死際に贈る『POISON』を。――バレンタイン短編

森乃宮伊織

死際に贈る『POISON』を。

太陽の光は手の届かぬ西まで沈み、やっとの思いで漏れ出る橙色をすくったその手の内で、俺たちは操られていた。

 『2月14日』という何ともない特別な日に……。


――――――――


 寒さに弱い人間がただでさえ浮つく冬。

 水素をふんだんに詰め込んだ風船のごとく、ある者は恋人と、その他の者は落ちこぼれた仲間たちとイチャイチャコラコラしているのを見せつけられて、その日は普段以上にさぞかし不快極まりない形相をしていたことだろう。

 そんな僕とて、彼女の1人や2人はいる……と、人生で1回は言ってみたいものである。と、言うことは、まあその通りだ。

 

 そもそもなんだ。

 所詮バレンタインなぞ、一聖職者が殉教した平日に過ぎない。

 それをお菓子メーカーの『バレンタイン商戦』に引っかかって、あれよあれよという間に『恋人の日』に仕立て上げたあげく、年々男子の間での戦いはデッドヒートを繰り広げている。

 結論、無意味だ。


――なんて敗者の意見は、愛情の籠もったチョコレートを大切に大切に守り抜くもクルクルクシャクシャにしてポイッと捨てられるアルミホイルと同等である。もしくはそれ以下である可能性も否定できないのが我々の宿命だった。


 いつもは終業のチャイムと同時に教室を全力疾走で駆けだしていく勤労学生もバレンタインデーだけは休みを取ったのだろうか、スマホのメッセージを目で執拗に追って、ニヤニヤしている。テスト期間中も日本国の産業発展のために労働を担い、多額の税金を納めている彼を感服していたクラスの全員が彼のその不気味な顔を見ればさぞかし幻滅することだろう。


 誰1人として動こうとしない桃色の教室を飛び出すに当たって、「少し気づいてもらいたい」という、何とも無意味でアホらしい考えのもと、椅子をバーンと後ろに下げ、ドスドスと教室を歩き回り、ドアを爆音で開け放し、丁寧に閉めるも、クラスメイトは一向に顔を上げない。スマホの向こうの可愛い可愛い恋人がそれほどまでに大切か。

 何に負けたのかわからないが、とてつもない屈辱感の沼から抜け出せなくなってしまった。


 『場の色』はそこにいる人によって変化する。

 人の集まる教室が鮮やかな暖色だとすれば、閑散とした特別教室などは寒色系なのだろう。そして無論、人なく日もない昇降口は『黒』と言える。場の色は心の色までをも表すのだ。


 昇降口付近は校舎によって太陽が遮られ、周りに植えた草木が軒並み倒れていくのを不思議に思っている理科教科担任を心の底から軽蔑している。

 死んだ枯れ木の匂いを含ませながら流れてくる空気は、道中日陰で暖かさをそぎ落とされてやってくる。全開の玄関から入ってくる冷ややかな風が体に巻き付き、身震いする。軒先の巣からぴょこんと顔を出すツバメを、あまりの寒さから勝手に校舎内に避難していた猫がよだれを垂らしつつ見つめる。まだ早い春らしき光景に多少荒ぶっていた心が落ち着く。

 

 猫から目を離さないように体をねじって左手で靴箱を開けると、後ろのふくらはぎにひらひらと舞った何かの角が触れた感覚を感じ取った。判断を委ねられた脊髄は猫との睨み合いを放棄し、考える間もなく振り返って手が伸びていた。

 そこには一通の手紙とおぼしき封筒が落ちていた。


『4階の空き教室に来てください。渡したいものがあります』


 足は考えるよりも先にきびすを返していたのだった。


――――――――


 無雑作むぞうさに置かれた数多の机のなか、西日が差して燦然さんぜんと輝く少女の姿があった。扉を開くと数秒してから彼女はゆっくりと振り返り、ようやくここへ呼び出した人物がわかった。

 視界一面は橙の海に染まり、そこに1人ぽつねんとたたずむ幼馴染み。

 彼女は固まった顔にやや微笑みを浮かべて、静かに手招きする。

 冬の澄んだ空気を掻き分け掻き分けたどり着いた陽射し。純粋無垢の権化と言えよう黒髪清楚の少女とそれを取り巻くほこり1つ感じない透明な衣が夕日の廃教室に映える。

 

 片手分の距離を保ったまま、向かい合う。

 顔なじみとはいえ、幼馴染みともいえ、に人のない場所に呼び出すことがあるか。男子である以上、そして相手が女子である以上、お年頃の桃色の頭で考えられることはこれしかない。もしこれがではないのならば、ひとりぼっちの当てつけでしかない。

 

 極力顔には一切の表情を出さずに、それでいて至って冷静を装いつつ、止まった時計の針を少しずつ動かす。


「どうしたんだい、お嬢さん」


 我ながらクサいセリフをよく堂々と、しかも無表情で言えたものだ、と思った。ただその時は『酔い』よりも強いなにか『バレンタインパワー』めいた空気が背中を蹴ったのだろう。もしくはこの空気に、雰囲気に、彼女に酔っていたかのどちらかだ。


 その言葉に顔を上げた少女はズカズカと近づき、開けておいた距離を詰める。いや、「突進」とでも言うべきか。

 「前ならえ」がちょっと近づいて「小さく前ならえ」になり、そうこうしているうちに目と鼻の先まで迫ったとき、胸に強い衝撃が走った。

 

「――んっ」


 艶やかな唇から漏れる甘い声と小突かれる胸に引かれるようにして視線を落とすと、頭1つ分違う華奢な少女とその小さな手には可愛らしい包みが握られている。

 状況を掴めずにぼーっとしていると何度も「ん、ん、ん」と、決して厚いとは言い難い胸板に小包が押しつけられる。考えずとも脊髄が手を動かせば、ゴツゴツした男くさい手に重みを感じる。彼女はすぐさま後ずさり、またもとの距離を保つ。


「……きょっ、今日、バレンタインだし、どうせ1個も貰ってないんでしょ。余ったから……」

「お、おう。そうか」


 意識すると会話が続かない。

 意識しないようにと意識すると、より悪影響が及ぶ。

 

 ついさっきまで強い鮮やかな夕日を放っていた太陽もお役御免と言わんばかりに雲の後ろに照れて隠れ、夜の始まりを告げる紫はここぞとばかりに空に浸透する。


「――が綺麗だなぁ」

「ひぇっ⁉」


 目の前に月があったから……、ただ何気なく放った言葉にあとから気づいて周りの空気が冷たくなる。静けさが冬の生命を模写しているかのようで、恋心はこれまで以上に荒ぶっている。

 なにも実益のない時間だけが単に刻まれていく。


「――あっ、そうだ、それ。毒入ってるから!」


 沈黙の厚い壁をぶち破り、ニッコリと、それでいて小悪魔的な可愛らしい笑みにやられた僕たちはもう止まらない。月夜のもとで、多数の色が混ざり合うとき、本物のこいおかされた。


「毒って、どんな毒だよっ!」


 返事もせずに歩み寄り近づく彼女。

 その触れれば壊れてしまいそうな躰を優しく抱きとめる。

 上目遣いに見つめる少女がどれほど愛おしく感じたことか、諸君には一生わからないだろう。

 ただ、2度目の毒を感じたのは確かだった。


「……あ、あたしに夢中になっちゃう、ポイズンだよ……」


 もっぱら、バレンタインに操られたのは俺以外の何者でもなかった。



――――まぁ、こういう展開も俺は嫌いじゃない。なあ、紬稀つきぃ?

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