石曜日のメイドのダイアリー

kanegon

Tableau1 風月 (ヴァントーズ)

1-1 邂逅


  鏡よ、おまえの中に、私は自分を見たあと

  深い深い溜息が、私を殺したのだ

  そして私は、自分を失ったのだ


(中世の吟遊詩人ベルナデット・デ・ヴェンテドルンの歌、より)




 帰宅したら清楚なメイドが「お帰りなさいませご主人さま」と迎えてくれる叡王国の上級貴族のような優雅な生活への憧憬はあった。しかし現実のメイドは、美人ではあるが、機械的に「どちら様でしょうか?」と尋ねただけだった。幻想は砂の城で、積み上げるには時間がかかるが崩れ去るのは一瞬なのだ。


 マルトは、入口の扉を開けた格好のまま、溜息を吐いた。右膝が痛いが頭痛も感じ始めてきた。荷物も重い。瞬きしたが、ハシバミ色の瞳が映す光景は変わらない。


 メイドを雇った覚えは無い。


 自分は裕福なヴィクトリア朝叡王国貴族などではない。もう使われなくなって久しい古い製粉用水車小屋を辛うじて買い取っただけの冴えない孤独な男だ。売買契約書にも「もれなく、かわいいメイドが一名付随する」などといった特約条項など無かったはずだ。


「どちら様でしょうか、は僕のセリフなんだけど。この水車小屋は、この僕、マルトが買い取ったものだ。契約書だってある」


「まあ、正当なここの持ち主の方でしたか。これは大変失礼致しました。わたくし、ここが空家だとばかり思い込んで、勝手に住み着いてしまっていました」


「不法侵入か」


 侵入の段階はとうに過ぎていて、不法占拠というべき段階だろう。手に持っていた箒を壁に立て掛けているメイド本人が、勝手に住み着いてしまっていました、と言っているのだ。


 室内から漏れ出てくる暖気をほんのりと心地好く感じながら、マルト少しだけ安堵で気持ちを緩めていた。もしもメイドがこの水車小屋の権利を強硬に主張してくるようなことがあれば、法的措置で闘う必要が発生するところだった。彼女があっさり己の非を認めたので、その手間や費用や精神的負担は回避できたようだ。


 心に僅かに余裕が生まれたので、マルトは改めて水車小屋の中を軽く見回し、勝手に入り込んでいた美人メイドを見た。


 彼女の纏っている衣装は、メイドらしい清楚さを油絵や写真以上に雄弁に表現していた。夜の闇を切り取ったかのような深い色合いの黒いスカートは、脛の半分くらいの丈だ。袖は長袖だが、今は両方とも肘の少し下まで腕まくりをしている。服の前にはフリルで縁取りされた純白のエプロンが掛けられている。白いブラウスの襟元には、瞳の色と同じ青紫色のリボンが結ばれている。プロヴェンキア地方の輝く陽光を集めたかのごとき金髪は、瞳やリボンの色である青紫色とは、黄色系と青系で補色関係になっていてお互いに鮮やかさを引き立てていた。その金髪の上には、高山の冠雪さながらのホワイトブリムが載せられていて、カイレオというレース飾りが施されていた。


 噂に聞いて想像していた通りのメイド衣装だった。実際に見るのはマルトにとっては初めてだった。


 肩に担いでいる、リュートを入れた皮製のケースが重い。少し俯くと、亜麻色の長い前髪が垂れて目を覆った。


 叡王国の霧の都の貴族のような財力のある者だけが雇うことができるので、一般庶民がメイドを目にする機会は滅多に無い。


 ぱっちりと見開いたメイドの両目は、一面の野に咲く紫花苜蓿 (リュザルン) の花のような爽やかな青紫色で、マルトを真っ直ぐに見つめている。年齢は、二〇歳にはまだなっていないくらいだろうか。二三歳のマルトよりは若干年下だろうと思われた。


 水車小屋の中は、事前に想定していたよりもはるかに掃除が行き届いていた。今の時代、蒸気機関を利用した製粉工場が幾つも稼働していて、古代から回り続けていた水車や風車はあっという間に仕事が無くなってしまっていた。この水車小屋も、以前の持ち主の話によると、動いていたのは今から二十年ほど前までのことであり、使われなくなって以降はずっと放置されていたという。石炭ストーブが赤々と燃えている。煙突から黒々と煙が上がっている時点で、遠目から見ても人が住み着いていることに気づくべきだった。


「僕は、マルト・ガーランドといいます。今は失業中でこれから仕事を探す予定ですが、元は吟遊詩人をやっていました。あなたのお名前をお伺いしてもいいですか」


「申し遅れました。わたくしは個人名をダイアリーと申します。見ての通り叡王国出身でメイドを職業といたしております。こちら馨しの国には、亡き生みの親の遺言で、世界を見聞するためと、わたくし自身の寿命を延ばすためにドヴェルグ族の工人を探しに参りました」


 ダイアリーと名乗ったメイドは、優雅な仕種でスカートを両手で少し抓んで持ち上げながら、左足を後ろに引いて右膝を軽く折ってお辞儀をした。カテーシーと呼ばれる、婦人の挨拶作法だ。


「これは、ご丁寧にどうも、ダイアリーさん。なんか、寿命がどうとか気になることもありますが、単刀直入に本題について相談なんですが、この水車小屋は、先程僕が言った通り、僕がなけなしの傷痍軍人年金のお金で買い取ったものなのです。つまり、ここに居住する権利は僕のものです。ここに、ほら、契約書もちゃんとあります」


 マルトは懐から契約書を取り出し、両手で広げてダイアリーの方に掲げて見せた。




売買契約書


「売主、シャマルグ湿原の榎屋敷の農主ウルフ・ワードは、本証書により、法律上並びに事実上の保証の下に、一切の責務、先取特権、抵当権の目的たらざるものとして、

買主、吟遊詩人マルト・ガーランドに対し、

プロヴェンキア地方の中央、ラダン河の支流たるデニム川に接続していたかつての運河の畔の製粉水車小屋を売却譲渡したり。

この売買は吟遊詩人マルト・ガーランドが机上に置いた通貨をもって、協定価格に基づき一括してなされ、当該金額は直ちに農主ウルフ・ワードによって収受せられたり。以上は全て左に署名せる公証人および証人立ち合いの下に行われ、その確約証書交付せられたり。

本証書はダルレスにおけるロギヴィ・ノワクの公証人事務所にて、笛吹きゴード・ブラン及び女神ジュリア教団の十字架護持者アレスの面前にて作成せられたり。

両人は証書朗読の後、当事者及び公証人と共に署名せり。」




 と、記されている。関係者それぞれの署名もきちんと記されている。法律上、紛れもない正式なものだ。契約の時、どうして笛吹きなんて人が立合証人になるのかはマルトには分からなかったが、公証人事務所の側で用意した人材なので文句は差し挟まなかった。


「なので、まあ、その、大変申し訳ないのですが、退去していただきたいんですよね」


 ダイアリーは眉根を顰めた。


「ご迷惑をおかけしてしまったことを深くお詫び申し上げます。確かにわたくしは、偶然空家を見つけて勝手に住み着いていただけでありますので、この水車小屋に関して何ら正当な権利を有するものではございません。出て行けと命令されましたら、今すぐに出て行かなければならない立場にございます」


 言いながらダイアリーは、戸口に立つマルトの横を抜けて、屋外に出た。驚いたのはマルトだ。


「ちょっと待って待って。出て行くと言っても、外套も着ないで出て行くんですか? まだ冬で寒いのに?」


「プロヴェンキア地方は温暖で、冬でも充分に暖かいですから。わたくしがかつていた叡王国の霧の都は、随分と寒い場所でございました」


 そう言いつつ、ダイアリーは腕捲りしていた双方の長袖を元に戻していた。手のひらの半分くらいまでが隠れる長さの袖は、冷たく吹きすさぶ北西風 (ミストラル) を防ぐには、あまりにも心もとないものだった。


「それに、持って行く手荷物も何も無いんですか? 追い出す側の僕が心配するのも余計なお世話かもしれないけど、これからどうやって生活していくんですか?」


 マルトは荷物が多くて重さに難儀しながら旅をしてきた。


 ダイアリーは右手の人差し指を顎に当てて、少し空を仰ぎながら答えた。


「取りあえず、今夜はどこかで野宿ということになるかと思われます。今後につきましては、どこかに手頃な空家があれば、そこに住まわせていただくことになると思います。無断で、ですが」


 不法侵入、不法占拠を最初から想定しているのだ。


「いや、ダイアリーさんのような若くて美しい女性が、野宿とかいうのは、あまりにも危険じゃないでしょうか」


 馨しの国の最南部であるプロヴェンキア地方は、住んでいる人々も温厚で、北のプロシアン帝国との戦争で疲弊している北部国境付近よりは安全で治安も良好ではある。それにしても、物盗りに狙われる危険は、どんな土地に行っても無くならない。


「そこはご憂慮には及びません。わたくし、このメイド服と、生みの親である博士の形見である金の十字架の首飾り以外、盗られるような物など何一つ所持しておりません」


 マルトはちらりとダイアリーの胸元に視線を向けた。金の十字架の首飾り、に該当する物は見当たらなかった。恐らく、服の下に仕舞い込む形で首から下げているのだろう。


「物盗り以外でも、ほら、ダイアリーさんは、その、きれいな女性ですから、性的な目的で暴行を働こうとする輩も出てくるのでは」


「ご指摘の件に関しても、ご心配には及びません。わたくし、人間とそっくりにできていますが、人間ではなく、蒸気機関で稼働する義人人形ですから。あくまでもメイドとして裏切らずにご主人さまに誠心誠意お仕えするのが目的です。そういう目的の専門のゴム人形とは違って、男性の性的な欲望を満たすための機能はございません。胸の膨らみがほとんど無いのも、尻が大きくないのも、そのためでございます」


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