第3話

 山田探偵事務所、と言うより、所長への依頼料は高額です。

 着手金……所謂、前払金が300万円で、さらに経費と成功報酬が別途かかります。

 ちなみに、各探偵事務所の依頼料金は一律でいくらと決められている訳ではなく、各事務所によって異なります。

 規模や調査手法、依頼システム、依頼の内容、調査期間、難易度などの算出方法が違うため仕方がない事なのですが、それを考慮しても前払金で300万円は高額すぎます。

 それを、ここに転がり込んで間もない頃に彼に聞いたら……。


「できるだけ、依頼を受けたくないからだよ」


 と、彼はため息交じりに答えました。

 それを聞いて最初は、彼のことを「見た目通りの怠け者」だからそんな答えを返したのだろうと思いました。

 でもそれは思い違いだと、図らずもその質問をした月に遭遇した事件でわからされ、それを機に知り合った刑事によって、高額に設定された前払金の本当の理由を教えられました。


「依頼から事件に発展した場合、経費と成功報酬を得られない場合が多いから……ですか。なんとも打算的で利己的、でも現実的な理由でしたね」


 だったら普通の依頼料を設定し、そこらの探偵と同じようなことをして稼げばいいのに。とも思いましたが、彼がやっていることを考えれば、この料金は安すぎるくらいなのかもしれないと思いなおしました。

 彼は殺人鬼。

 自分で事件を演出し、無実の人を犯人に仕立て上げ、警察まで抱き込んで、犯人として利用した人も最終的には自殺に追い込む前代未聞のシリアルキラー。

 高額な依頼料は、それでも依頼してくるような特殊な事情を持つ人を釣るための餌。

 今回の依頼人も例にもれず、300万円もの金額を前払いしてでも彼に依頼する理由がありました。彼はすまし顔で依頼人の話を聞いていましたが、内心はほくそ笑んでいたことでしょう。


「これまでの戦績は、私の11戦全敗」


 ですが、今回こそは好きにさせません。

 彼の助手として事務所に転がり込んで早一年。巻き込まれた事件は11件。彼の尻尾すら掴めないまま負け続けた一年でしたが、その一年が彼の私への信頼度をあげさせたのか、依頼人とその関係者の調査を任されました。

 これは大きなアドバンテージです。

 彼は私を信頼している……と、思い込むのは危険ですし、彼も私の調査結果を全て鵜呑みにしていないはず。

 それでも、関係者を調査する暇もなく事件に巻き込まれていたので一歩も二歩も先をいかれ、後手を踏まされていた頃とは雲泥の差。彼に先んじて、彼が計画しそうな事件を予測しやすくなったのです。

 そういう意味では、今回に限って言えばほくそ笑んでいるのは私の方です。


「ふふ、ふふふふふ……」

「今日は随分と、機嫌が良いね。ニヤニヤしながら独り言も言っていたし、何か良い事でもあったのかい?」

「いえ、何もありません。今は、まだ」


 危ない、危ない。内心でほくそ笑んでいたつもりが、いつからか口から笑いが漏れていました。

 思惑を悟られたかと少しだけ心配しましたが、彼は「温泉をたのしみにするのは良いけれど、仕事だということは忘れないでくれよ」と、ため息交じりに言っていますので、明後日の方向へ邪推してくれたようです。


「ちなみに、あとどれくらいで着きますか?」

「1時間ってところだね。もしかして酔ったかい? サービスエリアによろうか?」

「いえ、なんとなしに聞いただけなので、ご心配なく」


 私は今、彼が運転する古い日本車……いや、本当に古いですね。

 時速100kmを超えるとメーターのところにある赤いランプが光りながらキンコンキンコンと鳴るせいで高速道路なのに100kmの速度が出せませんし、窓の開け閉めは手動。ナビもなく、それがあるべき場所におさまっているのは車載用のラジカセ。それで流されているのは平成どころか昭和後期の歌謡曲という、英国育ちの私にはまったくと言ってもいいくらい馴染みのないジャンル。と言うか、年齢を考えたら彼にとっても馴染みは薄いはずなのにどうしてこのチョイス? カセットとか言う、見たことも聞いたこともない記録媒体しか再生できないからですか? それに座り心地も悪いですし、白を基調として黒いラインが走るパンダのような外装も安っぽい。あえて今時の車に勝っているところがあるとすれば、開閉式のヘッドライトくらいでしょうか。まあそれでも、車体に「山田探偵事務所」と書いてあるのがダサいですし、スポーツカーとすれ違うたびに乗っている人が可哀そうな人でも見るような目で彼を一瞥して嗤うのも気になりました。

 ああ、そうそう。サービスエリアで休憩した際に、この車を見た人が「86だ」とか「実物を初めて見た」とか、「こじらせすぎだろ」などと言っていたのも気になりました……じゃ、ないですね。完全に脱線しました。

 とにかく私は、彼が運転するそんな車の助手席で揺られ、依頼人が営む温泉旅館へとやって来ました。

 来たのはいいのですが、さっそくトラブルですよ。

 誰に何かされたわけではないですが、旅館を見た瞬間に嵌められた気分になりました。


「所長。これは詐欺では? 詐欺ですよね? 英語で言うとfraudです。今すぐ通報しましょう」

「君は、これのどこを詐欺だと言っているんだい? 風情のある良い旅館じゃないか」

「どこがですか? 私は温泉旅館と聞いて、昔ながらの日本家屋を大きくしたような立派で荘厳さすら感じる旅館を想像していたのに、目の前にあるこれは、いわゆる民宿じゃないですか。私が想像していた旅館を数段グレードダウンさせたものです」

「失礼過ぎじゃないか? たしかに見た目は民宿だが……そういえば、見取り図がどうとか言ってなかったかい?」


 それは、見取り図から想像できなかったのか。と、暗に言っているのですか?

 ええ、そうですよ。想像なんてできませんでした。

 入手した見取り図を見る限り、旅館は二階建て。客室が主となる東棟と西棟に分かれ、二棟の南端を受付や調理場、夕食が用意される宴会場、その他の業務用設備と若女将とその家族が暮らすスペースが集まった南棟が繋ぎ、凹の字のような形をしていました。

 温泉旅館とは、思っていたよりシンプルな造りなのですね。とも思いましたが、それは見取り図だからそう見えるのだろうと深くは考えませんでした。


「ええ、見取り図は入手していました。ですが、外観の画像が手に入らなかったんです」


 と、言い訳しましたが、実際は探してすらいません。

 温泉旅館と聞いて、実際に見るまで想像で我慢していたのです。

 だって私は、ハーフですが英国人。後見人兼身元保証人は母方の祖父母ですが、国籍も英国のままです。

 見た目も書類上も英国人の私ですが、日本の文化は英国でも人気が高いことを喜ぶ母を見ていたら私も幸せな気分になりましたし、私自身もいつかは見聞きし、体験してみたいと思っていました。

 それなのに、最も楽しみにしていたと言っても過言ではない初の温泉旅館がこれですよ。

 期待外れ。肩透かし。拍子抜け。幻滅した。ショボい。がっかり。げんなり。

 バリエーション豊富な日本の落胆を表現する言葉を幾重にも頭の中で積み重ねてしまうほど、目の前の旅館の外観が不満でしかたがないのです。


「だから見取り図だけ見て、君が言うところの昔ながらの日本家屋を大きくしたような立派で荘厳さすら感じる旅館を想像していたのかい?」

「いけませんか?」

「そうは言っていないよ。でもまずは……ほら、チェックインを済ませよう。もしかしたら、中は君の想像通りかもしれないよ?」

「そうだといいですけどね」

 

 不満を顔にまで出している私とは対照的に、彼は微塵も不満に思っていないご様子。

 日本人は、温泉旅館と聞いてこういうショボい上にボロい旅館も想像するのでしょうか。想定内なのでしょうか。

 それとも、下見に来ていたのでしょうか。

 正式に依頼を受けてから一週間ほど経っていますし、私も彼を四六時中見張っている訳ではないので、車で片道2時間ほどのここへ下見に来ることは可能でしょう。


「ならば、下見は終わっている前提で……」

「ん? 何か言ったかい?」

「なんでもありません。さあ、早くチェックインを済ませましょう」


 彼の言う事を真に受けた訳ではありませんが、中は私の理想に近いかもしれませんし、ここは天然温泉の露天風呂を売りにしています。

 それらがこの溜飲を下げてくれるなら、外観への不満は水に流しても良いです。


「That's great! This is it! The hot spring inn I was looking for!」

「ごめん。僕は英語が苦手だから、できれば日本語でもう一度言ってくれるかい?」

「素晴らしい! これ、これですよ! 私が求めていた温泉旅館は!」

「ありがとう。とりあえず、機嫌が直ったようで安心したよ」


 ええ、機嫌はすっかり直りました。

 依頼人でもある若女将に受付をしてもらい、私達より少し早く到着していたせいでチェックインがかぶった次女と三女……特に次女に、彼が執拗に誘惑されるトラブルはありましたが、他の部屋が改装中という理由で彼と相部屋になれて好都合でしたし、なによりこの部屋が素晴らしい。

 鍵がボロ旅館に似つかわしくない、チェックイン時に発行されるレシートに記載されたQRコードをドアノブのスキャナーに読み込ませて開錠される電子錠なのが少しだけ気に食いませんが、この内装は本当に素晴らしい。

 入ってすぐ右手にあるお手洗いの先にある引き戸の先に広がる十二畳敷きの畳。左手には歴史を感じさせてくれる古木の濃い茶色に囲まれたテレビとその前に並べて置かれた二人分の浴衣。達筆すぎて何が書かれているかわからない掛け軸。右手には、古めかしいですが清涼感を感じさせる若草色の壁。そしてその奥には、障子を挟んで広がる幅1・5メートルほどある謎のフローリングエリア。そのエリアには、景色を堪能しろと言わんばかりに木製テーブルと揺り椅子が設置してあります。


「部屋に満足してくれて安心はしたけれど、良いのかい? 本当に同室で」

「ええ、私はかまいません。所長は嫌なのですか?」

「嫌と言うより、問題があるだろう。君は一応とは言え高校生。つまり未成年だ。そして僕は、雇い主ではあるが他人。しかも男だ。危機感とかないのかい?」

「危機感? あ~、なるほど。たしかに、この状況は私にとってピンチですね。私は見た目通り華奢で貧弱ですから、所長が本能をむき出しにして襲ってきたら抗う術がありません」

「だろう? だったら今からでも、他の部屋を……」


 おそらく彼は、レイプされる危険を私に示唆して部屋を分けさせ、自由に行動できる時間を得ようとしている。

 彼に好意を抱いているならともかく、そうでないのならこんな冴えない中年男性など論外なので素直に別の部屋に移りますし、同室になるとわかった時点でクレームを入れていたでしょう。

 ですが私は、彼が起こすであろう悲劇を未然に防ぎ、両親の仇をとるためにここにいます。

 そのためなら彼に着替えを見られたってかまいませんし、温泉にだって一緒に入ります。レイプされたってかまいません。

 その程度の危険は、事務所に押しかけた時に想定しているのです。

 ですが、彼は私がそのような想定をしているなど夢にも思っていないはずなので、ここは万が一にでも別部屋にされないよう、言いくるめてしまいましょう。


「平気です。所長に私をレイプできるほどの度胸があるとは思えませんし、私はヴァージンではないので、レイプされたところで何とも思いません。私、こう見えてビッチですから。男なんて取っ換え引っ換えですから。知ってます? 私のようなビッチが男性を数える時の単位は「人」ではなく、「本」なんです。どうして「本」なのかは、言うまでもありませんよね?」


 嘘です。

 私は性経験どころか、異性との交際経験すらありません。

 異性を介して得られる経験よりも、書物を通して得られる知識の方が面白かったのです。

 それにもし経験があったとしても、白けたような顔をして「君は口を開くと、色々と台無しになるな。残念美人って言われないかい?」などと、訳の分からないことを言っているこんなオッサンに無理矢理抱かれるなんてノーサンキュ―。お金を詰まれても嫌です。レイプされようモノなら心に一生消えない傷を負うでしょうし、それが原因で妊娠しようものなら自殺します。


「そもそも、若女将が他の部屋は改装中だとおっしゃっていたじゃないですか。改装中の部屋に泊まるつもりですか?」

「あ、僕が移る前提なんだ」

「当たり前です。日本人の所長からしたら、この部屋も窓の外の景色も珍しくはないのでしょうが、英国生まれの英国育ちである私には珍しくてしかたがないのです。なので、絶対に部屋を移りたくありません」

「い、いや、日本人でも旅館には滅多には行かないから、日本人だから珍しがらないわけじゃ……」

「では、所長もこの部屋や景色は珍しいのですね?」

「あ~……僕は見慣れてるかな。ほら、僕が事件に巻き込まれやすいのは知っているだろう? だから、温泉旅館で事件に遭遇したこともけっこうあって……」

「ならば、所長に私の気持ちはわかりません。どうしても私と別の部屋がいいとおっしゃるなら、所長が改装中の部屋へ移ってください」

「いや、それはちょっと……」

「では、このままで問題ないですね」


 困った顔をしながらも反論しない様子を見るに、所長は説き伏せたと判断して良さそうですね。

 では、お次は温泉旅館に来たらやってみたかったことを順にこなしていきましょう。


「ちょ! ちょっと和渡君! 何を考えているんだ!」

「何をって……着替えですが? 温泉旅館では、浴衣で過ごすのがマナーですよね? 今回はセーラー服タイプの改造制服で来ましたが、これで旅館内を歩き回ったら変でしょう?」

「いや、まあ、マナーと言えるかもしれないけれど、何も僕の目の前で着替えを始めなくてもいいじゃないか!」

「ああ、そういうことですか。別に、見たいなら見てもかまいませんよ。減る物じゃありませんから」

「いやいや、そういうわけにはいかないよ! 僕は外に行っているから、その間に着替えて……」

「却下です。所長はそこにいてください。さっきも言いましたが、見たければ見てもかまいませんので。それでも部屋を出るとおっしゃるなら、戻ってくるまで全裸待機して待っています」

「どうしてそうなる!? 君はそんなに、僕に裸を見せつけたいのかい!?」

「そんなわけないじゃないですか。馬鹿ですか?」


 殺人鬼である所長の前で全裸を晒すなど、何の抵抗もしないから殺してくださいと言うようなもの。日本のことわざで言うところの、まな板の上の鯉です。

 ですが、所長に自由な時間を与えるわけにはいかないので、部屋から出すわけにはいかない。けれども、浴衣は着たい。

 ならば、折衷案です。


「少しの間、後ろを向いていてください。その間に着替えます」

「いや、だから僕が外に出れば、そんなことをする必要も……」

「所長。私は初めての経験に高揚しながらも、不安も感じているのです。こんなにも不安定な心理状態で一人にされるのはとても心細いのです。言いたいこと、わかりますか?」

「あ、ああ、何となくは」

「では、後ろを向いて正座でもしていてください。着替えが終わったら、声を掛けますので」

「わ、わかったよ」


 口から出まかせを並べただけですが、不承不承ながらも所長は観念して後ろを向き、律儀に正座までしました。

 では、今のうちに着替えるとしましょう。

 私にとって、浴衣は本当に楽しみの一つだったのです。

 お祭りなどで着る華やかな刺繍が施されたものではなく、こういう、薄茶色のシンプルで地味な浴衣に憧れがあったのです。

 もちろん、華やかな浴衣も着てみたい。ですが、ここでは不釣り合い。時(time)と場所(place)と場合(occasio)。所謂、TPOに反している恰好をするなど言語道断。日本には郷に行っては郷に従えという言葉も有りますので、ここではこの地味な浴衣がベスト。浴衣を着ないなど、旅館に対する冒涜なのです。

 だから私は服を脱いでたたみ、次いで下着も脱いで同じように丁寧にたたんでから、浴衣を着ました。

 難しいかもと心配していましたが、構造はいたってシンプルですね。前を合わせて帯で結ぶだけ。帯の結び方は事前に予習済みだったので、多少手こずりはしたものの、無事に結べました。


「所長。もう、こっちを見ても良いですよ」

「いや、べつに見る必要……も!? ちょ、ちょっと和渡君!」

「どうかしましたか? 着かた、間違ってますか?」

「間違ってないけど間違ってる!」

「はあ? 訳が分かりません」


 間違ってないけど間違えている? 

 これも日本語特有の言い回しの一つでしょうか。

 私は母が日本人なので日本語は堪能な方ですが、それでも無数にある言い回しを全て覚えている訳ではありません。

 語彙が少ない英語でストレートな言い方を通せば人間関係に支障がでかねませんので、会話に困らない程度には覚えているだけなので、その言い回しは知りません。素直にどういう意味か聞き返して……。 

 いや、待ってください。

 聞き返せば、所長は教えてくれるかもしれません。ですがそれでは、自分なりの仮説を立てた上で答えを得た場合とで、学ぶ上で決定的な差が生じます。

 仮説が間違っていても良いのです。人の脳は、成功した経験よりも失敗した経験の方をより鮮明に記憶するようにできています。

 なので、まずは自分なりに意味を考えてみましょう。

 所長はこちらを見た際、何かを確認してから立ち上がりました。おそらく、私の着替えが完了したか否かでしょう。そしてすぐに視線を顔ごとそらして、先のセリフを言いました。

 つまり、立つ前と後で見え方が変わったと仮定できます。

 だとするなら、浴衣の着かたは間違っていません。私から目をそらす理由が、別にあります。別のところから目をそらしています。

「間違ってないけど間違ってる」は、前後で違うところを指しているのです。

 考えられるのは、座った状態ではテーブルのせいで彼からは死角となり、立ってようやく見える位置にある、私が着替える際に脱いで畳んだ衣服。ここに、彼が言うところの「間違い」があるはずです。

 彼がこれを見つけるなり目をそらす要因として考えられるのは、服の上に置いた下着でしょう。これが、「間違っている」原因のはずです。

 ですが、これのどこが間違いなのでしょう。出しっ放しだからですか? 

 着ていないとは言え、彼のようなオッサンに下着を見られるのは気分がよくありません。隠さずに目に見える場所に放置しているのは、はしたないとも思います。それが間違いなのでしょうか。

 いいえ、違いますね。

 だったら、それを咎めればいいだけ。脱いだ下着どころか、私からも視線をそらしている彼の行動は、別のことを暗に示しています。


「も、もしかして、下着は脱がなくても良かったの……ですか?」

「あ、ああ。日本人でもたまに誤解している人がいるけど、浴衣を着るからと言って下着を脱ぐ必要はない」


 なるほど、だから彼は、「着かたは間違ってないけれど、下着を脱ぐのは間違っている」と、指摘してくれたのですね。

 だったら最初からハッキリとそう言えと文句を言いたいところですが、非は着物の下に下着は着けないと思い込んでいたがゆえに間違えた私にあります。

 なので、ここは素直に間違いを認め、改めて着替え直し……ん? ですが……。


「どうせ温泉に入るのですから、このままでもいいのでは?」

「いやいや、どうしてそう……」

「なりますよ。だって、下着を着けていないだけで、私は隠すべきところはしっかりと隠しています。入浴する際も、脱衣の手間が減ります。さらに、初夏とは言え今日は暑い。下着一枚ではありますが、涼しさが全然違います。良いことずくめでは?」

「いや、良くないよ。公序良俗に反するよ」

「意義あり。私が露出しているのは首から上と両手首から先、両足首から先のみ。さっきまで着ていた服装よりも露出度は低いです。これのどこが、公序良俗に反すると? あ、もしかして想像してしまうからですか? 浴衣の下は全裸だと想像し、劣情を抱いて欲情が暴発してしまいそうになるから言っているのですか?」

「そ、そんなわけ……」

「ありませんよね。ええ、そうでしょうとも。私の体付きは平均以下。英国にいた頃も日本に来てからも、発育が悪いせいでpupil(高校生未満の学生)に間違われていますから、所長が子供に欲情するhentaiでもない限り問題はありません。と言うか、素朴な疑問なのですが、どうして日本人は、特殊な性癖の人をhentaiと呼ぶのですか? これ、字は変態ですよね? 本来の意味はメタモルフォーシスです。イギリスでもすっかり浸透してしまっていますが、英語で言うならpervert、もしくは略して、perv。所長を、下着を着けずに浴衣を着ている幼児体形の私を見て欲情する人だと仮定するなら、You are a pervert。直訳すると、あなたは変態です。に、なります。で、話を戻しますけど、所長は変態ですか?」

「断じて違う」

「では、このままでも問題ありませんね」


 多少、煙に巻いた感はありますが、口では私に勝てないと諦めたようで、彼はそれ以上は何も言ってきませんでした。

 それは良い。

 彼を曲がりなりにも論破できて、満足しています。

 それも良い。

 でもこの胸の鼓動も、高揚感も、徐々に徐々に増してきている羞恥心も、それが理由ではありません。これは明らかに、浴衣の下に何一つ纏っていない事実に対してのもの。私は、この薄絹一枚の下が丸裸なことに羞恥しながらも、興奮しています。

 それは私自身、今の今まで知らなかった自分の一面です。自分にこんなニッチでマニアックでマイナーな性癖があるなど、今の今まで全く知りませんでした。

 それを、万が一にでも彼に悟らせたくなかった私は、「さあ、所長もさっさと浴衣に着替えてください」と、表情筋を駆使して真顔を作り、抑揚のない声を心がけて言いました。


「僕はべつに、このままでも……」

「は? 外観はともかく、中は立派な理想的な温泉旅館で、そんな安っぽいヨレヨレのスーツ姿で過ごすおつもりですか?」

「だ、駄目かな?」

「駄目に決まっているでしょ? え? 所長は本当に日本人ですか? それとも昨今の日本人には、ワビサビを重んじながら楽しむ精神がないのですか?」

「他の人はどうか知らないけど、僕には……」

「ない。とは言わせません。つべこべ言わずに、さっさと浴衣に着替えてください。反論は許しません。仕事とは言え、日本での生活が短く日本文化に馴染みがない私にとって、温泉旅館を浴衣で過ごすことは貴重な経験です。所長は、次にいつあるかわからないこの経験を邪魔するのですか?」

「いや、それは……」 

「いえ、言わなくてけっこう。反論は許さないと言ったはずです。所長は、自分が浴衣姿だろうがそうでなかろうが、私の経験に支障はないと言いたいのでしょうが、考えてみてください。私は最低でも、三日間はこの部屋で過ごさなければなりません。当然、同室である所長も一緒に、です。それなのに、スーツ姿の所長と一緒では風情もクソもないでしょう? 侘びも寂びもないでしょう? わかりやすく言うなら、台無しなんです。さ、私が言いたいことはわかったでしょう? だったら着替えてください。私の目が気になるとおっしゃるなら、先ほどの所長と同じように後ろを向いていますから」

「あ、ああ、わかった。君がそこまで言うのなら……」


 わかったのなら、さっさと着替えてください。とは言わずに、私は彼に背を向けたついでに脱いだ服と下着をしまうためにキャリーケースを開きました。

 一応、三日分の着替えと各種化粧品、スキンケア用品等々を詰めて来ましたが、彼が起こすであろう事件次第では、服やその他はともかく下着が足りなくなるかもしれません。

 と、なると、洗濯することも考えなければならないのですが……。私、洗剤と柔軟剤にはこだわりがあるんです。具体的に言うと、洗剤は花王のアタックneo、漂白剤は同じく花王のハイターを愛用しています。それをこの旅館も使ってくれていたら良いのですが……と、思案していたら、ハンガーをどこかにかける音の後に、彼が「お、終わったよ」と、着替え終えたことを告げました。


「あら、思っていたよりも早かったですね。まだ、五分も経っていませんが?」

「男の着替えなんて、そんなもんだよ」


 言われてみれば、父も着替えは早かった覚えがあります。

 例えば入浴後。

 私は髪が長く、母も私ほどではないですが長かったので、寝間着に着替えるのにも時間を要しました。ですが、父は、私と母の半分以下の時間で着替えを済ましてしまったのです。

 まあ、髪は生乾きでしたし、私や母のようにスキンケアをしていなかったので当然と言えば当然なのですが。と、英国での日々を思い出しながら、私は「では……」と、一言おき、手のひら大のポーチをキャリーケースから取り出して立ち上がりつつ「行きましょうか」と、言いました。


「行く? どこへ?」

「所長は阿保ですか? ここはどこです?」

「依頼人が営む旅館だけど、忘れてしまったのかい?」

「忘れるわけがないじゃないですか。所長は私が、この短時間で記憶喪失にでもなったとお考えで? 私は誰? ここはどこ? と、お約束のセリフを言いましょうか?」

「いや、遠慮しておくよ。それで、どこへ行くんだい?」

「お風呂ですよ。ここは温泉を売りにしている旅館ですよ? いくら仕事で来たとは言え、堪能しないなんて損でしょう?」

「ああ、そういうことか。じゃあ、行っておいでよ。僕は夕飯を食べてからで……」

「Are you out of your mind!? Bathing immediately after eating is dangerous!」

「ごめん、日本語でお願いできるかな?」

「正気ですか!? 食後すぐの入浴は危険なのですよ!?」

「ご丁寧に、その時の表情や感情まで再現してくれてありがとう」


 どういたしまして。とは言いません。

 ちなみに、食後から一時間ほどは血圧が下がりやすいため、入浴すると湯船で失神したりする可能性があるので危険なのです。 したがって、食後に入浴する場合は最低でも一時間ほど休んでから、入浴するのをお勧めします。


「と、言うわけで今から入りましょう」

「何が「と、言うわけ」なのかはわからないけれど、どうして僕も一緒に行かなければならないんだい?」

「どうして? 一緒に入るからに決まっているじゃないですか」

「いや、風呂は男女別……」

「では、ありません。ここの露天風呂は混浴です」

「いやいや、それでも男女別の風呂は設けられて……」

「いますが、そちらは現在、改装中だそうです」


 それゆえに、今は他のお客がいません。客室に泊まっているのは私と彼。そして、普段は市内に住んでいる依頼人の弟妹たち。若女将とその家族は、南棟二階で寝起きしているそうです。


「だったら、それこそ君だけで入浴すべきでは?」

「所長、私は英国人が故に、温泉の作法を知りません」

「作法もなにも……」

「いいえ、あります。あるはずです。なので、私に温泉の入り方を教えてほしいのです」

「教えることなんてないよ! 普通に体や頭を洗ってから湯船に浸かればそれOKだよ! そもそも、君は平気なのかい? 僕みたいなオッサンと一緒に入浴することに、抵抗はないのかい?」

「あるに決まっているじゃないですか。言っておきますが、私は両親以外に全裸を晒したことがありません。第二次性徴を迎えてからは、父親にすら見せていません。そんな私が、雇い主と言うだけの赤の他人で恋人でもない所長に素肌を晒して平気なわけがないじゃないですか。想像しただけで反吐が出そうです」

「それならやっぱり、君一人で……。いや、待ってくれ。君は自分のことを、ビッチだと言ってなかったかい? 男は取っ換え引っ換えだとも」

「言っていません。所長の記憶違いです。そして答えはNOです。独りで入浴するなど有り得ません。所長は私と一緒に入浴しなければならないのです。いいですか? この旅館には今、普段は市内で犯罪スレスレの行為を繰り返し、反社とも繋がりがあるチンピラの次男がいるのですよ? もしその次男と私が、露天風呂で遭遇したらどうなると思います? 間違いなくレイプですよ。華奢で貧弱な私は獣となった次男に成す術無く押さえつけられて、言葉に出すのもはばかられるようなアレやコレをされるに決まっています。所長には私が入浴している間、次男の毒牙から私を守る義務があるのです」

「僕が獣と化す可能性は、考慮しないのかい?」

「する価値がありません。だって、所長はヘタレでしょう? 無防備に着替えていた私に何もしなかったのが、その証拠です」


 それに加え、私があてがわれた事務所がある貸しビルの部屋の合鍵を持っているのに、夜這いの一つもしませんしね。

 まあ、されても困りますし、されたらされたで抵抗しますけど。


「だって君は、まだ子供じゃないか」

「今、何と? 私が子供? 私はあと数ヶ月で18歳です。つまり、英国でも日本でも成人として認められる年齢一歩手前です。その私を子ども扱いするなんて、少しどころか大いに失礼では?」


 いえ、確実に失礼です。

 それを何の悪びれも無しに、あっけらかんと負いうから余計にでも腹が立ちます。

 私は、名義貸しに近い形とは言え通っている高校の男子生徒から、試験期間以外は気が向いた時しか登校しないにも関わらず下駄箱がラブレターで溢れるほどの人気を博しています。

 女子からも、私の人気を妬む人は少数ながらいますが、大多数は「お人形さんみたいに可愛い」などと言われています。

 街を歩けば芸能事務所のスカウトから声を掛けられ、体目当てだと顔に書いてある下賤なオスどもにナンパもされます。

 それらは、私に女性的な魅力があることの証明です。

 それなのに彼は、年齢だけ見て私を子供と断じて私の自尊心を傷つけました。

 私が目の前で着替えを始めただけで顔を真っ赤にして目をそらしたくせに、彼は私を女として見ようとしない。

 それは、私に対する侮辱です。


「失礼だったのなら、謝るよ。だけど実際、君は年齢もそうだが……」

「何ですか? 人を爪先から頭の天辺まで舐めるように見て。体付き……いえ、胸ですか? 胸が小さいから、子供に見えるとおっしゃりたいのですか? よろしい。ならば、今すぐ浴場に行きましょう。確かに私の胸は小さい……いえ、細やか……いえいえ、控え目ですが、それでも多少のふくらみはあります。全体的に貧相な体付きですが、それでも子供の体付きではないと見て確かめてもらおうじゃありませんか。温泉で」


 確かに、私の胸は小さいです。

 トップ75,アンダー65のAカップ。しかも、Aカップの中で最も小さいサイズです。ハッキリ言って、そこらの小学生の方がよほど発育が良い。下手に並べば、私の方が年下に見られかねないくらい、私は幼児体形です。

 ええ、コンプレックスですよ。

 私は胸の大きさだけではなく、この体付きにコンプレックスを抱えているのです。

 それをずけずけと、無遠慮に刺激されては黙っていられません。


「だから、それは色々と問題が……」

「ありません。私が良いと言っているのですよ? 裸を見られ、万が一ほどの可能性しかありませんが、襲われる立場である私が良いと言っているのです。もっとハッキリ言いましょう。所長と一緒に露天風呂で入浴したいと言っているのです。所長は……いえ、日本男児は女に恥をかかせるのを良しとするのですか? 女の私にここまで言わせて恥ずかしくないのですか? 据え膳食わぬは男の恥とは、たしか日本の言葉でしたよね?」

「い、いや、君の気持ちは嬉しく思うけど……」


 気持ち? 私の気持ちって何ですか?

 あ、もしかして、私が好意を抱いていると勘違いされました? 裸を見られることも、それが切っ掛けとなって襲われることも覚悟して誘っていると勘違いしました?

 だとしたら、拍子抜けです。

 あなたは冷酷な殺人鬼。

 その頭の中には常に殺人計画が常に芽吹き続け、チャンスと見るやすぐさま魔の手を伸ばして被害者を量産する異常者。私を独りと言う名の地獄に叩き落とした悪魔。

 そんなあなたが、誘惑にもなっていないリップサービスに心動かされて赤面している様を見ると、妙な怒りが湧いてきました。


「いえ、やっぱり良いです。ですが、先に言った危険があるのも確かなので、所長は入り口の前で見張りをしてください」


 彼の反応にムカついた私は、さっきまで言っていたことを反故にしました。

 感情に流されたわけではありません。私は冷静です。ムカついていても、私の頭は氷のように冷えきっています。

 彼に、失望しています。


「え? あ、ああ……そうか。そうだね。うん、そうするよ」


 この反応も気に食わない。

 彼は残念な風を装って頭の後ろを右手で搔いていますが、明らかに安堵しています。面倒な事を言う子供が矛を納めてくれたと、安心しています。

 その反応が、冷え切っていた私の頭を過熱させました。

 加熱され、燃え上がるように脳ミソを怒り一色に染め上げられた私は……。


「再度、前言を撤回します。やっぱり、一緒に入りましょう」

「ちょ、ちょっと待ってくれ和渡君! さっき君は……! 」


 抵抗する彼を、持てる力を全て使って露天風呂まで引っ張りました。

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