第7話

 Angels are coming, bad kids run away(天使が来るよ 悪い子は逃げろ)

 When the fog comes out, I'm walking right there looking for the evil child.(霧が出たらもう、すぐそこで 悪い子を探して歩いてる)

 Angels are coming, bad kids hide.(天使が来るよ 悪い子は隠れろ)

 Hide and kill the angel before the wings of the mist spread.(霧の翼が広がる前に、隠れて天使をやりすごせ)


 The angel has come, the bad kid is over.(天使が来たよ 悪い子は終わり)

 Wrapped in the wings of fog, all the bad kids are going to hell(霧の翼に包まれて 悪い子みんな 地獄行き)

 The angel came, the bad kid died.(天使が来たよ 悪い子は死んだ)

 The wings of the mist spread and the bad kid disappeared from the city.(霧の翼が広がって 町から悪い子消えちゃった)


 There are angels, you can't do bad things(天使がいるよ 悪さはできない)

 In foggy London, there are no more children doing bad things.(霧が留まるロンドンで 悪さをする子はもういない)

 There's an angel, don't do anything wrong.(天使がいるよ 悪さはするな)

 Peaceful London created by fog, a utopia full of good children(霧が創った平和なロンドン 良い子ばかりの理想郷)


「イギリスの童謡かい?」

「はい。最も新しい、マザー・グースです」


 男から逃げて部屋に戻った私は部屋の隅で膝を抱えたまま、彼から声をかけられるまでこの歌を口ずさんでいました。

 いつの頃からか広まり、誰が創ったのかもわからないこの歌を。

 ほんの一年ほど前までロンドンを恐怖のどん底に陥れていた殺人鬼が元になったと思われる、この歌を。


「マザー・グース? 新しいのなら、ナーサリー・ライムでは?」

「本来ならそう呼ぶのが正しいのでしょうが、英国ではマザー・グースに分類されています」

「それは、どうしてだい?」

「作者が不明ですし、伝承として後世にまで語り継がれることが今の時点で確定しているからです。それほどまでに彼、もしくは彼女がやったことは、人々の心に刻まれてしまいました」


 その名はfog angel。日本語に訳すなら、霧の天使でしょうか。

 その殺人鬼は七年前に突如として現れ、昼夜問わず人を殺しました。その影響で、ロンドン市内を一人で出歩く人はいなくなり、夜中は、正にゴーストタウンと呼べるほど人影がなくなりました。

 私がオックスフォード大学に入学したのも、半分はそれが理由です。

 電車で一時間ほどの距離ではありますが、霧の天使による犯行と目される事件が集中するロンドン市内の大学よりも、隣の市であるオックスフォード大学に通う方が幾分安全だと、私も両親も判断したのです。


「霧の天使……か。まだ、捕まっていないはずだね?」

「捕まったなら、世界レベルのニュースになるはずです。なんせ、知られているどの犯罪者よりも、霧の天使は人を殺しているのですから」


 その数、およそ600人。

 ですがこれは、霧の天使の犯行だと確定している事件の被害者だけの人数で、確定していない事件、模倣犯による犯行だと疑われている事件の被害者はふくまれていません。

 もしそれらを含めたら、被害者の数は1000人を軽く超えます。


「神出鬼没で手口は多種多様。凶器や数々の証拠はその場に残し、浮かび上がった容疑者は数知れず。秩序型にも無秩序型にも分類できず、両方の特徴を持つシリアルキラー。事件現場にギルティーとサインを残す以外の類似性は認められない今世紀最凶最悪の殺人鬼。その行動からいつの頃からか天使と呼ばれ始め、イギリスの警察どころかインターポールまで捜査に乗り出しても尻尾すら掴ませない透明性と、自然現象のような突発性から霧になぞらえられて霧の天使と呼ばれるようになった……か。存在するかも怪しく思えてしまうほど、謎に包まれた人物だね」

「あの、前々からいつかは言おうと思っていたのですが、時折イングリッシュを混ぜるのは構わないのですが、もう少し正確に発音してくれませんか? 聞き取り辛いです」

「日本人に、イントネーションを期待しないでくれ」

「あ、今のもそうです。Intonationと、正確に発音してください。はい、Once Again」

「いや、だから……」

「冗談ですよ。だから、真に受けないでください」


 霧の天使の話は、あまりしたくありません。

 と、言うのも、霧の天使は童謡になるほど英国内に浸透し、私が子供の頃ですら躾に利用されていました。

 それ故に、霧の天使は英国の子供にとって恐怖の対象。しかも、実在する恐怖です。

 私は両親の手を煩わせるほど悪い子供ではなかったので数えるほどしか言われませんでしたが、それでも数えられる程度の回数は「悪さをすると、霧の天使にさらわれるよ」とか、「悪い事をすると霧の天使に食べられる」などと言われたことがあるのです。

 私を含め、英国の子供たちに軽めのトラウマを植え付けた極悪人です。


「もしかして、怒ってるのかい?」

「怒る? 私が? どうしてですか?」

「いや、ほら、逃げただろう? 僕」

「ええ、逃げましたね。そのせいで私は、私は……」

「何か、あったのかい?」


 何かあったか? ええ、ありましたとも。

 驚いたように目を見開いて立ちすくむ彼の様子を見るに、落ち込んだような私の態度から変な誤解をし、女である私が肉体的にも精神的にも落ち込みそうなことを想像しているのではないでしょうか。

 それはそれで好都合。

 私から逃げ、散々探し回らせてくれたお返しをしてやります。

 

「あの男に……! あの男に、部屋に連れ、連れ込まれ……」


 どうですか?

 体を小刻みに震わせて、怒りと悲しみがない交ぜになったような感情を飲み込み、それでも抑えきれない恐怖の感情が言葉になって口から漏れ出すかのような私の演技は。

 この演技の肝は、嘘をついていないところです。

 あの男に部屋へ連れ込まれかけて怖かったですし、握られた腕の痛みは私をイラつかせ、貞操の危機すら覚悟した大サービスをしたにもかかわらず、見知らぬ地で一人ぼっちにされて悲しかった。

 セリフだって、肝心の部分は曖昧にしていますので、部屋に連れ込まれそうになっただけだと彼は想像できません。


「ごめん。僕のせいだ。僕のせいで、君に嫌な思いをさせてしまった」

「そうです。所長のせいで、私は大切なモノを失ったんです。なので、責任を取ってください」


 これも嘘ではありません。私は彼を探して旅館中を歩き回り、体力と時間を失いました。

 普通の人より多くのことを短時間で考えることができる私の時間は貴重。さらに、普段から運動らしい運動をしない私にとっては、彼を探すのに消費した体力は温存しておきたかったモノ。

 その両方を失ってしまったのですから、嘘ではないのです。

 

「責任……か。わかった。責任をとって、結婚するよ」

「そうです……は? 結婚? 誰と、誰がですか?」

「いや、だから。君と結婚して責任を……」

「いやいや、何を言っているのですか? 冗談にしたって笑えませんよ。セクハラです。所長と結婚したって、私にメリットがないじゃないですか。所長にはありますよ? 私は自分で言うのも何ですが、容姿は整っていますし若い。現役の女子高生と結婚するなんて、所長のような独り身の中年男性からすれば夢でしょう。オマケとばかりに、私には両親が残してくれたお金もありますしね。メリットしかありません。ですが、私にはデメリットしかありません。なので、お断りさせていただきます」

「でも、君は責任をとれと言ったじゃないか。それなのに、どうして怒っているんだい?」

「ええ、確かに言いました。私が怒っているのは、責任の取り方が結婚というふざけた取り方だからです。良いですか?所長は大方、私があの男に部屋に連れ込まれてレイプされ、心身ともに傷を負ったと邪推したから馬鹿な責任の取り方をしようと考えたのでしょうが、私は部屋に連れ込まれていません。連れ込まれそうになっただけで、レイプはされていません。処女のままです。なので、私の貴重な時間と体力を奪った責任は、別の形で取っていただきます」


 ひとまず、仕返しは完了。

 彼は自分がした妄想を恥じたのか顔を赤くし、彼からすれば小娘である私に手玉に取られたことが悔しいのか、両手を強く握り込んでいます。

 それを見て気分が良くなった私は彼に近づき、触れそうで触れない距離を保って赤くなったままの彼を見上げて……。


「冗談です。ちょっと、意地悪をしたくなっただけです」


 と、人間関係を円滑にするために、日本のアイドルを参考にして習得したSmileを顔いっぱいに張り付けて言ってあげました。


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