第5話

「しまった。油断しました」


 彼があがってしまったので仕方なく、名残惜しかったですが泣く泣く入浴を切り上げたのですが、脱衣所で髪を乾かしている間に逃げられました。

 逃げたふりをして脱衣所に潜んでやり過ごしているのかもと思い、男性用の脱衣所を確認しましたが見事に空。出るまで待っていてくれると思った私が迂闊なのですが、連れている女が脱衣所から出てくるのを待つ程度の甲斐性すらないとは思っていませんでした。


「約30分……」


 それが、浴場で彼と別れてからの時間。彼が私の目を気にせず、自由に動きまわれた時間。しかもそれは、現在進行形で増え続けています。


「急いで探さないと」


 犠牲者が出かねません。いえ、すでに誰か、殺されているかもしれません。

 なんせ彼なら、きっと30分もあれば一人殺して隠蔽工作も済ませられるはずですから。


「いない。いったい、所長はどこへ?」


 私たちが泊まる西棟にはいませんでした。1階を調べて2階にあがり、南棟2階を探してから東棟2階を見て周りましたが、やっぱりいません。

 東棟2階を探し終えた私は、北側の階段を降りて東棟1階を南棟へ向かいながら探索しました。

 そして南棟1階に着き、ここにいなかったら一度部屋に戻ろうと思いながらあたりを見回していたら、どう見てもチンピラにしか見えない中年男性と目が合いました。

 彼は容姿的に、ここの次男坊ですね。

 年齢は40を過ぎているはずですが、髪を派手な金髪に染めて、極彩色と言っても過言ではないほどド派手な柄の半袖のワイシャツ姿。首には金のネックレス。左手首には、一見して高いとわかりますがオッサン臭いデザインの腕時計。

 絶対にお知合いになりたくないタイプの男性ですが、相手からしたらそうではなかったようで、「お、かわいい子がいんじゃん」と言いながらズカズカと歩み寄って来て、私の右手首を乱暴に掴んで自分の方へと引き寄せました。


「ちょっ……。痛い」

 

 肉と言うより、骨がきしんだような痛みが右手首に広がりました。

 普通の男性ならここで手を放すなり力を緩めるなりするのでしょうが、この男には逆効果だったようです。下卑た笑みを浮べて「いい声で鳴くじゃねぇか。ちょっと付き合えよ」と言うなり、私を東棟の方へと連れて行こうとしました。おそらく、東棟にある自室に私を連れ込んで乱暴するつもりです。

 でも、そうはさせません。


「嫌です! 離してください! 人を呼びますよ!」


 もうこの時点でそれなりに大きい声を出しているので、フロントに誰かいれば駆けつけてくれるはず。この男も、親族であるこの旅館の人に咎められれば諦めるでしょう。

 そう思っていたのですが、男は番頭を務める若女将の旦那さんが顔を覗かせるなり「ヤベ……」と言って、すぐ近くのソファーに私を力づくで座らせ、自身も隣に腰を下ろしました。

 部屋に連れ込むのは諦めたようですが、逃がすつもりはないようですね。

 この男の悪行を知っていると思われる番頭さんと、騒ぎを聞きつけて来た若女将の目を気にしながら、やれスマホが最新機種だの、やれカメラの画質が凄いなどと、興味を一切惹かれない話を垂れ流しています。


「そろそろ、部屋に戻りたいのですが」


 と、何度言ったでしょうか。

 そろそろ一時間経とうかと言うのに、若女将と番頭さんの目が消える時を辛抱強く待っています。

 そんなに、私を部屋に連れ込みたいのでしょうか。調査の過程で、この男と親しい関係にある女性のことも調べましたが、私とは正反対のタイプの女性ばかりでした。

 それなのに、この男は必死に私を口説こうとし、部屋を連れ込む隙を伺っています。

 

「もう、戻って良いですか?」


 さらに回数を重ねても、男は逃がしてくれません。

 この男が私をどう思っていようが、私にとっては、この男の行動を注視している若女将と番頭さん同様、これから起こるかもしれない事件の関係者でしかありません。

 それ以上の興味はないので、親しくなるつもりはありません。ありませんが、逃げられないのなら……。


「あの、少しお聞きしたいことがあるのですが」


 関係者のことを根掘り葉掘り聞いてやろうと思い、そうしました。

 怪しまれるかもと心配しましたが、男は自分に興味が湧いたんだと誤解したのか、下卑た笑いを再び浮べて、それはもうペラペラと喋ってくれました。

 その結果わかったのは、今の時点でわかっている遺産の相続順位。

 意外な事に、最も多くの遺産を受け取れるのは旅館を切り盛りしている長女の若女将ではなく、他県でサラリーマンをしている長男でもなく、嫁に出た次女でも三女でもなく、末っ子で一番の問題児でもあるこの男。

 その理由を、この男は自分が最も親から可愛がられていたからだと自慢げに言っていましたが、私には理解できませんでした。

 この男は、ざっと調べただけで悪事がいくつも出てきました。最も古い悪事は高校生の頃。旅館のお金や親の貯金にまで手を付けて、この旅館は廃業の危機に晒されています。それ以外にも、大学に入学するまでは数えるのも馬鹿らしくなるほどの軽犯罪に手を染め、この旅館に迷惑ばかりかけていました。

 もし私が親なら、こんな子供に最も多く遺産を残そうなどとは考えません。

 いや、手のかかる子ほど可愛いのでしょうか。そうだとしたら、他の兄姉は報われませんね。

 長女は言わずもがな。長男も、勤め先の社員旅行や忘新年会等で旅館を利用して売上に貢献していました。次女と三女も、母親である女将が入退院を繰り返すようになったころから定期的に顔を出し、旅館の手伝いや女将の介護を率先してやっていました。

 次女と三女に関しては、死ぬ前に媚びを売っておけ、と、考えたのかもしれませんが、それでも次男よりはよほど女将や旅館に貢献しています。

 合理的に考えれば、間違ってもこの男より相続順位が低いわけがない。

 

「それはさぞ、恨まれていることでしょうね」


 得たい情報は得ました。

 なので嫌味を込めて、暗に「もう結構です」と言ったら、男の顔が少しだけ歪みました。しかも、悲しそうに。

 私の言葉がこの男にどんな影響を与えたのかはわかりませんが、痛みを感じるほど強く握られていた手が緩んだので、その隙を突いて私は逃げました。

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