第4話 恭太の部屋で

「はい、どうぞどうぞ。入って入って」

「お、お邪魔します」


 ホワイトデー当日である。

 真知子の仕事帰りに外で軽く食事を済ませ、そのまま部屋へ招待した恭太は、内心「本当にこれで大丈夫だろうか」と思いつつも、緊張のあまりに身を強張らせている彼女の背中を押した。頼むぞ、おばちゃん達。


 これまでデートといえばもっぱら真知子の部屋だった。それかもしくは外である。だから、自室に招くのは今日が初だ。一応、常日頃から整理整頓を心掛けているため、急な来客にも対応出来るだけの状態ではある。よほど念入りに捜索でもされなければ、見られて困るようなものは出て来ない。


 築三十年のアパートである。

 壁も薄いし、正直に言えば狭い。

 間取りは1DKだ。

 備え付けのクローゼットと、簡易的なデスク。それから、セミダブルのベッドと、ロータイプの本棚が一つ。壁には折り畳みのテーブルが立てかけられている。


 全体的にこざっぱりとした部屋である。


「何もねぇって思っただろ」

「何もない、というか。きれいに片付いてるな、って。私、男の人の部屋って散らかってるイメージしか」

「他の男の部屋、入ったことあんの?」


 彼女の口から出る『自分以外の男の存在』をほのめかす言葉に、つい気が焦る。真知子だって三十二である。男の部屋に入ったことくらい、あるだろうに。


 恭太の声に、弾かれるようにして振り向いた真知子は、顔を赤らめて「違うんです」と手をばたつかせた。


「弟! 弟です! 義孝よしたかの部屋ってほんといつも散らかってて。服もあちこちに脱ぎ捨ててあったし、雑誌やら何やらですごかったんです!」

「え、あ――……、そう」

「母が気を利かせて片付けようとして、ものすごい大喧嘩になったことがあって。思春期ですし、そりゃあ見られたくないものだってありますよね。でも、ほんっっと、見過ごせないくらい散らかってて、それで、それを思い出したというか! ですから、あの、男の人の部屋なんて言いましたけど、実際は義孝の部屋しか――あっ、あとは父の部屋くらいしか知らないです」


 口数の減った恭太を気遣ってか、あわあわと説明をする真知子を見て、自分の狭量さにほとほと嫌気が差す。


「いや、ごめん。いまのは俺が悪かった。ほんと」

「いえ、しら、恭太さんが悪いわけでは」

「良いって良いって。マジで。それよりも、えっと、適当に座って。いまコーヒーでも淹れるから」

「は、はぁ……」


 この部屋で『適当に座ろう』と思えば、ベッドに腰掛けるか、デスクの椅子に座るか、床に座るかだ。選択肢があるにはあるが、いきなりベッドに向かうのはさすがに誤解をされそうだし、一脚しかない椅子を借りるのも気が引ける。となれば床一択である。だから真知子は、何も敷かれていない、座布団すらない冷たい床に正座をした。


 ほどなくして両手にマグカップを持って現れた恭太は、床の上に背筋を伸ばしてきちんと正座をしている真知子を見て、「ちょ」と声を上げた。


「いやいやいやいや! 足崩しなって」

「え? あ、はい」

「ていうかさ、いや、ごめん、座布団くらい用意しとけば良かったな」


 そう言いながらデスクの上にマグカップを置き、これも先に出しておくんだったと小さく後悔しつつ、立てかけていた折り畳みテーブルを出す。


 手の中に握りしめていたミルクと砂糖も添えて、どうぞ、と勧めた。かき混ぜる用のスプーンはカップに突っ込んである。いただきます、と受け取った真知子は、パキ、とポーションタイプのミルクをカップの中に投入しながら、「他の方はどうしてたんですか」と何気なく尋ねた。恐らくは、たいして深い意味もなく。招かれた人は皆、自分のように床に座っていたのだろうかと。他に何か方法があったのなら、参考にするつもりで。本当にそれくらいの気持ちで。


 が。


「っと――」


 その場にしゃがみ込み、気まずそうにベッドの方に視線を泳がせ、答えに詰まる恭太の顔を見て、気付く。


 この部屋に来るものといえば、女しかいない。それも、、だ。だから、どこに座るかなんて考えたりしないのだ。きっと、常にベッドの上だっただろうから。


「っす、すみません! 私ったら、デリカシーないですね! ほんと! もう!」

「いや! なんていうか俺の方こそ! あの、マチコさん」

「な、何でしょう。あの、私、全然気にしてませんから、そういうの。し、恭太さんがめちゃくちゃモテてたのは知ってますし、あの、わかってますから」

「いや、まぁそうなんだけど。あの、買い替えたから!」

「……はい?」

「ベッドは買い替えたから。寝具だけじゃなくて、ベッドごと」

「えっ、わざわざ」

「これは、無駄遣いじゃないから」

「でも、結構な出費で」

「無駄遣いじゃない」


 テーブルの上のマグカップに添えられている手に触れて、「そこは嫌がってよ」と声を絞り出す。


「他の女と過ごしたベッドで抱かれたくないって、思ってよ」

「それは、あの、思い、ますけど」

「だったら言って良いんだって、そのまんま」

「でも、そんなわがままで」

「それはわがままじゃない。俺だって嫌だ。ベッドを捨てたからって過去はどうにもなんないけど、でも、せめてそこだけは真っさらにしたかった。マチコさんは無駄な出費って思うかもしれないけど、俺はそうは思わないから」

「あの、でしたら、私にもいくらか払わせてください」

「え」


 依然としてマグカップに添えていた手を離し、控えめに触れているだけだった恭太のそれを取る。


「こ、これからはその、二人で使う機会もあるでしょう、から、と言いますか」


 一言一言吐く度に背中が丸まり、それに伴って小さくなっていくその声を聞き漏らすまいと、顔を近づける。


「そのっていうのは」


 期待を込めて話す声が震える。


「この後も、って思って良い?」


 昔の自分なら、そんなことをいちいち確認したりしなかった。女は常に期待に満ちた眼差しで、各々の考える、「男をその気にさせる」恰好だったり、言葉だったりで彼を誘ってきたし、彼はそれに乗るか乗らないかを選ぶだけだったのだ。それがいまや、祈るような気持ちで、彼女からの返答を待っている。


 俯いたままの真知子の頭が、こく、と微かに動く。

 

 肩を抱き寄せようと、取られた手をほどこうと思ったが、真知子はそれをさせなかった。うんと小さな声で「そのつもりではいるんですけど、もう少しだけ待っていただけますか」と呟く。てっきりこのままもつれ込むのかと思っていた恭太からすれば少々残念な展開ではあるものの、彼女がそうしたいのなら、尊重するしかない。何せ、まだそう経験があるわけでもないのだ。


 ならば先にホワイトデーのお返しを、とわずかに腰を浮かせた時だった。ぎゅ、と手を強く引かれ、立ち上がるのを阻止される。


「あ、あの、足が、痺れてて。その、ごめんなさい。ちょっとの間だけで良いので、動かないでいただけると、その、助かるんですけど」


 と、真知子は顔を上げ、必死な声でそう言った。


 そして――、


 明日絶対座布団買ってこよう。


 恭太はそう固く決意した。

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