第2話 薔薇屋敷の憂鬱3

 およそ五年と少しぶりの戦友の帰郷にゲケルセンやチャースは熱い抱擁を贈りました。

 右膝あたりから義足になったそれを引きずり、右手に三本(中指と薬指と小指です)と左手に二本(親指と人差し指です)しかない手でしっかり友を抱き返し、ケロイドだらけで笑うと引き攣る顔にそれでも笑顔を浮かべ、マライグは「息災かね」と、こうガラガラの声で言うのでした。


「御嬢様はまた拾い物をしたとか」

「困ったものです。どんなに高いものでも道端のゴミでも、気に入ってしまえば絶対に手に入れたがります」

「拾い癖は父親似だ。となると我々もそう文句は言える身じゃあるまい」


 御嬢様の私室に向かう中、マライグとゲケルセンはこんな会話を致しました。


 マライグは扉の前に立ち、暫し耳を澄ませました。

 部屋の中は静かなものです。啜り泣きも聞こえやしません。さすがのヒステリックモンスターも精根尽き果てたとみえます。

 マライグはゲケルセンと目を合わせ、ひとつ頷いてから扉をノックしました。

 御嬢様からのお返事はありません。


「フィラン御嬢様、マライグです。入りますよ」


 そう告げて、マライグはゆっくりと扉を開きました。


「御嬢様!!」

「マライグ?」


 革張りのソファに逆さになり、背もたれに足をかけ、金糸を床へと垂らし、読書をしていたらしい御嬢様はゲケルセンの叱責も効かず、久しぶりに見る男に濃いクマの残る目をまあるくされたのでした。


◆◆◆


「拾い物の部屋が清潔になるとあなたの部屋が不潔になるシステムでもあるのですか!? 『蜘蛛』が回復すると御嬢様がお弱りにでもなりますの!? であればあんなものさっさと捨てて来なさいまし!! アストラル家の令嬢たるものが一体なんですかこの惨状は!!」


 とまあカンカンなゲケルセンをなんとか宥めて部屋から追い出し、マライグは御嬢様の私室に足を踏み入れました。


「いつ帰ったの?」

「つい先程ですよ。ご当主様から、可愛い娘の大ピンチだと報告を受けました」


 そう言いながらゲケルセンはソファに逆さまに寝転がっている御嬢様に、身を起こすように視線だけで窘めます。

 御嬢様は仕方なくソファからずり落ちて、皺だらけになったスカートを伸ばしもせず、ぐしゃぐしゃになった金糸を梳かしもせず、マライグのハグを少しの微笑を浮かべて受け入れました。


「お美しくお育ちになりましたな。御母上そっくりです」

「それはさぞかし美人ね」


 御嬢様は鼻を鳴らし、マライグから身を放し、そして名残惜しそうにまだ自分の肩に残ったマライグのそれぞれ三本ぽっきりの指に触れられました。わずかに残ったその指も付け根には痛々しい痕が残っております。

 労るようにその指先を握ってから、御嬢様は今度はソファにキチンとお座りになられました。

 マライグは向かいにある同じ形のソファに向かい、そこに無造作に山積みにされたお洋服や雑貨をポイポイと躊躇なく絨毯の上へ放り投げて、腰掛けました。


「さて、近ごろのご様子は如何ですかな」

「如何ですかな? 白々しい。お父様の差し金でしょう、どうせ!」


 御嬢様はマライグに尋ねられるなり、微笑を険しい面持ちに変えて足をお組みになります。


「最悪よ、最悪で最低。もうこの世は終わったの。アタシはこの部屋のカビになって死んでいくの」

「現実的に無理でしょうな。その前に使用人たちが何が何でもフィラン様を部屋から引っ張り出すでしょう」

「もしそんなことしようとしたら全員殺してからアタシも死ぬわ」


 御嬢様でしたらできない事もないでしょうが、しかし実際にそういう事までやるようなお人ではありません。マライグは百も承知ですし、御嬢様ご自身も自身の性分はお分かりになっています。

 ただどうにも投げやりで、できもせずやりもしない事をただつらつらとお喋りになっているのです。

 マライグは苦笑いを浮かべてから、ひとつ口を開こうとしました。しかしケロイドで引きつった口元が動くのを見た瞬間、御嬢様のほうが先に口を開かれます。


「もし、今のアタシに哲学めいたことを説こうとしたら許さないから」

「これは手厳しい……」

「説教も慰めも教訓もまっぴらよ。アタシの事を知りやしない他人に何言われたって腹が立つだけ」

「人から言われずとも十分ご自身でもう分かってらっしゃると」

「うるさいわね!!」


 ギィと御嬢様は喉を鳴らし、手元にあったクッションをマライグに投げつけました。

 彼はそれを避けもせず、顔面から受け止めます。その態度がまた気に食わず、御嬢様は歯噛みなさいました。


「じゃあこうしましょう。私は哲学めいたことを説かないために、質問だけしますから、御嬢様は好き勝手お喋りください」

「…………」


 マライグの提案に御嬢様はまた嫌そうに顔を歪められました。

 幼い頃から何度となくこの男の誘導に引っかかり、結局は哲学教室での尋問になった回数は数え切れません。

 しかし、御嬢様は大変おしゃべり好きな方でした。喜怒哀楽なんでもすぐに口にしたがるのです。しかしとりとめのないことほど喋りたがるような人ではありましたが、その御心全てを口にされるかといえばそうでもありません。貴族令嬢ですのでお立場やプライドもあっての事です。

 けれどもこのマライグであれば、もう使用人の立場を退いたただの流浪の旅人であるマライグであれば、多少の恥を口にしても問題はないかと御嬢様は必死に自分自身へと言い訳なさいました。

 やはりどうしたって、本当は誰かに話を聞いて欲しかったのでございます。


「いいわ」


 結局御嬢様はこう返事をなさいました。


「でも答えたくないことには答えない」

「もちろんお好きに」


 ふんぞり返った御嬢様にマライグは頷き、微笑しました。


「ここ最近のお気持ちは?」

「最低、最悪。この世の終わり」

「泣いたらおさまる?」

「全く。でも涙はおさえようとして零すものじゃない。アタシにとっては」

「今何をしたい?」

「何も、いえ、そうね」


 お嬢様は暫し考える素振りを見せてから、続けてこうおっしゃいました。


「神様になりたいわ。自分で好きに世界を作ってアタシが幸せになれるように整えてから生まれ変わる」

「ハハハハ」


 マライグは相変わらず大胆な御嬢様に笑い声を零します。

 いやしかし、最後に会って五年経ち学園をご卒業してもこの発想は如何なものでしょうか。勿論本気で神になりたいなどと言っているわけではないでしょうが、こうのらりくらりと喋られるのは御嬢様の特技であり悪癖で御座います。


「ねぇ、知ってる? 蜘蛛を助けると地獄から天の国へ行けるんですって」

「?」

「そういう話、聞いたことある?」


 マライグは暫し考えてから首を横に振りました。

 動物や虫に関する御伽草子はこの世に溢れておりますが、そういった話は心当たりはありません。

 彼はケロイドででこぼこした頬を三本の指で撫で撫で、尋ねました。


「それで『蜘蛛』を拾った?」

「答えたくない」

「ハハァ」

「うるさい!!」


 吐息を零しただけのマライグの顔面に二発目のクッションがぶち当たりました。


「善行をして気分は良くなった?」

「別に」

「一度も良くはならなかった?」

「まあ、かろうじて……拾ってやろうと思ったその瞬間くらいかしらね」

「それは良いものだった?」

「地獄の気分よりはマシ」

「地獄の気分からは抜け出したい?」

「そりゃそうよ、そうでしょうよ」

「アルアを拾った時の事を憶えていますか?」

「……――ええ、憶えてる」


 その名を聞き、答えるか答えまいか迷った素振りの後、御嬢様はそうとだけ答えました。


「その時、気は紛れた?」

「ええ、そうね……きっとそうだったかも」


 この時、御嬢様が何をどのようにお思い出しになっていたのかマライグに知る術は御座いません。

 しかし御嬢様はアルアの名前を聞いても、彼女を思い出しても、猛火のように怒りはしませんでしたから、屈辱から離れた何かを感じていたことに御座いましょう。

 御嬢様の瞳は暫し憧憬の色を宿し、しかしすぐによく浮かべてらっしゃる意地の悪そうな嘲笑に変わりました。


「結局、人間の命までも自分の都合の良いようにしてるだけの極悪令嬢ってことね。昔どころか、痛い目に遭った今も同じことをしてるってワケ!」

「まあそういう言い方もできるでしょうが、しかし」

「でもいいわ。ど~うせアタシは生まれた時から今までずぅっと性格が悪いもの。アルアみたいにね、生まれながらの良い子ちゃんにはなれないの。だから精々、同じことをしてやりましょう。自分に都合良く使わせてもらうことにするわ」


 皮肉な面持ちでそう言い切り、御嬢様はソファから立ち上がられました。

 そして足元にある本を器用に避けながら扉へと向かいます。アルアの時を思い出して、同じように心の痛みから逃避することにしたのでしょう。

 マライグは視線だけで御嬢様の背中を追い、記憶より背の高くなり伸びた背筋に声をかけました。


「確かにあなたは」

「質問だけじゃなかったの?」

「意地悪で強欲で恥知らずで無慈悲なところも御座いますが」

「喧嘩売ってるの!?」

「それでも善いことをした事実は消えません」


 その言葉に御嬢様はピタリと足を止めます。マライグは強がって強張っている背中を見つめたまま続けました。


「御嬢様にとってどんな理由だったとて、気まぐれだったとて、それを受けた者が善行と取るのならばそれは善行です。悪行が消せないように、善行もまた消せませんよ」

「哲学はキライ」

「生きるだけでどちらも積み重ねてしまうのが人間です。地獄も天の国もありません。ただ星に還るまでの間にそれを積み重ねるだけです」

「宗教もキライ」


 御嬢様はそう吐き捨てて、私室から出ていかれました。

 ――向かう先は使用人寮でございます。

 マライグはケロイドだらけの頬をまた三本の指で撫で撫で、疲れたような微笑を浮かべているのでした。

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