ヴィラン令嬢の蜘蛛
光杜和紗
第1話 散々たる『或る日』
ある日の事でございます。
水たまりの中に映るお祭りで飾られた
しかし
誰が着るよりも高級で質の好い
華々しい日になるはずでした。いえ、確かに華々しい日にはなりました。御嬢様以外にとって、となってしまいましたが。
そう、本当ならば御嬢様は今日が人生で最も華々しい日になると信じてやまなかったのです。美しく飾り立てられ、憧れの殿方の隣に立ち、その額には美しいティアラを戴く予定だったのです。
そう、そう、
蕾達が集まる学び舎の、その卒業の日に最も秀でた男女に贈られるその対の権威が、御嬢様はかの方と自分のご額に輝かれると信じてらっしゃったのです。
だというのに、どうしてこうなってしまったか。御嬢様は今、華々しい卒業パーティーの会場から逃げるように、いえまさに逃げるために走っているのに御座います。
いつもは余裕と自信に満ちていた勝ち気なお顔は怒りと悲しみでぐしゃぐしゃと歪んでしまっているのです。
星を隠す暗雲は御嬢様を追いたて、眩い月をとっくに覆い隠し、冷たい雨を降らせながら御嬢様の行く先までも追い越してゆくのです。
まるで御嬢様の未来を暗示し、御嬢様の心そのもののように。
「あううっ、えぐっ、ひぐぅんっ、ゔぁううう……!!」
天から地に雨粒が落つるより早く、両目から大粒の涙を落としてひたすらに走られる。
華やかな祭典の場から飛び出してきたであろう高貴な出で立ちの少女の姿に、街の人々は訝しげな視線を向けるばかり。
あんなにも着飾っているのに惨めったらしいあの女は一体どこの貴族の娘であろうかと、遠巻きに我関せずといった距離を保ちながらも、その顔だけは一目見てやろうとしているのです。
中にはクスクスという笑い声も聞こえてくる始末。それは御嬢様の専売特許のような笑い方でしたのに。
御嬢様はこれ以上の辱めがまだ存在するのかと半ば悲鳴のような泣き声をあげて、人目を避けるために路地裏へと入ってゆかれました。
昼時も薄暗く、常に人気のない路地裏。しかし祭りの夜だからか物陰では二人きりの時間を楽しんでいる男女もいたようです。
仲睦まじく抱き合っている幸せそうな彼らに鉢合わせ、御嬢様はますます惨めな気持ちを味わわされました。
「なぁにこの子」
「なんだよ、混ざりたいのか?」
女の冷たい声音と男のからかいの言葉。
「……!!」
恥辱に顔を真っ赤に染め、御嬢様は二人の間をぶつかりながら通り抜け、人気のない場所を探してまた走り出されます。
「なんあのアレ」と背後から追いかける軽蔑の声も振り払い、御嬢様は舗装のなっていない階段とも呼べない段差を下ってゆかれました。
……そもそも御嬢様の履かれる御靴はこのような場所を歩く事を想定し作られておりません。彼女の背丈を十センチ伸ばす細い棒は、簡単に雨で泥濘んでしまった石段もどきの隙間に挟まれました。
「ひぎゃあっ!!」
前に出るはずの足が前に出ず、次の瞬間には薄汚い段差から転げ落ちてゆく。
動揺してらっしゃったために受け身を取ることもできず、ご自慢のドレスはいよいよ全てが泥に塗れ、擦り切れ、破れてしまいました。
これもまたご自慢の引き締まってすらりとした手足も擦り傷だらけ。ひりひりと痛むのはお体の傷か、心の傷か。熱を持つのは傷口と目玉です。熱湯にも思える涙が枯れることなく、紅もすっかり取れて絶望で青白くなってしまった頬をつたいます。
「い、痛い……! 痛い、なんなのよ、もう……!!」
御嬢様はがばりと起き上がり、ヒィヒィと喉を甲高く鳴らされました。
その金切り声は賑やかな祭りの音にかき消され、誰の耳にも届きません。
届いたとて、誰も助けになんてきてやくれなかったでしょう。御嬢様がお怪我をなさったところで、もう誰も心配などしてくれない。
御嬢様はそれが分かっていらっしゃった。
「なぜ!? なんでアタシがこんな目に遭わなくっちゃならないの!?」
少なくとも今この瞬間、スラム街に差し掛かった路地裏で、誰の目にも留まらぬ彼女はただただ無価値な存在であったのかもしれません。
「あの女……!! あの女が……!!」
御嬢様の瞳にちらちらと憎しみの炎が輝きます。
転げ落ちた時に脱げたヒールを拾ってくれる方はおりません。ご自身でそれを鷲掴み、怒りのまま投げ捨てようと振り上げられる。
「あの身の程知らずの小娘が――!!!」
しかし、その手はピタリと糸でも絡みついて雁字搦めにされたように止まりました。
――あの女。あの清楚で可憐で誰にも親切な天使のような少女!!
そいつが今、自分の憧れ続けた場所に立っている。あの女がかの方と隣り合い、皆に祝福されるその光景は、まさに憧れ続けた御伽草子そのもので御座いました。
前代未聞の展開で御座いました。されど、誰もがその結果に納得いったという面持ちでした。少なくとも、御嬢様があそこに立つよりは喜んでいる様子だったのです。皆、御嬢様をいい気味だとでも言うような目で見ていたのです。
「…………ッ」
――身の程知らずだったのは、ひょっとして……。
御嬢様はようやくお気づきになられたのかもしれません。しかし決して認めたくはありませんでした。なので脳裏に過ぎった答えから目を逸らす為に、立ち上がられます。崩れ落ちてしまえば二度と立ち上がれなかったかもしれません。ですが御嬢様はどんな絶望的な状況でも立ち上がる気概があられるのです。
しかしそのような御嬢様の美点をもってしても、御嬢様御自身の心の暗雲を晴らすには至りません。ぎゅっと目を閉じれば、だばりと涙はまだまだ止めどなく流れてゆきました。
「……どうせアタシは意地悪よ!!!」
ヒールが足元にポトリと落ちます。
御嬢様はヤケクソになって叫び散らされました。
「純粋でもないし、優しくもないし、献身的でもないし、処女でもないわ!!!」
憧れたおとぎ話の中心に立つ少女の条件を何一つ果たしていない。
御嬢様はそれを本当はとっくに気がついてらっしゃったのです。
「そうよ!! アタシはお姫様じゃなくてどうせ悪者よ!!!」
とうの昔に気がついていた。気がつかないふりをしていただけで。
物語を読み返す度に遠い存在だと憧れを抱かれると共に、理解してしまうのは自分といかに異なる存在であるかということ。
「けど、資格なんてないなら……!!! ただの夢物語なら……!!」
喉が裂けんばかりの悲痛なお声は、祭りの音が随分遠のいた人気のない路地裏に響き渡ります。
「最初からそんなもの見せないでよ!!!」
ついには地面に転がった泥まみれのヒールの真横に伏せ、御嬢様はわーんわーんと泣き喚かれました。
このようなお姿だけ見れば御嬢様はとても哀れな娘だったでしょうが、もしこの場に誰かがいたとしても果たして同情を得る事ができたかは分かりません。
助く者がいるとすれば、御嬢様を持ち上げて損はないアストラル家の関係者でしょう。
しかしながら――この時、御嬢様に声をかけたのは、この時まで全く持って御嬢様に関係のない存在で御座いました。
御嬢様がその声に気がつかれたのは、頭上の暗雲がゆっくりと去り、お声がほとんど枯れ果てた頃で御座います。
と申しますのも、それは御嬢様がお独りで泣かれているところを最初から見ておりましたし、お声も何度かお掛けしてはいたのですが、まるで錆びきった包丁を研ぐような音が喉からひっきりなしに溢れるばかりだったのです。
声とも呼べぬ奇妙な音でこそありましたが、雨音も泣き声も遠のき、それはようやく御嬢様の耳に届きました。
御嬢様はすぐ横にある路地裏とも呼べぬような狭い暗がりから、空気の滑る音を確かに聞きとってくださったのです。
古ぼけた家と家の隙間。そんなところを好んで通るのは猫か冒険好きで身の程知らずの子どもくらいなものでございましょう。――しかし、そのどちらでもないそれはそこにいたのです。
この頃には御嬢様の腫れた瞳は眩い祭りの輝きも忘れ、すっかり薄汚い路地裏の暗闇に馴染んでらっしゃいました。
ですので、御嬢様は確かに見つけてしまったのです。
暗闇の中から浮き上がる、真っ白でガリガリの人間の腕を。
「ヒ……!!」
御嬢様は恐怖に息を飲み、尻もちをつかれてそのまま泥も気にせず後ずさられました。
その時、月にかかっていた最後の薄暗い雲がようやっと去り、彼女達の元に僅かな月明かりが差し込んだのです。
骨と皮だけ……という表現は些か誇張しすぎていますが、少なくともこの時のそれは生きているのが不思議なほどに痩せこけて、そこに転がっていたので御座います。
御嬢様は息のあるそれを見てその事実に仰天したすぐ後に、いやきっとこの人間はもうすぐ死ぬだろうと思われました。動く気力もなさそうで、
仰向けに転がっていたその人間が、落ち窪んだ目元の中心にある目玉でジ……と御嬢様を凝視しております。
破れた隙間から見える浮いた肋骨、ガリガリの胸が僅かに上下しており、ボサボサの長い銀色の煤けた髪が雨雲を追い払った風でゆらゆらふわふわ綿埃のように動きました。
すっかり泣きつかれていた御嬢様は、目の前のこの人間とも呼んでいいかも分からない死にかけのそれが、自分を襲うような力はないことに気がつくと、途端にどうでも良くなりました。
いえむしろ襲って来られようと自暴自棄でどうともしなかったかもしれません。いえいえ、残念ながらそのように潔い性格では御座いませんでしたね。御嬢様も御自身でそれを分かっていらっしゃったので、己の意地汚さを鼻で笑いました。
「――すよ」
「は?」
乾いた皮の浮いた唇からやっと何やら明確に音が聞こえ、しかし言葉までは聞き取れず御嬢様は反射的に声を返してしまいました。
もそもそと血の気のない唇の向こうで舌が蠢きます。ピチャピチャの音を立て、口の中を湿らせたので御座います。
「あんまり……処女じゃないだのなんだの……年頃の女の子が……騒ぐものじゃないですよ……」
「は?」
御嬢様はまたも同じ音をその唇からお零しになられた。
言葉こそ理解できても、状況も意味も理解できなかったので御座いましょう。
目の前の死体もどきは彼女が思ったより知性のある喋り方をしましたし、すぐそこに死神がいるであろうに全く関係のないことを話しましたし、それはとんでもなく余計なお世話だったでしょうから。
「う、う、うるさいわね!! 今日は人生最低最悪の日なのよ!!! 終わりなのよアタシの人生!!! お淑やかになんてしてられるわけないじゃない!!!」
ご自分の叫びが他人に聞かれていたのだと知り、血の気のなかった御嬢様のお顔はじわじわと羞恥で健康な色になり、そしてあっという間に熱を持った真っ赤なものになりました。散々泣き叫んだために、ガチョウのようなガラガラのお声で叫ばれます。御嬢様はヒステリックな、あまり褒められたものではない一面がおありなのです。
死体もどきが煩わしそうに僅かに薄い眉を寄せ、疲れきったように目をゆっくりと閉じました。
死んだか、と御嬢様は思われました。しかし薄っぺたな胸はまだ上下しております。
「聞きますよ……話……」
「は?」
またも聞こえてきた掠れた声に、御嬢様は三度目の音をあげました。
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