第1話 散々たる『或る日』2
「なんでアタシがあんたなんかに話をしなくちゃいけないのよ」
御嬢様は小さなお鼻に皺を寄せてそうおっしゃいました。
目の前にいる死体もどきはどう考えても御嬢様と言葉を交わせるような身分の者ではなかったからに御座います。
しかしそれはこの時、御嬢様のお立場どころか自身の立場すら、何ひとつ分かってはおりませんでした。ですので、謙遜も遠慮もなく図々しく口を開き続けたのです。気力を振り絞って。
「話し相手とか……いなさそうなので……」
「い、い、いるわよそれくらい!! あんたにアタシの何が分かるのよ!!」
「話し相手がいる人は……こんな場所であんな風に泣かないと思ったんですが…」
「……!!!」
「意地悪オンナの話でも聞いてくれる人はいるんですね」
「誰が意地悪オンナよ!!!」
「ご自分で仰ってたんでしょう……」
お美しく着飾られたご令嬢が、この世の肥溜めのような場所で独りさめざめ……というにはやかましかったですが、泣いている。その姿はとかく哀れに思えたので御座います。
嬉しい死体もどきとは正反対に、御嬢様は言い返す言葉を失くしてぐっと口を噤まれました。
いつもならばもっと散々やかましく言い返す事もできたでしょうが、この日ばかりはそんなお元気もなかったご様子です。御嬢様にとって人生で最悪の日に御座いましたから。
結局見ず知らずの死にかけの人間と言葉を交わす程には、御嬢様は未だヤケクソだったので御座います。
「……ティアラを奪われたのよ」
誰かと言葉を交わせる事は喜びでしたが、喋る体力は殆どなかったものですから、視線だけで死体もどきは話の続きを促しました。
「学園卒業の……『春の訪れ祭』の志尊のティアラ……、アタシが貰う筈だったのに……!! あの小娘が!! アルアがティアラを奪って、王冠を戴くレエン様の隣に立った……!!」
御嬢様の言うことは多くの前提知識が必要なもので、死体もどきには彼女が何を仰っているのか正確には理解できませんでした。
けれどその言葉だけでも、なんとなく状況は推察できます。
分かった事は目の前のお嬢さんが恐らく学生のような身分を卒業するであろう事、それはなんらかの祭り事で、そこ贈られる筈だったというティアラを、アルアという少女が手にしたという事。そしてティアラの対は恐らく王冠で、それをレエン様とやらが手に入れたという事です。
「……よく分かりませんが……、どうやって奪われたんですか……?」
大体の状況こそ予想はつきましたが、そのティアラとやらが奪われたという話の肝についてがよく分かりません。死体もどきは尋ねました。
すると御嬢様は、ぐっと喉を詰まらせた後、絞り出すように口になさいました。
「と、投票でよ」
「投票……?」
「あ、あの小娘、周りを味方につけて票を得やがったのよ!! 地位を振りかざして、哀れな境遇で同情まで得て、手段を選ばず!!」
「…………」
御嬢様は言葉に詰まった分を取り返すように、息巻いてお喋りになります。
死体もどきは先程よりも、そのお話の飲み込みに少しの時間がかかりました。霞みかけた視界でぼやぼやと視線をうろつかせた後、肩で息をして怒りを抑えようとなさる御嬢様に言いました。
「よく分かりませんが……、その小娘とやらは……真っ当にティアラを得たのでは?」
「!!!」
「あなたが……人気がなかっただけでは……」
「うるさい!!!」
どうやら図星のように御座います。
甲高く一声鳴いた
「そもそもあの小娘はアタシの使用人だったの!! それを、いきなり尊い血筋だっただのなんだのでのし上がってきて……!! アタシはあいつをコキ使ってたって悪者呼ばわりよ!! 皆だって使用人をコキ使ってるくせに!!!」
ははあ、なるほど。と実際声に出すほどの気力は既にありませんでしたが、この死体もどきはしかし納得致しました。
起承転結もなっておらぬ破茶滅茶な語り口調でありますが、この泣き喚くお嬢さんの言うことを察するに、典型的なプリンセスストーリーが繰り広げられたわけです。
しかしながら、プリンセスというのはこのけたたましい声で騒ぐお嬢さんではなく、その元使用人のアルアとやらで、恐らくこのアルアというのが純粋で優しくて献身的で、おまけに処女なので御座いましょう。
「アタシの人生順調だったハズなのに……!! あんな恥かいて……もう終わりよ!! 明日から生き地獄よ!! いっそ本当に死ぬべき!? こんなところで見ず知らずの死体と一緒に!! 死ぬべき!!?」
「まだギリギリ生きてます……失礼な人だな……」
「ってな~~んでアタシが死ななきゃならないのよ!! 絶対絶対絶対返り咲いてやる!! 納得するもんですかこんな結果!! こんなとこで人生終わりにするもんですかーッ!! まずはあの小娘をなんとか引きずり落として……」
乾いた声はもう御嬢様の御耳には届いておりませんでした。ざわざわと憤怒と怨嗟がそのお体に湧き上がり、頭もお心も灼熱に攫われてゆきます。
仕方なし、また乾いた舌を動かしピチャピチャなんとか口内を潤してから、死体もどきは御嬢様が息を吸う瞬間を見計らい言いました。
「極悪人が地獄から脱出する方法を知ってますか」
「は?」と御嬢様は、もう何度目かも分からぬ音を零されます。
思わぬ声とその言葉に、噴き出しそうだった熱はさっと引きました。
「――蜘蛛を助けるんです」
「くも?」
今思えば、御嬢様にとっては全くもって訳の分からない話だったでしょう。
眉間に皺をお寄せになり、顔を顰められる御嬢様に死体もどきは続けました。
「地獄に落ちた極悪人は……かつて気まぐれで蜘蛛を助けたことを評価されて、天から降ろされた蜘蛛の糸を手繰って、天まで登ってゆけるんです」
多少語弊こそありますが、いつまで自分の話に耳を傾けてくれるか分からぬ相手ですし、何より喋り続けるだけの気力も体力もそう残されてはおりません。
「……なあにそれ、おとぎ話?」
「そんなようなものです……」
「……蜘蛛を助けただけで『天の国』へ行けるっていうの? 蜘蛛の糸なんかで?」
「まあまあ……地獄に落ちたあなたは……縋る藁もなさそうだ……今は蜘蛛の糸ですら掴みたいのでは……?」
「…………」
死にかけの身体、落ち窪んだ目元にハマった目玉二つ。それだけが闘志を燃やしているのを、ぢ……と御嬢様は見つめられました。月明かりを受けて、きらきらと輝いております。そこにだけは確かに死とは縁遠いエネルギーがあったのです。
勿論、御嬢様は死体もどきの意図を悟られておりました。
「それで、アタシに”蜘蛛”を助けろって?」
「私は死にたくないんで……、本当の地獄に行くなんてゴメンなんです。……今私を助ければあなたは命の恩人だ……。――この蜘蛛は全力で恩返ししますよ……」
「…………」
「あなたを必ず天上へのしあげます」
月明かりに輝いていた瞳の奥で、ギラギラと地獄の炎のように燃え上がる猛火の如きエネルギーを見て、御嬢様は更に瞳を細めて、そして口角をあげて笑いました。
「くだらないわ。なんの地位も力もない蜘蛛一匹助けたところで何になるのよ」
先程まで孤独にさめざめと泣いていた姿とは違い、その微笑みは絶対的強者のもので御座いました。目の前の命が自分の手によってどうとでもなる、ひとりの人間の世界を終わらせることが造作もないとよくお分かりになっているのが、よくよく伝わりました。
それ以上命乞いをするでもなく、蜘蛛を名乗った人間はただひたむきに御嬢様を見つめておりました。絶望も恐怖も、その瞳には御座いません。だけれども、流石に炎も燃え尽きようとしております。
御嬢様は消えゆく炎を暫し眺め、天を仰がれました。
雨雲が去り、遠い遠い天には美しい星々が瞬いておりました。まるで、おいでおいでと呼ぶように。
「……どうするの、フィラン」
直になんの熱もなくなるであろうその瞳と空を交互に見比べ、御嬢様はガシガシと乱れた髪をかき乱します。
そして苛立ちのままに、今にも死にかけている人間におっしゃいました。
「『天の国』なんて、あるかも分からない。あんたの言う事なんてなんの意味もない」
口早にそうおっしゃった後に、御嬢様は苛立ちを抑えるために大きく息を吸われて、そしてもう一度「どうするのフィラン・アストラル」と御自身の名前を呼ばれました。これは御嬢様の癖で、御嬢様はご決断を下される時に内なる御自身に呼びかけられるのです。
どんな御声が聞こえたのでしょうか。御嬢様は本当に本当に嫌そうな顔をしてから、観念したように何度か頷かれました。
「――でも、そうね。最高にミジメな日に、少しくらい善人ごっこをしてもいいのかも。丁度使用人も最低なハプニングでいなくなって困っていたところだし……あんたを助けたことを慰みに生きるのも悪くないかもね。アタシにもマシなところがあるって、死にたくなった時に言い訳するために」
御嬢様はすっくと立ち上がられますと、泥と雨で重たくなったスカートを引きずり、死体もどきのすぐ側にしゃがみこまれました。
顔を覗き込まれ、死体もどきは御嬢様の瞳がギラギラと輝くのを間近で見つめました。それは確かに、自分の中で燃える炎と同じ輝きを放っているのです。
御嬢様は死体もどきの手首を掴みました。薄汚れた肌と鼻腔を突く酷い悪臭に遠慮なくえずき、しかしその手は決して離さず、自分の肩へと回されました。
無理やり立たせてみれば御嬢様より頭一つ分は身長が高かったらしい死体もどきは、しかし驚くほどに軽く、御嬢様でもなんとか引きずってゆく事ができそうでした。
「ありがとう……この恩は必ず返します……」
すぐに打ち捨てられる可能性もあるというのに、蜘蛛と名乗った人間は自分の命が救われたも同然のように礼の言葉を口にします。
御嬢様は鼻を鳴らされました。このようにやせ細って自分で立てもしない、何の持ち物も持たない存在が、自分に何かしてくれるなどとまるで思ってはいなかったのです。
「バカね。蜘蛛が同じ地獄にいちゃあ、糸を垂らしようもないじゃない」
返事はありませんでした。安堵で気が抜けて、意識を飛ばしてしまったからで御座います。安心しすぎて、危うく意識どころか命まで放り投げてしまうところだったように思います。
御嬢様は片足に残っていたヒールを乱暴に脱ぎ捨てますと、薄汚れたスラムを歩き出されました。
――このようにして御嬢様が、一匹目の『蜘蛛』をお助けになったところから、お話を始めましょう。
これより始まりますは、フィラン・アストラル様の物語。
蜘蛛一匹を救ったその慈悲の心から始まる、御嬢様の再生のお話に御座います。
どうぞ最後までこの蜘蛛の事は気にかけず。
この物語はあくまで御嬢様のものなのでございますから。
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