています。そんな体たらくで、よくもまあ気持ちに応えるだなんて言えましたね」

「そ、それは……」


 アピールしたつもりは一切ないのですが、彼はそうだと勘違いしていますので、この線でさらに攻めましょう。

 仮に、彼がその気になって襲われたとしても、それはそれで良し。

 首を掻き切りたくなるほどの傷を心に負うでしょうが、恋人となれば今よりももっと警戒が解け、ピロートークの際に過去の犯罪をポロっと口にしたりもするかもしれません。

 ならば、抱かれましょう。

 私は今宵、彼に抱かれて彼のモノになります。 


「所長。私はあなたが好きです。愛しています。だからお願いです。こっちを向いてください」


 そのためなら、心に反することだって言います。

 予定外かつ想定外ではありますが、彼の勘違いを利用させてもらいます。彼も、私の演技に心を動かされたのか、顔をこちらへ向けようとしてくれました。

 ですが、彼が完全に私の姿を視界に収める前に、女性の悲鳴が響き渡りました。

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