SCENE 68:彼方

 極彩色の輝きを放つ川が流れている。

 前後左右の感覚は既になく、肉体すら消失していたが、それが『川』であることは理解できた。


 宇宙を貫く大いなる流れ。

 時の流れを定める世界の軸。

 全てが生まれ、全てが還る場所。


 かつてコウイチだった存在は、僅かな光の球となってその流れに身を任せ、ゆっくりと漂っていく。


 よく見れば、周囲にもコウイチと同じような光の球が無数に浮かんでおり、目の前を流れていた1つの光の球がゆっくりと形を失っていき、消えた。


 ああして光の球ひとつひとつが溶け合い、集合してこの『川』は形作られているのだと気付いた。


 名前もなく、形もなく、自我もなく。

 ただ一つの光として漂い流され、大きな流れを形作っていくその感覚は、何にも変え難い安らぎを与えてくれた。


 もう何も、恐れることもない。

 もう何も、悲しむこともない。

 もう何も、失うこともない。


(——もう、いいんだ)


 そう悟った時、コウイチだった光の球は形を失い始め、細かな粒子となって端から崩れていく。


 そして最後の欠片がなくなる——その刹那。


 目の前に、一つの光の球が現れた。


 それはとても小さかったが、眩いほどの光を放ち、コウイチに遊びをせがむように忙しなく飛び回った。その光の存在は、コウイチの魂の奥底を強く揺り動かした。


 その光を知らないはずなのに、とても懐かしく、守ってやらねばならないとコウイチは強く感じた。


 気付けば、消えかかっていたコウイチの光の球は再び形を成していた。


 それを喜ぶように飛び回る小さな光は、思い出したようにある方向へとコウイチを引っ張った。

 

 それは『流れ』の向かう方向ではなく、少し外れた川の端。小さな光に引っ張られるように、コウイチはそこへと向かっていく。


 極彩色の輝きを幾度も潜り、昇り、曲がって、進んだ。流れの激しさが進むごとに強くなっていき、荒波に揉まれるような感覚がひたすらに続く。


 そんな道筋の果てに、突然、静けさが訪れた。


 そこは流れから遠く離れた、静止した場所。

 流れの本流と最も異なるのは、その場には、二つの光の球だけが浮かんでいることだ。


 まるでコウイチを待っていたかのように佇む光は、その場を動かない。コウイチは恐怖は感じなかった。


 代わりに感じたのは——郷愁。

 今はない架空の心臓が、強く波打った。


 コウイチは混乱から動けずにいると、引っ張っていた小さな光はひょいと飛び出し、その二つの光の球の方へと向かった。


 片方の光の球へと接触したかと思うと、三つの光の球は眩い光を放ち始めた。

 光は一気に肥大化すると、やがて人の形へと落ち着いていく。


 もうその頃には、コウイチも光の球の正体に気付いていた。コウイチだった光の球は形を変え始め、手足が伸び——コウイチの形を作った。


 コウイチは走った。

 足も肺も痛くても、無我夢中で走った。

 涙と鼻水が溢れ出てきて、まともに見えなくても、走った。


 取り戻したコウイチの視界の先で、光の球も応えるように2人の人間を形作った。


 1人は、落ち着いた茶髪を肩から垂らした、優しそうな女性。もう1人は、黒髪を短く刈り上げた精悍な男性。


 それは、よく知っていて——二度と会えないはずの人達。


「——父さんッ、母さんッ!」


 コウイチは勢いよく両親の元に飛び込んだ。

 その存在を確かめるようにぎゅうと抱き締めると、片方からは優しく、片方からは力強い抱擁が返ってきた。


「コウイチ……」

「……でかく、なったな……コウイチ」


 あの頃のままの穏やかな声で、母——ヤマセ・ミハルと、父——ヤマセ・ロッドは息子を強く抱きしめた。


「会いたかった……会いたかったよ……ずっと……」


 コウイチは涙を滂沱と流し、喉を震わせながら呟いた。


 両親を事故で失ってから、コウイチは何度もこんな夢を見た。


 何度も何度も夢の中で飛び込んでは、目が覚めた。

 その度に泣き腫らし、悲しくなって、やがて涙が乾いてしまった。


 だが、今は違う。

 確かに両親の腕の中にいる。

 状況も忘れ、コウイチはしばらく両親の腕の中で目を閉じていた。


 それからどれほどの時間が経ったのか、やがて落ち着いたコウイチが2人の元から顔を離した。

 顔を離しても、2人はいなくなることもなくコウイチを穏やかに見つめていた。


「2人とも……なんでこんな所に……それに、ここは……」


 落ち着き始めた思考が、疑問を口から割って出させた。

 冷静になって尚、その幻想的な風景は存在し続けていた。


 コウイチ達が立っているのは、不可思議な透明な床のようなもので、床の奥には宇宙よりも暗い暗黒が広がっており、左上のずっと遠くには、あの極彩色の輝きを放つ川が流れている。


 暗闇の中を悠然と流れる川の流れは、光の球の時に感じたものより、ずっと大きく、畏怖の対象として見えた。


 コウイチがその光景を眺めていると、ミハルがコウイチの疑問に対する答えを告げた。


が、あなたを見つけてくれたのよ。だから私達、ここであなたを待っていたの」


 見れば、ミハルのお腹は僅かに膨らんでおり、光はその奥から瞬いていた。

 その瞬きは忘れることもない、先ほど、あの奔流の中からコウイチを連れ出した、あの小さな光だ。


 つまり、あの小さな光は——妹。

 生まれるはずだったはずの、妹。


「……ごめん……なさい」


 納得と同時に、コウイチの心に強い後悔と罪悪感が湧き出した。

 先ほどまで流れていた涙とは違う、滲み出るような涙だった。


「俺……妹を……母さんを……守れなかった……」


 ここは、現世ではない。

 少なくとも、生者の生きる世界ではない。


 結局の所、結果は何も変わっていない。

 あの時、宇宙船事故の時、コウイチは手を伸ばすのを躊躇った。


「約束……したのに……」


 情けなさと後悔で、拳を強く握りしめた。

 自分の顔から滴り落ちる涙を見つめていると、コウイチの身体を暖かさが包んだ。


 ロッドがコウイチを強く抱きしめ、滂沱の涙を流しながら呟いた。


「お前が……お前が謝ることなど……あるものか……」

「……父……さん……」


 コウイチは、自分の父が泣く所を初めて見た。

 だが、ロッドはそんな外聞などどうでもいいとばかりに、強く抱き締める。


「俺は家族を守れず……お前を……1人にしてしまった」


 宇宙船事故の際、一番外壁近くにいたのがロッドだ。何かを判断する暇もなく、裏宇宙に吐き出された。


 しかし、ロッドは家長としての責任を強く感じていた。何より、息子にそんなことを言わせてしまったことへの罪悪感で、潰れてしまいそうだった。


「辛かったろうに……寂しかったろうに……」


 ロッドの目には、コウイチがどんな姿になろうと、幼い頃の愛しい我が子としてしか見えなかった。そして、そのコウイチの過ごした5年余りがいかに苦しいものだったか、想像できてしまった。


「すまない……本当に……すまない……」


 ロッドの抱擁の上から、ミハルが包むように抱き締める。


「あなた……あなたは立派だったわ。息子も……こんなに立派になって」

「……ああ……ああ」


 3人はしっかと抱き合った。2人の温もりの中で、コウイチの頬を小さな熱が触れた。見れば、小さな光が——妹が、その抱擁の中でコウイチを励ますように揺れていた。


 その暖かさは、コウイチの罪悪感を溶かすのには十分だった。

 それからしばしの時間の後、コウイチは晴れやかな気持ちで2人に告げた。


「……大丈夫。俺はもう、大丈夫だよ」

「コウイチ……」


 ミハルがコウイチの顔をまじまじと見つめた。

 自身の息子が成長したことへの、純粋な感激であった。


「それに、これからは一緒にいられるんでしょ?」


 コウイチは何の気なしに、疑いなく、そう告げた。

 今の肉体は仮のものだ。


 事実、3人の身体は光の粒子となって消え始めていた。

 再び光の球となり、あの流れに合流するのだ。


 そして全てと溶け合い、あの流れの一部となる。

 コウイチはその宿命に少しの畏怖を感じていても、恐怖は感じなかった。


 そう思っての言葉だったが、ロッドとミハルは僅かに悲しそうな顔を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「……ええ。もちろんよ。でも……

「え……?」


 母の口から漏れたその言葉に、コウイチは突き放されたような寂しさを覚えた。

 困惑するコウイチに、ロッドが目を合わせて告げる。


「お前にはまだ、でやるべきことが残っているのだろう」

「…………」


 父の目を通して、コウイチは自分の——現世の状況を思い出した。


 エコーズという怪物が蔓延る、荒廃した2000年後の世界。

 頼れるものはなく、未知の航宙艦と機動兵器のみ。

 元の世界へと帰れる保証もない。


 友人達も——アイリも、レイストフも、向こうにいる。

 その全てを、守りたいと思う。


 でも——。


「でも俺……もう離れたくないよ……」


 コウイチは自分が幼い子供じみたこと言っていることは自覚していた。

 それでも、両親の温もりを思い出してしまっては——そしてそれをもう一度失うのは、耐え難いものだった。


 そんなコウイチを見たロッドとミハルは、様々な感情を噛み殺した。

 決して、今、涙を流してはならないと。


 去来する感情を全て飲み込み、ロッドはコウイチの肩を叩いた。


「巣立ちの時だ。コウイチ」

「……父さん」


 俯くコウイチの瞳を、ロッドは覗き込むように膝を折った。


「あんまり甘やかしてやれないで、悪かった。だがお前はこうして、立派に育ってくれた」

「…………」


 コウイチの胸に、ジンと痺れるような感触が走った。

 父親に認められるという感覚が、なかったからだ。


 顔を上げたコウイチの瞳としっかり目を合わせ、ロッドはしっかりと告げた。


「決めたことが、あるんだろう」

「……うん」


 家族じゃなくても、大切に思えた人達。

 それらを守りたいを思う心を、ロッドは見透かしていた。


「なら、それを貫き通すんだ」

「……わかったよ、父さん」


 コウイチが目を合わせて告げると、ロッドがワシワシと頭を乱暴に撫でた。


「よし。それでこそ男だ」


 ロッドは、それで言いたいことは言ったとばかりに横へ退いた。

 入れ替わるように、ミハルがコウイチを抱きしめた。その暖かさは、何度感じても惜しくて、これから感じることはないのかと思うと、涙がとめどなく流れてきた。


「母……さん……」

「私達はずっと、ここで待っているわ。あなたが生をまっとうする、その時まで。ずっと——」


 耳元で告げられた言葉が、コウイチの心に染み込んでいく。ミハルはコウイチを名残惜しそうに離すと、目を見て笑顔を浮かべた。


「だから、背筋を伸ばして。前を向いて生きなさい」

「……うん」


 コウイチも涙を引っ込めるよう努力すると、背筋を張って答えた。

 そしてその会話が引き金だったかのように、コウイチの身体が宙に浮かび始めた。まるで磁力で引き寄せられるように、この空間へやってきた通り道へ、光の川へと引き寄せられ始めた。


 2人は、互いの肩を抱きながら、遠ざかるコウイチの姿を見つめていた。

 母の肩には、妹の小さな光が手を振るように瞬いている。


(……さようなら)


 コウイチは遠ざかっていく3人の姿に、声にならない別れの言葉を告げた。

 光の彼方に飲まれていく家族の姿を名残惜しく思いながら、コウイチは帰るべき場所を脳裏に思い浮かべた。


 光の勢いが増していき、自分が確実にある場所へと流れていくのを感じる。

 再び自分の体が光の粒子となって消えていき、あるべき場所へと流れていく。


 消えゆく意識の中で、母の声が聞こえた。


 ——ずっと、見守っているからね。コウイチ。


 コウイチはその言葉に背中を押されるようにして、目を瞑った。



 *



 惑星ヒューゴの地表。晴れ渡る空の下、朽ち果てた拡張人型骨格のそばで、多くの生徒達が泣き崩れていた。


 最後の拡張人型骨格の中に乗っていたはずのヤマセ・コウイチは、忽然とその姿を消した。

 その要因や詳細は正確には伝わっていなかったものの、船外に飛び出した生徒達も、その結果だけは感じ取っていた。


 英雄、帰還せず。


 その事実だけが伝播し、葬式のような雰囲気さえ出始めていた。馬鹿騒ぎしていた生徒達もなりを顰め、静かに俯いていた。


「何で……何でッ!」

「こんなの……こんなのって……」


 モリスは地面を叩きながら、サドランは呆然と座り込んだまま、涙を流していた。


「…………」

「コウイチ……」


 コックピットから引き摺り出された後も、シーラは地面にうずくまり泣いていた。

 その脇で、アイリは医療衣のまま、タンテとマニに支えられながら、コウイチのいない拡張人型骨格を見上げていた。


 アイリは口を固く結びながら、強く空を睨みつけた。


(言い逃げなんて……許さないわよ、コウイチ)


 夢の中でのコウイチからの謝罪。

 何の根拠もないが、あの言葉は、コウイチ自身のものであるように感じられた。


 謝った後に逃げる癖は、昔から変わらない。

 喧嘩の仲直りをする時も、ぶっきらぼうに謝った後、そそくさと逃げ帰っていた。


(絶対、お詫びにスイーツでも奢らせてやるんだから……)


 アイリは、そうすればコウイチが帰ってくることを知っているかのように、心の中で呼びかけ続けた。


(だから……帰ってきなさい。コウイチ……!)


 アイリが何度目かの祈りを上げた時、変化が起きた。

 それは超常現象ではなく、すぐそばで蹲っていたシーラがガバリと立ち上がったのだ。


 主人の帰りを察知した犬のように、目を見開き、あたりをくるくると探し始めた。

 その光景は、エコーズによる最初の襲撃を察知した時と、同じに見えた。


(まさか……)


 アイリがこれから起こることを察した時、突如、辺り一面に眩い光が走った。

 その閃光は空中のある一点から発せされており、光が一段と強く瞬いたその瞬間——が吐き出された。


 その何かの正体を察知していた2人が——アイリとシーラが、空中から落ちてきたそれを受け止めた。それはしっかりと重く、温もりがあった。


 下敷きになった2人が支えきれず地面に尻餅をつき、僅かな砂埃が舞った。


 周囲の生徒達が何事かと見守る中、アイリとシーラは腕の中の人物と目を見合わせた。

 シーラは無表情なままポロポロと涙を流し始め、アイリは深くため息を吐いた後、穏やかに告げた。


「おかえり」


 2人の少女の腕の中にいた少年は、若干気まずそうに頬をかいた後、笑って呟いた。


「ただいま」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る