今更の



「お鎮まりください。伏して、伏して言上つかまつります」

 密に織り上げられた絹の絨毯に額付いた老爺が全身を震わせながら主人を諌めようとする。

 白い光沢のある絨毯を別の照りが彩っていた。暗くとろみのある赤がてらりとしたほのめきを見せながら白を染めていく。小刻みな震えと絶え絶えの息が白と赤の毛並みを揺らめかせる。若い男がそのただなかに倒れ付していた。わずかに離れて老爺を先頭に平伏するのは十を下らぬ男たち。そのいずれもが斑に染まった絨毯を必死に掻き毟る若い男ほどではないものの大小の傷を負っている。

 老爺の震える声が鉄錆臭いにおいのする部屋に消えていく。

「そ、の方は、殿の縁者ではございませんか」

 遠く薄い血ではあるものの。

「それが」

 静かに語尾を跳ね上げた暫しの後に、

「なんだと」

 若者が悲鳴をあげた。

「言うのだ」

 再度あがる悲鳴のもとはと見やれば、ジェレマイアが若い男の手を踏みにじっている。からだの傾きからその強さが偲ばれた。

 この若い男がラファを殺したと嘯いていた。それを聞きながら笑っていたのが老爺を除く男たちである。

 この男がラファを別邸へと連れていったのだ。オベドが命じていたのを彼は覚えていた。だからこそ嘘ではないと思われたのだ。

「探せ。ラファを見つけ出すのだ」

 虚空へ向けて放たれた命に現れ跪く黒尽くめがジェレマイアの影だとわからぬものはいない。

「行け」

 鞭での打擲のような鋭い命であった。影は諾と返すと同時に姿を消した。

「判っておろうな」

 氷のような声である。

「謹慎させておけ。ラファが無事見つかれば降格処分で済ませようが、損なわれていようなら相応の処罰を与えよう」

 見渡して告げるそのことばに、「何故」との小さな呟きが空気を震わせた。

「何故?」

 ラファはと、続けようとしたことばは被せるようなオベドの叫びに打ち消された。

「なりませぬ。それ以上をことばにされてはなりませぬぞ」 

 絶叫にも似たオベドのそれに、平伏するものたちは同僚が取り返しのつかぬ過ちをおかしたのだと遅蒔きに悟った。それまではまだ、ジェレマイアの突然の暴挙は彼の発作なのだと甘く考えていた。しかし同僚のおかした罪に最悪己たちが連座させられる可能性があるのだと危惧を覚えるに至ったのだ。

 

◆◆◆


 従者の控えの間でのやり取りを耳にしたのは偶然にすぎない。

 ジェレマイアの乱れた心は、乱れたなりの平穏の中にあった。これほどの平穏の中にあるのはいつぶりであったのか。ーーーあるのか。そう。いつも、ラファに関わる物事は、彼に平穏をあたえてくれる。どれほど激しく彼をなぶっているときであれ彼の乱れた心は常よりも穏やかなのだ。他者の命を奪ってようやのことで得られる凍りつくような静謐ではなく。乱れ狂う激情に浮かされ魘される夜を過ごすことなく朝を迎えることができる。

 汚れた己は失ったものを取り戻すことなどできはしないのだ。痛いほどに判っていて尚、毟り取られた心が流す見えない血が、そうとは知らずやはり汚れた存在であるラファを求めた。おまえはすべてこの私のものなのだーーー心も身体も。髪の一本から足指の先まで余すことなく。私のゆえに生きて死ぬべきであるのだ。逃がしはしないと。

 しかし。

 やはり汚れた血の故、か弱いあれの命の焔は風前の灯となった。そのかそけき灯火をこの手でこそ消してやりたい。いつもの行為で流れるていどではない、溢れるほど血を流して死に行くラファを見たいと思った。瞬間。全身を駆け抜けたのは悪寒。そうして、紛れもない喜悦。喪失への恐怖。己がたかだかこのか弱い従者の喪失の予感に怯えたのだと理解した途端、自嘲と悲嘆とに襲われた。それと同時に、己が手にかかって果てるラファのさまにこれまでにない恍惚を覚えたのだ。

 愛しいラファ。

 このどうしようもない狂人に殺される哀れなラファ。

 あれは公爵家というささやかな世界しか知らぬままで、業を背負わされたままで死んでいくのだ。

 しんと霜が降るような寒気を彼は覚えた。

 幾人もの無辜の人間の血に染まった手を持つこの自分が、たかだかあの若者ひとりの死に恐怖してしまったのだ。

 失いたくないと。

 ありえないと打ち消しながら、ジェレマイアは折れた。

 失えないのだーーーと。

 今さら。

 あれが死に頻するようになった今更。

 嗤っているとジェレマイアは思った。

 しかし、彼の目からは涙が、喉からは嗚咽がせりあがっていた。

 そうして、彼はラファを館から出したのだ。

 ラファにとっては生まれてはじめての外の世界。せめてその命がつきるそのときまでの数ヶ月を心ひららかに過ごさせてやりたいとの、ジェレマイアの決意であった。

 それを。

 決意を無に帰さしめた侍従の得々とした声音に元より脆い心の掛け金が弾け飛んだのだ。

 そうして、しとどに打ち据えられた侍従の無惨なさまという酸鼻きわまりない光景が現れることとなったのである。















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公爵様の歪な愛情 七生 雨巳 @uosato

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