第2話 薔薇屋敷の憂鬱4
目が覚めるなり『蜘蛛』は大層驚きました。
この屋敷に拾われて以来、一度も姿を見せなかった令嬢がベッドのすぐ傍に座っていたのですから。
朝と夜の数も食事の数も世話してくれる使用人の数も気にならなかった『蜘蛛』は、ただやっと姿を現してくださった御嬢様を食い入るように見つめました。
「どう? 調子は」
全くもって心配の色のない冷たい声が『蜘蛛』の鼓膜を揺らします。
『蜘蛛』はただ令嬢を見つめたまま、なんとか口を開きました。
「すこぶる……良いです」
『蜘蛛』はもう舌を動かして無理に唾液を溜めなくても喋ることができました。しかし声は相変わらずか細くて、ほとんど吐息のみです。
御嬢様は相変わらず死にそうに見える『蜘蛛』に(とはいえ拾った時よりは清潔になっておりますし、肉も少しついております)、ハンと鼻で笑ってやりました。
それからもう何も言わず、『蜘蛛』にも見向きせず、御嬢様は持ち主の代わった部屋をゆっくりと見回しました。
アルアがいた頃に数度だけ足を踏み入れた事がありましたが、彼女も御嬢様の侍女として学園に赴いておりましたから、私物は殆ど残されておりません。部屋には『蜘蛛』のための治療器具や生活用品が置かれており、アルアの気配なぞ無いも同然で御座いました。
「どうですか……調子は……」
か細い問いかけが聞こえ、御嬢様は目を丸くして視線を『蜘蛛』に戻しました。
今の御嬢様にそのような不躾な質問ができるのはマライグだけではなかったようです。
「そうね、最低最悪。この世の終わりよ」
御嬢様は変わらずそうお答えになり、窓の外に見える三日月を眺められました。
「御恩は必ず返します……」
御嬢様はまたハンと鼻を鳴らされました。
自暴自棄によるその場のノリと気まぐれで助けただけで、こんな乞食が自分をどうにかしてくれるなどと微塵も期待はしていなかったのです。
「馬鹿なことをしたわ。拾ったものの面倒はちゃんと見ろとお父様に散々言われていたのに、アンタみたいな虫を拾っちゃってさ。――でもいいわ、面倒見てあげる。馬鹿なことしてる時は少し気も紛れるみたいだから」
「……!」
「アンタまともに働いたことはある? ちなみに、まさか無いとは思うけど『
「働いたことは、その、なくて、えっと、け……けいじゅつ、ってなんですか?」
「嘘でしょ、そこから」
御嬢様はこの拾った『蜘蛛』が想定以上に何も知らないことに絶望なさいました。
喋り方から考えるとそれなりに教養はあり(失敬な態度でこそありますが)、不遇な境遇によりのたれ死にそうになっていたのではと思いましたが、生まれながらの乞食なのかもしれないと思い直されました。
申し訳無さそうな、焦ったような面持ちの『蜘蛛』は、肉はついたとはいえ相変わらず痩せ細っていて見るも哀れな姿をしております。
「……回復したら町で適当に面倒見て雇ってくれるところを探してやるわよ」
「えっ、嫌です!! あなたの傍にいないと恩返しなんてできないじゃないですか!」
「嫌ってアンタ……繋術も知らないで『
「し……しちけーき……?」
『蜘蛛』は、御嬢様よりもこの世の終わりのような顔をしながらも尋ねるしかありませんでした。
無知を悟られてはマズいと悟っても、知らないものは知らないのですから仕方ありません。良くも悪くもここで嘘をついて後々首が締まるのは自分だと、この者は重々承知していたのです。
「ここはアストラル家の薔薇屋敷よ。分家とはいえ、私達も『
突き放すようにそう仰り、御嬢様はベッドの傍にあった椅子から立ち上がられました。
「ま、待っ」
「精々養生なさい。折角助けてやった虫が結局家で死んだんじゃ、ただの残酷な虫遊びだって結局アタシがまた悪者になるもの」
「が、頑張ります!! 全部頑張りますから!! ケホッゲホッ!!」
言い切る前に扉は閉まってしまい『蜘蛛』は上げるのもやっとの手をガックリとシーツの上に落とすしかありませんでした。
変に空気を吸って引きつった喉のせいで小さな咳を繰り返していると「ほらさっさと水でもやっときなさい」と外に控えていたであろう看護番の使用人にそっけなく言う御嬢様の声が遠のいてゆくのが僅かに聞こえておりました。
瀕死の身で助けてもらうためにあれこれと口にしたのも事実ですが、野垂れ死ぬところを救ってくださった御嬢様への報恩の気持ちは本物です。
なんであれ、この『蜘蛛』はフィラン・アストラル令嬢に命を救われたので御座います。『蜘蛛』は恩返しのことで頭がいっぱいでした。
「まずは回復に努めるしかないか…………」
弱っている蜘蛛はわざわざ思うだけでなくそう独りごちました。――というより、思った事がなんでもかんでも口をついて出てしまうのです。
自分の耳に届いたその声に感慨深い思いで、蜘蛛は痩せ細った指をゆるゆると動かしてカサついた唇をなぞります。
声か掠れて汚くて、動かす指の節々は軋んで、唇は皮も剥けて冷えている。
――御嬢様を見送り、部屋に入ってきた使用人はベッドの腕で静かに泣いている『蜘蛛』を見つけると、酷く気の毒そうな顔を致しました。
「大丈夫かい? 御嬢様に心無いことでも言われたかい? 気にするこたないよ。あの方の言葉がキツいのはいつもの事だから……」
「ち、違……違います……あの人には泣かされてません……」
命の恩人が完全に悪人扱いされ、『蜘蛛』は鼻を啜りながらそう言いました。
この『蜘蛛』がこの時に感じていたのは、至上の幸福で御座いましたから。
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