第2話 薔薇屋敷の憂鬱1


 さて、仰天したのはフィラン御嬢様にお仕えしている使用人共で御座います。


 まず始めに、御嬢様をお迎えに上がった馭者ぎょしゃの二人で御座いました。

 馬車の控え場で待ちぼうけをしていた二人はまずこう思っておりました。御嬢様は恐らく明け方だろうと。

 なんせ『もしかして朝帰りになっちゃうかもしれないわ♡ その時はそのまま待機しておくように』なぁんて浮かれきった恥も外聞もないお手紙が屋敷に届いていた程です。

 かといって学園が指定した時間にお迎えにあがらなければ、使用人としての質が疑われます。

 だのでこの二人は、今宵の為に随分と前から用意されていたドレスを着こなし、いつもの倍の時間をかけてお化粧をされ、その額にティアラを輝かせていつ帰ってくるとも知れない御嬢様を、馬車の中でうたた寝をしながら待っておりました。

 すると、突如馬車にバンと大きな衝撃が走りました。金持ちに妬みを持っている者か、はたまた酔っぱらいか。飛び起きた馭者達は懲らしめてやろうと馬車の扉を開け、あんぐりと口を開けました。


 ――そこに立っていたのは、髪もドレスも雨と泥で汚れきったフィラン御嬢様で御座いました。


 しかも、どこの者かも分からないやせ細った死にかけの人間を肩に担いで、普段は美しく真っ直ぐ揃えられている足を踏ん張るために大股に開いておられるのです。その泥まみれのスカートの広がりっぷりときたら、とても褒められたものではありません。


「帰る」


 御嬢様はヤスリをかけたような声で一言おっしゃいました。


「お、お、御嬢様」

「帰るって言ってんでしょ!! さっさと降りなさい!! アタシの席よ!!」


 金切り声があがり、馭者達は慌てて馬車から転がり出ます。そして慌てて踏み台を組み立てて馬車の前に起きました。

 御嬢様は痩せぎすの人間を抱えたまま、その段差を上がろうとするので馭者は「何をなさるつもりで」と思わず声をかけてしまいました。

 ギョロリと蛇のように御嬢様の瞳に睨まれ、馭者はすぐに口を閉ざします。これ以上何か言えば、鼓膜が破れかねないほど怒鳴りつけられたでしょう。

 御嬢様はなんとか『死体もどき』を馬車に乗せようと四苦八苦し、ただそれを見ている馭者達に「あんた達も運ぶの手伝いなさいよ!!」と叫ばれました。

 慌てて手伝いますが、鼻腔を突く悪臭に馭者はウッと息を詰まらせます。


「こ、この者は一体?」

「知らないわよ!!!」

「で、では何故」

「うるっさいわね!!」


 御嬢様は馭者の問いに取り合わず、酷く苛立った様子で自分も馬車に乗り込みます。清潔に保っていた馬車があっという間に泥で汚れて、悪臭が立ち込め、馭者達は目眩を憶えました。


「出しなさい」


 御嬢様が足を組むと、重たいスカートがぐしゃりと音を鳴らします。

 向かい側の座席に転がされた死体もどきは呻きもせずに、ピクリとも動きませんでした。

 この謎の人間については触れないにせよ、馭者達はまだ馬車を出すわけにはいきません。ひとりが恐る恐ると尋ねます。


「ア、アルアがまだ来ていませんが」


 御嬢様は実はこの日まで、『つぼみの学園』で寮生活を送ってらっしゃいました。本日がご卒業の日だったので、馭者達は数日前から馬車を飛ばしお迎えにあがったので御座います。御嬢様との再会は実におよそ百五十日ぶりでした。

 更には御嬢様のご生家があります茨薔薇ヶ丘いばばらがおかの方は、アストラル領地の中でも相当な田舎でして、いくら噂が俊足であれど、ここ十日程の出来事までは伝わらなかったので御座います。


 されども、まさか御嬢様が薄汚い死体もどきを連れ帰ると知る由もなかった馭者達ですが、何やらおかしな違和感は既に憶えておりました。

 卒業パーティーの間に彼らは、寮から事前に包まれた荷物を各々運び出しておりました。大きな鞄ばかりが六つ、七つとある中で、本来であれば一つだけ小さくておんぼろな鞄がある筈でした。少なくとも行きにはそれがあったのです。

 しかしそのおんぼろ鞄が見当たらない。さては御嬢様、ついに新しい鞄を与えてやったのかと馭者達は思い至りました。しかもどれがどれだか分からないくらい、高級な鞄をです。アルアの奴め、ツイているな。馭者達はこう思ったわけで御座います。


 ……しかしそのアルアの姿が見当たらない。

 いくらなんでも御嬢様のご機嫌が悪いというだけで、彼女をこのような遠い地に追いて帰るわけにはいかないと馭者達は恐る恐るその名前を口に致しました。それに彼らはワガママなご令嬢よりよっぽど優しい同僚との再会を待ちわびていましたから。

 しかし、その名前は今日の御嬢様にとって、最も聞かせてはいけない名です。


「ア?」


 血も凍らせるような御嬢様のその御声と表情に、馭者は馬車に飛び乗りました。

 アルアも子どもではありませんから、なんとかひとりでも屋敷まで帰ってこれるだろうと。

 ええ、馭者はそうして我が身惜しさに、結局は馬車を出発させたので御座いました。


◆◆◆


 さて、噂というのも種類によって足の速さが随分と変わるようで、御嬢様がパーティーで受けた屈辱は馬車よりも足が速いようで御座いました。悪い話が好きというのはでも同じようです。


 御嬢様の乗る馬車は故郷の茨薔薇ヶ丘いばばらがおか帰るまでにおおよそ十日を要しましたが、その道中の宿で馭者達の耳にもという話が入ったように御座いました。

 この速度ならば噂は彼らを追い越し、お屋敷に到着する頃には他の使用人共も状況を理解している事で御座いましょう。


「まさかアルアがマシレイ家の血筋の者だったなんてなァ……」

「フィラン御嬢様はきっと気がおかしくなってしまわれたんだ。だからあんな酷い拾い物をした」


 自分たちが仕えるご令嬢が大恥をかいていた事実も重苦しいものですが、しかして彼らがもっとゾッとするのは御嬢様が何日経っても拾ってきたを捨てなかった事です。

 フィラン御嬢様はご聡明で御座いますから、人命を救う手立ては知っておられます。命の危機にある人間を介護する術も学校できちんと学ばれております。

 しかし、、と、、では大きな違いが御座います。


『死体もどき』はこの十日間、ほとんど意識もなく夢うつつな状態でしたので、どこまで御嬢様がお世話をしてくださり、どこから馭者の二人に世話をしてもらったかを憶えていません。

 ただ時折、「臭いな」だとか「どうせすぐに死んじまう」というような男達の声を聞いたのはなんとなし記憶しております。

 馬車に揺られるのが辛くて胃液を戻した時には、御嬢様の「ウワ、最悪」という御声がした気が致します。慌てて馬車の窓を開けてらっしゃいました。

 疲れに掠れた視界の中、二枚の服が掲げられていたのも憶えています。「アンタどっちがいいの」と問われました。片方は恐らく御嬢様のお召し物で、もう片方は馭者の彼らが着ている使用人服でした。

 御嬢様のお召し物を着るのは失礼にあたるでしょうし、何より死体もどきはそういった動きにくい服を着る趣味はありません。ですので馭者のものを指差すと、男の嫌そうな唸り声が聞こえて、御嬢様は「なんか文句があって!!?」と叫ばれておりました。


 馬車がお屋敷に帰る頃には、案の定噂はしっかりと使用人達の耳に届いてようで御座いました。

 到着した夕刻、お屋敷の前で御嬢様をお出迎えするために数名の使用人と家政婦長のゲケルセンが肩を並べておりました。(このゲケルセンというのは年の頃は確かこの時、四十程だったかと思います。背こそ低いですが威厳のある女性で、存在感があるので実際の身長より大きく感じるのです。笑い皺より眉間の皺のほうが目立ちはじめているような人でした)

 馭者の顔が疲弊一色なのを見て、ゲケルセン達は馬車の中にいるであろうヒステリックモンスターが暴れて飛び出てくる覚悟を決めました。

 御嬢様は地獄耳で御座いますから馭者達はその原因が何であるかを説明する勇気はなく、踏み台を出しながらなんとか表情だけで皆に惨状を訴えようとしますが、勿論伝わるわけがありません。

 大恥をかいた御嬢様が修羅のような姿で降りてこられる想像ばかりが加速しておりました。

 ゲケルセンはオホンと咳払いをして、馬車の扉を開きました。


「おかえりなさいませ、フィラン御嬢さ……ヴッ!!?」


 扉を開けるなり広がる悪臭にゲケルセンは思わず息を止めて、眉間の皺を限界まで刻みました。

 死体もどきはお屋敷までの十日間の道のりの中、何度か濡れたタオルで身体を拭ってもらったりはしたのですが、意識も殆どないままでは湖に放り込むわけにもいきませんし、こんな得体の知れない人間を宿に上げてくれる親切な者もなかなかいない時世ですから、まあまだかなり……汚くて臭かったのです。

 ちなみに御嬢様もこの旅の間は人前に姿を現したがらなかったので(大恥をかいた後ですから人前に出て笑われるのを怖がられたのです)、ほとんど馬車に籠もりきりで御座いました。(ご令嬢が十日間も馬車に閉じ込められるなんてと思われますか? しかし御嬢様は野営などにも慣れておられますから大丈夫なのですよ。何故かってそれは、追々説明する時が来るでしょう)

 だので鼻はとっくに効かなくなっておりました。馬車にも臭いがしっかり移っていたでしょうから、お二人がどれだけ清潔にしたとしてもどうにもならなかったでしょう。


 馬車からのそりと御嬢様が出てこられ、悪臭に耐えながら使用人達は慌てて姿勢を正しました。


「御嬢様、この度は学園のご卒業まことに」


 普段は御嬢様にも厳しいゲケルセンもこの時ばかりは気遣わしげにお声をかけようとしました。しかし御嬢様はギョロリと瞳を血走らせゲケルセンを睨みます。ゲケルセンはこの時ばかりは反論もできず、口を閉ざしました。少しつつけば御嬢様は風船のように弾け飛んでしまいそうだったからです。


「…………」

「…………」


 恐ろしい沈黙に、唾を飲む音さえ立てられず使用人達の背は汗に濡れてゆきます。

 先に口を開いたのはフィラン御嬢様で御座いました。


「もしを話す者がいれば、どんな者でも屋敷から追い出してやるからね……、一言もアタシに向かって語らないで……。一言もよ!!」


 フィラン御嬢様からのご命令は学園生活に関して、特に『春の訪れ祭』のあったあの日全てに関して口にするなというもので御座いました。それは『死体もどき』についても当然含まれております。


 つまり御嬢様は――人生最大の屈辱を封じると共に、厄介事を持ち込んだ事への文句も封じられたわけで御座います。


 ただでさえヒステリックな御嬢様の張り詰めたピアノ線のような神経に、わざわざ触れようとする者はおりません。死体もどきの話題に触れれば、それは『春の訪れ祭』の話題を引きずり出してしまう。爆弾の導火線に火をつける真似は誰もしたくはありませんでしょう。


「ひとまず、コレをまともに動いて喋れるまでにしなさい」


 そう仰って馬車の中を示した御嬢様に、使用人達は息を止めながら馬車の中を覗き込み……そこにいる薄汚い人間に目を剥いたものです。


「御嬢様、コレは一体」

「……! ……!!」


 ゲケルセンは振り返り、お屋敷にズンズンと入ってゆく御嬢様の背に声をかけようとしましたが、馭者二人が慌てて身振り手振りで何も問うてはならないと伝えます。

 御嬢様はゲケルセンが何を尋ねたいかも分かっていらっしゃったでしょうに「お風呂!!」と叫んで、玄関に入っていってしまわれました。


「一体どういう事ですか? コレは一体何?」

「分かりませんよ! どこの誰かも……きっと乞食こじきか何かです! 御嬢様は何も仰らず、何も聞くなとそればかり……!!」

「アルアがいなくなったってんでにするつもりかも。きっと気がおかしくなってしまわれたんです。こいつを『蜘蛛』だとか仰るんですよ、だって」

「クモ? 虫の?」

「多分……」


 馭者達も殆ど何も知らないのだと知り、ゲケルセンは疲弊の溜息をつきました。

 ゲケルセンは馬車に乗り、中で意識を朦朧とさせている人間の様子を見ました。

 顎を掴んで左右にふり、額にべたべた触れ、口の中に手を突っ込み、服を引っ張って肌になんのもないかを確認しました。

 浮いた肋に眉を顰めつつ、ズボンを引っ張って中まで確認し、少しだけ目を丸めました。

 とりあえず間者などではなさそうかとゲケルセンは判断しました。どうみてもこの『蜘蛛』とやらは本当に瀕死なのです。生命エネルギーなど出涸らし程しかありません。

 いくらスパイ行為のためといえど、ここまで自分を追い込める者はいないでしょう。だって目を離して次に見た時には息絶えていたってそうおかしくはないほどでしたから。


 ゲケルセンは人情深い性格ではありませんが、目の前で人命が失われかけている時にどうにかできる手段を持っているのに動かないという程、冷たい人間でもありませんでした。何より、フィラン御嬢様の命令は大体において従わなければいけない立場です。


「チャースが帰ってきたら、コレを診るように言っておきなさい」


 ゲケルセンはは眉間の皺を指先で伸ばしながら、使用人のひとりにそう指示を出したのでした。



 チャースというのはアストラル家の薔薇屋敷にお仕えしている使用人で、年の頃はゲケルセンと同じ程で大変腕の良い女医です。

 使用人といっても彼女の主な仕事は医者としてのものが多く、住まいこそ他の使用人と同じ薔薇屋敷にある使用人寮でしたが、普段はお屋敷に怪我人や病人がいない限りは、町に赴いて町医者として働いておりました。


 この世界には貴族というのにもいくつか種類があるのですが、御嬢様のいらっしゃるアストラル家のように民を守り尽くす事を引き換えに縄張りテリトリーを持っている『七繋貴しちけいき』というものがあります。七繋貴についてもまた追々お話する事になりましょう。

 とにかく御嬢様のご家庭は、茨薔薇ヶ丘いばばらがおかに住む人々を助けて暮らすことが義務づけられており、使用人達の多くもお屋敷に仕えるだけでなく、ご命令があれば茨薔薇が丘の縄張り範囲では時に住民たちに従事しているのだと分かっていてくだされば今は結構ですよ。


 さて、町での往診を終えて、薔薇の咲き誇る丘の真ん中を貫く道を歩いて帰ってきましたチャースは、帰るなり重症の患者を抱えるハメになりました。

 生きているのが不思議なくらいに衰弱した『蜘蛛』は、しかし重大な病気や怪我をしているという事もありませんでした。ただ飢えと乾きに苦しみ、衰弱の極みにいるといった感じなのです。

 悲しい事に、そういった人間がいるのもそう珍しい事ではないのです。茨薔薇が丘は人口も比較的少ない田舎ですから平和なものですが、人口の多い都会のほうや治安の悪い方面なんかですと、七繋貴の手が届かず、冷たく過酷な環境で命を落とす者も決して少なくはないのです。

『つぼみの学園』も内部こそ華やかなものですが、学園のある都市は栄えと同時にスラムも存在するようなところです。

 御嬢様はそんなところから気まぐれに乞食を独り拾ってきたのだろう、なんとも困ったものだとゲケルセンとチャースは痛むこめかみをさすりました。



 遅い夕餉の場で御座いました。

 大きな長テーブルの端っこに所狭しと並べられたのは御嬢様の好物ばかり。不機嫌で帰ってくる事間違いなしの御嬢様に、少しでもお心を上向きにしてもらおうと料理人達が用意していたものです。

 御嬢様はひとつの笑顔も零さず、しかしもの凄い勢いでナイフやフォークを動かして切っては刺してすくって、野菜も肉も魚も、小さくぽってりとした唇を大きく開いて口に突っ込んでいきました。ヤケ食いというやつで御座います。

 ガチャン、パキ、カンッと、勢いを余らせて食器が鳴る度に、控えている料理人の肩が跳ね上がりました。その甲高い音が、御嬢様のヒステリックな叫び声と同じように感じられたからです。

 御嬢様にテーブルマナーを仕込んだゲケルセンも今日ばかりは叱る事はできません。それよりももっと言うべき事もありましたから。


「フィラン御嬢様、拾ってきたあの」

「向こうでの事は禁句よ」


 ゲケルセンが口を開くなり、御嬢様はガンッと肉を突き通って皿が鳴るまでフォークを勢いよく突き刺されました。

 料理人はもう顔も真っ青でいっそ意識を飛ばせればどれだけ良いかと思っていましたが、ゲケルセンは御嬢様に臆しはしません。(ゲケルセンが他の使用人と違いましたのは、大概皆は御嬢様が恐ろしくて何も声をかけられなかったのですが、ゲケルセンは御嬢様を慮って声をかけられなかったのです。ここには大きな違いがありましょう)


「わたくしがお話しようとしているのでは向こうの事でなく、”こちら”での”これから”の事でございます」


 ゲケルセンですってあの可愛いアルアが帰ってこないとなってかなりのショックを受けていたのも事実です。しかしフィラン御嬢様の事も、ゲケルセンはやはり少なからず可愛いので御座います。傷ついているというのなら、傷口に触れないようにしてやる心遣いくらいはしてやりたいのです。幼少の頃から手に塩をかけてお世話してきたのですから、情はあります。

 しかしゲケルセンは仕事人間でもありますし、またフィラン御嬢様を思ってこそ、完全に口を閉ざしはしませんでした。


「あんなものを拾ってきてどうなさるおつもりで?」

「死なせなけりゃなんでもいいわよ」


 御嬢様は全く興味もなさそうに言い放ちました。

 死にかけた命を助けるという善行は御嬢様の中で既に完了していたのです。

 ここでゲケルセンと同席していたチャースが口を開きました。


「簡単におっしゃいますが、あのように衰弱した者を回復させるのは簡単ではないですよ。極度の栄養失調ですし、意識も朦朧としています。筋肉だけでなく、視力も落ちていそうですし、意識障害だって残るかも」

「アタシの応急処置に問題があったと?」


 御嬢様はピタリと食事の手を止めて、剣のある言い方をなさいました。

 チャースは「いいえ、お見事でした」と言わざるを得ませんでした。確かに『蜘蛛』は御嬢様の手当てで、か細いながらも確かな生命エネルギーがその痩せこけた身体の中に問題なく循環していたのです。

 その循環のままに回復してゆけば、エネルギーが増大して無事回復を果たすでしょう。しかし、それをやるのが大変だとチャースは言いたいわけです。


「しかしこのまま放っておけばあの者は死にます。ちゃんと食事を与え、適切な運動と訓練を繰り返し、ある程度までは回復させないと結局は死ぬんです。ひとりでスプーンも握れないでしょうから」

「何か言いたいことがあるならハッキリ言ったら?」


 御嬢様はそうおっしゃいました。

 御嬢様とて勿論そんなことは百も承知なのに、子どもに言い聞かせるような口ぶりをしてくるチャースがその言葉の裏で何を考えているのか、分からない御嬢様では御座いません。

 そしてまた、ゲケルセンとチャースも御嬢様の魂胆は分かっていたからこそ、遠巻きにでも言わずにはおれませんでした。


「……誰かがの世話をしないと、いけませんよね?」


 チャースは結局、振り絞るように言いました。

 御嬢様は手に持っていたスプーンを皿の上にカシャンと置き、なんともわざとらしく考える素振りを見せてやった後に、チャースとゲケルセンを見ておっしゃいました。


「そうね」


 まさにその通りと、女優のように表情でまで大げさにそうして肯定したかと思うと、


「よろしく♡」


 ニッコリ笑顔を浮かべてそう言い放ち、またカトラリーを手にして食事を再開されたのです。

 しかしチャースは負けるわけにはいきませんでした。言葉を呑んでなるものかと捲し立てるうに喋ります。


「お言葉ですが御嬢様、私は町医者としての仕事もあります。あれの面倒を見る暇はございません。『お父様』から仰せつかった仕事のほうが優先です。分かりますね。それに、ここから必要なのは何も医者の手だけではないですから、ね、ほら、ね」

「……それもそうね」


 御嬢様が冷たい瞳ながらも頷かれるのでチャースはパッと表情を綻ばせます。

 御嬢様の視線が自分に向くのをゲケルセンは分かっておりましたから、甘い声をかけられるなりすぐに答えをお返ししました。


「じゃ~あ、ゲケルセン♡」

「使用人に余りは御座いません」

「チッ」

「舌打ちなさらない」

「チッ」


 言いきる間もなく断られ舌打ちをひとつ。注意をされまた舌打ちひとつ。

 御嬢様は二度舌を打ち鳴らしてから、またカトラリーを皿に軽く放り投げられました。


「使用人はアタシの命令を聞くのが仕事でなくて?」

「正しくはこの屋敷の当主であるお父様のご命令が一番です。次点で御嬢様、そして時には監督を任されております私も同等の権利を持ち得ております。御嬢様のご命令に正当性がない場合は却下する権利がこのゲケルセンにあるのはお分かりですね」

「アタシまだ何も提案してないけど」

「大方使用人の誰かにあの拾い物の世話をさせるつもりなのでしょう。なりませんよ。既に全員が仕事を任されているのです。忙しくなって屋敷を去られては困ります」

「タダで働けとは言わないわよ」

「そのお金はどこから? 御嬢様の勝手な行動で薔薇屋敷の帳簿の内容を書き換える事を私は許しません。ペンティカもそうでしょう」

「ペンティカ……」


 その名前をお聞きになり、御嬢様の顔が引き攣りました。ペンティカというのは薔薇屋敷でゲケルセンと同じような立ち位置の使用人ですが……彼については後々また機会があればご紹介しましょう。基本的に屋敷にいる事の少ない男です。(ひとつお話しておくならば、彼は先程説明したように屋敷内よりも外で人助けをする仕事が殆どであるということです)


「フィラン御嬢様――もう学園もご卒業なすったのです。学院の招集もいつ来ると知れないのです。いい加減大人になってくださいまし。御自身の行動には御自分のお力で責任をお取りなさいますよう」

「私があの『蜘蛛』の世話をしろっていうの?」

「小さなこどもだって自分が拾った虫を空箱にでも入れて育てましょう。……まあ何も世話をしろとまで言いません。アストラル家の令嬢がたかがひとりの乞食に時間を割かれてはこちらも堪りませんので。ですので、責任が取れないなら元の場所にでも……」

「十日かけて元の場所に戻すの?」

「領地外ほどで良いでしょう。それなら三日です」


 そのゲケルセンの冷たさといったら、先程まで御嬢様に向けられた同情の念すら奇跡のように思えてくるものです。

 厭味ったらしく口になさった御嬢様はゲケルセンが眉ひとつ動かさないのを見て、悔しそうなお顔をなさり、暫し沈黙なさいました。そしてこう仰ったのです。


「分かった。私のチカラでなんとかするわよ」


 ニヤリと笑う御嬢様が、まさか本当に御自身で拾い物の世話をするなどと勿論ゲケルセンとチャースは思いませんでした。

 だって御嬢様のその微笑は悪巧みのためにあるような微笑だったのですから。


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