第3話 『蜘蛛』の巣作り2


 さて、フィラン御嬢様と一緒に暫く姿を現していなかった者が御座いました。医者のチャースで御座います。

 そもそも『蜘蛛』は、御嬢様がご不在である事を全く知りませんでした。なにせ『蜘蛛』はまだアストラル家のお屋敷に無断で足を踏み入れてはならない身です。

 使用人寮とその周辺の庭程度に動きが制限されていました。これはバーナルからの命令です。

 ですから『蜘蛛』は御嬢様が自ら顔をお出しになってくださる時しか、恩人に会う事ができなかったので御座います。

 だのでここ暫く顔が見れなかったのも、また御嬢様がただ単に不機嫌になってしまわれてお部屋にでも閉じこもっているばかりなのだと思っておりました。


 トカット達から暫く御嬢様がご不在だったと聞き、『蜘蛛』は様々な事を考えました。

『蜘蛛』がトカット達を仕事の師匠にしたのは、ただ彼女たちが他に比べてまだ優しそうだったから、歳が近そうだったから、というだけでは御座いません。あの三人はお喋りでしたから、色んな情報を手にいれる事ができるのではと目論んだ為に御座います。

 しかしあのお喋りな三人は御嬢様がご不在である事を『蜘蛛』に漏らしませんでした。お喋りに見えて、意外と話す内容は気をつけているのかもしれまん。その割には、人に聞かれるとマズそうな内容が多いのも気にかかりますが。


 態度だけでいえば『蜘蛛』に最も優しくしてくださったのは医者のチャースでした。職業柄か人柄か、彼女は穏やかな表情と物言いをしており、よそ者である『蜘蛛』に対しても平等めいた平穏さを持っておりました。


「少し見ない間に随分元気になったみたいだね。だが無理に動きすぎるのは危ないから気をつけるんだよ」

「はい、ありがとうございます」


 私室に訪れて診療を行ってくれたチャースに礼を言い、『蜘蛛』は気にかかっていた事を訊ねました。


「暫く姿がありませんでしたが、どこかに行っていたんですか?」

「ああ、遠征だよ。御嬢様の付き添いでね」


 ビンゴ。と『蜘蛛』は思いました。姿の見えなくなった時期が考えてみれば同じ頃合いだったので御座います。


「遠征……」

「私がついてゆく事は滅多にないんだけど。今回は医者が必要そうだったんでね。御嬢様は怪我ひとつなくご帰還されたから安心おし。」


 怪我をするかもしれなかったのか。と『蜘蛛』は思いました。遠征とは一体どんなものなのか、まさか戦争のような危ない事なのでしょうか。聞きすぎると怪しまれますから『蜘蛛』はいつも口にする言葉を慎重に選びました。


「他に誰かついていかれたんですか?」

「今回は私だけだよ。後処理がメインだったからね。そも流血沙汰になるような案件じゃなかった」


 流血沙汰になるような案件もあるのか。と『蜘蛛』は気を引き締めました。なぜならきっとというのはそういうところにも同行するものだからです。

 少なくとも『蜘蛛』はこの屋敷の中で、御嬢様の元お付きであったアルアという少女が御嬢様に文字とおり付きっきりだった事を察しておりました。

 この時、怪我を恐れるような臆病な心はこの『蜘蛛』の中には御座いませんでした。御嬢様のためならば例え火の中、水の中、どこへでもついてゆく所存でしたから。といってもこれは勇気よりも無謀のほうが大きい心持ちだったと、後々『蜘蛛』は思い知る事になります。


「バーナルから聞いてるよ、あんたこの屋敷で働きたいんだって?」

「この屋敷というか……フィラン御嬢様のお付きになりたくて」

「ハッハァ、また随分無茶な希望だね」


 無茶というのはどういう意味なのか、きっと色んな意味が含まれているんでしょう。蜘蛛はムと口を噤みました。表情こそ殆ど変わりませんが、薄い唇がわずかにヘの字口になります。


「この調子ならあと一月ひとつきもすれば大丈夫だろう。精々頑張りな」


 それはあと一月で此処にいる権利をもぎ取らなければならないという事です。


「急に具合が悪くなってきた気がします」

「順調に回復してるよ」


 真顔の蜘蛛のどれほどの度合いで冗談か分からないその言葉に、チャースは素っ気なくそう返すだけでした。


◆◆◆


「御三方はどのようにしてこの仕事に就いたんですか」という蜘蛛の問いに、トカットは答えました。


「ウチは基本的にスカウト制じゃないかしら」

「そうね~、殆どそうなんじゃない?」

「使用人を募集してた事ってありますか?」

「どうかしら。募集するにしても内部の者がよさそうな者を推薦するんじゃないかしらね」

「私は推薦してもらって入りまシタね。――ハイ、これ干してください」


 答えるトカットの横からクラィシヒとラプフェティがそれぞれ口を挟みます。

 洗いたてのシーツを手にし、「推薦……」と深刻そうな面持ちのまま『蜘蛛』は手慣れた作業で縄にシーツを干し、ピンと皺を伸ばしてみせました。


七繋貴しちけいきの中ではウチの雇用形態はかなり珍しい方デスよ。普通は従者の一族が決まってる事が多いデスし、外部の者を入れるにしてもかなり厳しい基準があるらしいデスから。――ハイ、次はこれを」

「じゃあ自分に推薦をください」

「ズバっと言うわね~」


 次の洗濯物を干しながら真っ直ぐな目で見つめてくる『蜘蛛』にクラィシヒはうざったさの隠せない微笑を無理に作りました。


「推薦たって、今空いてる枠ないわよ~」

「えっ。……アルアさんの枠は?」

「御嬢様が新しいお付きを募集していませんからねぇ」

「えっ」

「お陰で私達はいい迷惑デスが。次の遠征当番、私達デスよ」

「アルアがいたら滅多についてかなくて良かったのにね~」

「最低最悪ここに極まれり……ですね」


 絶望している『蜘蛛』を心配する様子も、同情する様子もなく三人は先にある仕事に肩を落とすばかりで御座います。

 すっかり黙り込んでしまった『蜘蛛』に、この変わり者もようやく諦めたのかと思いきや「新しい枠の募集していないのは私のためかもしれません」と非常に前向きな言葉が聞こえてきたので、三人は思わずずっこけそうになってしまいました。そんな訳ないからです。


「その遠征、自分も行きたいです」

「「「は~?」」」


 クラィシヒだけでなく、ラプフェティとトカットまでも『蜘蛛』のとんでもない発言に拍子の抜けた声をあげました。


「あのね、素人を遠征につれていけるわけないでショウ」

「そもそも遠征がどれだけ大変か分かってるの~? アンタみたいなヒョロヒョロじゃついてこられやしないわよ」

「毎日走ってますし、筋トレもしています。ついてゆけます。というか、ついてゆきます」

「確かに拾われた頃よりだいぶ良さそうですけれど……やめたほうがいいですよ」


 馬鹿にしたようなラプフェティとクラィシヒと違い、トカットは純粋な親切心を持った面持ちで『蜘蛛』にそう告げました。


「やっとお元気になってきたのにその命を落としては、御嬢様の数少ない善行も水の泡になってしまいますからね」

「役立たずは死ぬから来るな~ってトカットは言っているのよ」

「クラィシヒ」

「あらッ、何か間違ってて~?」

「そもそもアルアなしで御嬢様と遠征なんて無謀すぎるんデスよ。一体どれほどのワガママを言われる事か分かったもんじゃありまセン。人目も気にするでしょうし、あああだこうだ注文を……」


 ぶわりと強い風が吹き、シーツが揺蕩うまま飛んでゆきそうになりラプフェティが咄嗟にそれを押さえようとすると、シーツのすぐ向こうに不機嫌な顔がドンと現れておりました。フィラン御嬢様で御座います。

 鬼を彷彿とさせるそのお顔に「ヒィィ」と三人は思わず悲鳴をあげました。


「お、御嬢様……!!」


 一体いつから聞いていらっしゃったのか。仁王立ちなさる御嬢様に睨まれ、三人の使用人は子ねずみのようには震え上がるしか御座いませんでした。

 御嬢様の陰口を口にしておりませんでした『蜘蛛』だけが、久方ぶりに拝見できたその可愛らしいお顔に(表情はさておきです)瞳をわずかに輝かせております。


「御嬢様、自分も遠征についてゆきたいです」

「ちょっ」

「ハア?」


『蜘蛛』の愚かな発言をトカットは止める事ができませんでした。

 御嬢様は暫し呆れ、蔑みさえ含んだ瞳で『蜘蛛』を見つめた後「イヤよ、邪魔ったらしい」と吐き捨てられました。

 食い下がろうとする『蜘蛛』を無理やり押さえつけ、三人は引き攣った笑顔で御嬢様のお声掛けをしました。


「お、お散歩デスか? 本日はお日和ひがらも良く……」

「太陽の光は身体に良いですから……」

「お気持ちもきっと晴れますわ~……!」

「温室に行くだけよ」


 地を這うような声で告げ、御嬢様はドンドンドンとわざとらしく三人の肩に自分から当たりに行き、ご自身も反動でちょろっとよろけたのをなんとか立て直して、ズンズンと屋敷裏の林に続く道を歩いていってしまわれました。

 ついてゆこうとする『蜘蛛』を三人は押さえ込みます。それぞれがとんでもない握力を持っており、追いかけるどころか地面に埋められるかと思う程で御座いました。

 御嬢様の姿は裏庭向こうにある雑木林へと消えてしまわれました。塀もありませんから、美しい木漏れ日の見える自然の世界もお屋敷の領地なのでしょう。

 お咎めなしである事に安堵し、青い顔のままドッドッドッと鳴る心臓を両手押さえるトカット達でしたが、それはそれで……雷が落ちなかった事に次第に動揺が襲ってきました。


「本当にあれはお嬢様なのかしら」

「あの方もきっとやっと反省したのでは? 恥をかいて……」

「でもあれはあれで調子が狂うような~……」

「あの人はどこへ?」

「え? ああ、温室デスよ」

「ついていっては駄目よ。立ち入りはご当主様に許可された者のみですから」

「それに顔は合わせない方が身の為よ~。気まぐれで助けていただいたのだろうけど、ちょっとでもご機嫌を損ねてみなさい。あ~っという間に追い出されちゃうかも!」


 つまり余計な事はせずさっさと部屋に戻りなさいと遠巻きに言われているわけです。洗濯干しの仕事も終わっておりますから、『蜘蛛』は大人しく使用人寮に戻るしかありませんでした。


 『蜘蛛』が与えられた部屋はH字型で形成されている寮の後方館、一番西にある狭い角部屋で御座います。

 一階通路は使用人達に充てがわれた部屋がずらりと並んでおり、全部が同じ造りの部屋をしております。前方館は作業場が殆どです。

 すぐにはなんの役にも立てない薄汚いにも関わらず、このように部屋を与えられたのは偶然その部屋が持ち主が不在になったばかりだからです。

 最近まで使用されていた痕跡がそこかしこに御座います。処分されたり、新しいものが運び込まれたりしても、消えない人の気配というのはあるものなのです。

 何を置いていたのか、少し傾いた部分がある棚。使い込まれてよれたベッドのシーツ。頭の形の癖がついた枕。箪笥の隅に追いやられたまま置き去られたであろう侍女の服は『蜘蛛』が着るには小さすぎました。

 机の引き出しの中に入れっぱなしになっていたのは古ぼけた一冊のノートが置いてけぼりにされておりました。

 部屋にいる時間はトレーニングの傍ら、これを眺めるのが『蜘蛛』の日課で御座います。


「フィラン……様、フッ……明日は……ぐッ……この文字見かけたのにな……なんだろ……フッ、フッ……料理の話かな……フッ」


 日記らしきそれを床に広げ、腕立てをしながら、その日こっそりと学んだ文字を復習する。これが日課なので御座います。

 汗じみが日記を汚すのは申し訳ないところですが、恐らくこの日記が持ち主の元へ変える事はありませんでしょう。

 限界を迎えると、ブハァと息をつき『蜘蛛』は床に転がりました。じんじんと腕と腹や腰の筋肉に熱を感じながら、数日前より読めるようになった文字を見つめます。

 この『蜘蛛』にはくじけている場合などないのです。


「言葉は通じる。文字は読めない。常識は通じる。知識は微妙。――……」


 できる事、できない事を日々ひとつひとつ確かめました。

 そしてできる事が日に日に増えている事を実感しておりました。


「棲家をもらって、食べ物もあって、歩けて、息はできるし、心臓は動いてる」


 あの日、あのままだったら確実に野垂れ死んでいた筈です。

 それが戯言を抜かすどこの者とも知れぬ自分を、気まぐれとはいえ拾ってくださった。どんな理由であろうとも、この心臓が動いているのは彼女があの一瞬に善の心のために動いたからに他なりません。

 それを思えば、『蜘蛛』は一瞬だけ感極まったように口元を手で覆い、多幸感に身を委ねました。

 そして決意の炎が揺れる瞳を開き、誰に言うでもなく何度も誓うので御座います。


「絶対にあなたを地獄から救い出します」

 

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