第3話 『蜘蛛』の巣作り4


 そも、フィラン御嬢様というお方は七繋貴のご令嬢とはいえ、何から何まで完璧な世界で生きてこられたわけでは御座いません。

 七繋貴しちけいきにも階級がありますし、繋術師けいじゅつしの腕前にも格差は御座います。

 御嬢様は決して下位の者でこそありませんが、最上位の者ではありませんでした。

 要はそれなりに血生臭く努力をされた事もあり、それでも敗北を味わった事も、絶対に縮まらない差に絶望した事もあるのです。それこそアルアに逆転されるよりも前に。

 幼い頃の話でございます。御嬢様にご自覚はありませんでしょう。

 しかし御嬢様の境遇は、彼女をほんの少し……いえ、大層なにしたようでした。


『蜘蛛』が計算していたかはさておき――御嬢様は結局、自分のために必死に声をかけてくる拾い物に絆されたという事です。あるいは、御嬢様の中にある小さな、砂粒のような御慈悲の心が動いたのやも。


「バカじゃないの。誰もついてきたがるのなんていないのに」


 連れてゆく理由がないと跳ね除けられ続け数日、御嬢様のお言葉がまた変わった日が御座いました。

 更に驚くべき事に、御嬢様は『蜘蛛』の前で足を止められたのでのです。

 話をしてくださる姿勢を感じ取り、『蜘蛛』はそれはもう天にも昇る気分で御座いました。……といっても、天に昇らなければならないのは自分ではないとすぐに思い直し、努めて冷静に口を開きました。


「私は御嬢様を天国てんごくへ連れてゆくと約束しました」

「……」

「生きている限り、人生には何度でもやり直すチャンスがある。学校へ入学なんて、まさに絶好の機会じゃありませんか。大学デビューしちゃいましょう」

「だいがくデビュー?」

「……所謂、今までと違う学校に入った時に、今までの自分から新しい自分に変わる事です。地味な子が垢抜けたりとか……」


 聞いた事のない言葉だったようで、御嬢様は鼻の頭に皺を寄せたまま、暫し『蜘蛛』の言葉を理解しようと考え込む仕草を見せておりました。


「しましょう、自分改革」

「……」

「アルアに負けて悔しくないので?」

「悔しいに決まってんでしょ!!!!」


 鼓膜も破れかねないサイレンのような絶叫による立ち眩みに耐え、『蜘蛛』は更に揺さぶりをかけます。


「アルアみたいになりたくない?」

「なりたいわよ!!!! なれたらどれだけ良かったか!!! でもあの娘とアタシは違うの!!! 生まれながらの良い子ちゃんには、今更なれやしないのよ!!!」

「でも少しでも追いつきたくない?」

「……ッ、追い越せないなら、意味ないわよ!!!」

「じゃあずっとこの地獄に?」

「…………」

「山の天辺には登れなくても、少しでも登れば空気は清らかになるかも。地獄の淀んだ空気を吸うよりは、マシかも。いえ、きっとそうです」


 御嬢様の足はこの場から逃げたそうにほんの少し、後ずさろうと致しました。しかしその足は結局、何かに耐えるようにぐっと踏みとどまったので御座います。

 おつらそうな面持ちで、いつもツンとあげていた顎を下げて俯かれ、両方の拳を握りしめていらっしゃる。そんなお姿をつぶさに観察しながら『蜘蛛』は尚も続けました。


「あなたは、底まで堕ちたんです。そうでしょ?」

「……」

「でもまだ死んだわけじゃない」

「……」

「――登るしか、やる事ないでしょ」


 命を断つ勇気も、そもそもそんな気だって本当はない、そんなご自身をよく分かっていらっしゃる御嬢様は、暫し苦しそうに呼吸をなさいました。

 うう、うう、と呻きながら苦しむ胸に手を這わせているのを、『蜘蛛』は声もかけずに見守りました。

 やがて御嬢様はゆっくりとしゃがみこんで、母親に置いてけぼりにされた小さなこどものように丸まってしまわれました。そしてそれでも、ここに御嬢様は留まっておりました。


「……良い子のふりをしたって、神様にだってすぐバレるわ」

「神様は何もしてくれない。あなたを天に引き上げるのはただ見ていただけの神様じゃなくて、実際にあなたに助けられた蜘蛛です」

「アンタを助けたのには下心があった。自分を慰めるためだけよ」

「どんな理由であろうと、助けられた方にはあなたは恩人です」

「…………」

「この世を動かすのはどこにいるとも知れない神様じゃなくて、いつだってこの世で生きている人間ですよ」

「……」

「神様は、ちょっと手助けをしてくれるだけ。そのチャンスを逃すか逃さないかはその人次第だ」


 なんとも実感の伴う言葉でした。

 死にかけの自分の目の前に御嬢様が現れたのは神の手助けやもしれません。どうにもできない範疇で助けてくれる事はあるやもしれませんが、どうにかできる事には手を出さないのが神というもので御座います。


「これは私の実体験を伴う推測なんですが」


『蜘蛛』は御嬢様と視線を合わせるために、長い手足を畳み込んでしゃがみました。


「神様は、地獄でも諦めずに苦しみ藻掻いているやつを見るのが大好きなんですよ」

「……」

「だから決してトドメは刺さない。チャンスは、与え続ける。――それが本人にとって救いになるかはさておきね」


 それは、どこの者とも知れない人間が口にしたただの与太話である筈でしたが、しかし御嬢様にとってはまるで真理を目の当たりにしたような驚嘆と、絶望があったようでした。

 大雨の中で、見るも哀れな姿になりながらも、怒り狂って喚いていたあのお姿を『蜘蛛』は決して忘れておりません。憎まれっ子世にはばかるという言葉もございますが、皮肉なことにあの時の御嬢様は全くもって生きるエネルギーに溢れておりました。


「終われないですよ、あなたじゃあね」


 ――私と同じように、という言葉は『蜘蛛』は飲み込んでおく事に致しました。

「何卒、このツクモ、学院へのお連れとしてご検討ください」と微笑を浮かべ、『蜘蛛』は真っ青なお顔の御嬢様を置いて寮へと戻ってゆきます。

 返事を急くのは得策では御座いません。御嬢様のような脊髄反射で文句を垂れるような方相手は特に。


 寮に戻るなり、『蜘蛛』は見つけたトカット達に「すみません、何か仕事を貰えませんか。やった事ないやつ」と声をかけました。


「助かりますが……何かあったのですか?」

「ここんとこサボりまくりだった癖になんデス」

「仕事減って楽だったのにさ~」


 まじまじと見つめてくる三人に『蜘蛛』は真っ青な顔で言うのでした。


「大見得切っちゃったんで、早く仕事覚えないと」

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