第5話_参加資格

 犬は嫌いじゃない。

 昔、親父がいた頃は大型犬を飼っていた。親父はシベリアンハスキーが好きで、物心ついた頃には家にいた。小学生の低学年の時に亡くなった。


 ふと、思い出したんだ……


 目の前にゆっくりと歩いている砂場から生えてきた大型犬を見ると、そのシルエットがあの時のシベリアンハスキーとそっくりだった。ただ、目の前の砂の大型犬の方が二回りは大きい。


 「じゃあ伊藤君。どうぞ」と石田が言った。

 「え?」

 涼介の反応の悪さに、タキシード姿の中年石田が眉をひそめる。

 「え?じゃあないですよ。あのワンちゃんを手なずけてください」

 「は?」

 「え?とか、は?とかって言い換えてもダメです。あのね、伊藤君。これってよくあるパターンでしょ。こういう場面、ファンタジー系の漫画や小説で見たことない?」

 「ねぇよ」

 「そう?でも、あのワンちゃん、伊藤君の方を見ていますよ。ほら、かわいらしい」

 「かわいらしい?唸ってないか?牙むいてないか?」

 言葉通りのようにしか見えない。同じくその砂の大型犬を眺めている石田が「まあ、大丈夫じゃない?」と言って、涼介の方に振り向いた。

 「伊藤君、インプリンティングって知ってる?」

 「さあ、なにそれ?」

 「ひよことかさ。孵化して最初に見た動くものを親と認識する動物のシステムだよ。あのワンちゃんは伊藤君の血液で孵化したんだよ。そのうえ、孵化して最初に見たのは伊藤君だから……間違いない。大丈夫」

 「だから何が、大丈夫だよ」と涼介は石田の方をにらむ。が、石田は「レッツゴー」とかわいく……いや、かわいくはないが、それっぽく、右手を上げていた。



 釈然としない。なんで俺がこんなことを……


 流される自分がイヤになりつつも、その場にしゃがんで、左手を前に出した。犬を呼ぶ時と同じように。

 涼介の行動を見て砂の大型犬が動きを止め、顔をこちらに向けた。姿勢を低くし、鼻を突き出してゆっくりと近づいてくる。

 一歩ずつ、一歩ずつ近づいてくる。

 あと1メートルあたりまで近づいてきたところで、砂の大型犬がゆっくりとしたストロークで尻尾を振る。尻尾を振るたびに、砂がパラパラと音をがした。

 さらに近づいてきた。

 涼介の左の指先と砂の大型犬の鼻があと少しで届くというところで、石田が口を開いた。



 「あ、そうそう。そのワンちゃん、咬むよ」



 「え?」

 砂の大型犬が大きく口を開く。涼介の目にはスローモーションのように映る。だが、何かができるわけではない。ゆっくりと砂の大型犬が閉まっていくのを眺めるしかなかった。

 その口が完全に閉まりきる。砂の犬は顔を横に振った。

 服が引っ張られるような感覚はあった。

 だが、腕の感覚はなかった。


 痛みよりも恐怖が勝った。

 左ひじより先がなくなっていた。

 血があふれる。すぐに足元は真っ赤になった。

 左腕が熱い。そのあと、今まで感じたことがないような痛みが全身を駆け巡る。

 その痛みが遠のいていく。

 そのまま目の前が真っ白になった。




 ……け……りょう……け。りょうすけ……


 親父に呼ばれたような気がした。

 涼介はゆっくりと目を開ける。視点が定まらないが、目の前で何かが動く。誰かが覗き込んでいる。

 「伊藤君、伊藤涼介君」と大声で誰かが読んでいる。体がゆすられる。


 ……ゆするな。頭が痛い。

 だが、少しずつ意識がはっきりしてくる。視点も定まってきた。親父ではなく、丸顔七三分けの石田の顔が視界を埋め尽くしていた。


 「近い。離れろ」

 「ああ……ごめん、ごめん」と石田が言いながら、涼介の体をゆっくりと起こした。口元にペットボトル。口の中に水が入ってくる。

 その水が口の中にしみこむ。ゆっくり喉を通っていった。体が水をもっと欲していた。が、そんな思いに気付くことなく、石田はペットボトルを涼介の口元から外し「よかったぁ」と大きく息を吐いた。


 石田は、涼介が体を起こしたまま維持ができることを確認してから、立ち上がった。大げさな動作で腕時計を見た。

 「23時42分。はぁ、ギリギリでした。これで参加資格ゲットです。おめでとう、伊藤君」


 満面の笑みの石田に腹が立つ。

 言葉を返す気力もない。体全身に力が入らない。いや、全身だけじゃあない。俺には左腕が……

 左の腕、指の感覚があった。慌てて左手を顔の前に持ってきた。確かに左腕、左手、指も全部そろっていた。だが、肌の色が鮮やかだった。明らかにいつも見る自分の左手とは違っていた。

 その様子を穏やかで優しい目で石田が眺め、満足そうに頷いている。

 その顔に涼介はムカついていた。

 が、そんなことも気づきもせず、石田は口を開いた。

 「石田君。いろいろギリギリでした。参加応募期限もギリギリでしたし、手なずけるのもギリギリ。咬み切られましたから、さすがの私ももうダメかと思いましたよ」

 そう言いながら、腕を組んで大げさに頷いた。

 「でも、あのワンちゃん。伊藤君に何か感じるものがあったでしょうね。伊藤君の腕を飲み込んだ後、すぐに伊藤君の腕に擬態してくっついちゃった。ほら、肌の色が違うでしょ。それ、あのワンちゃんなんですよ。信じられますか?でも、そのおかげで、血も止まりました」


 そんなことあるか?

 でも、夢だったとしても、あの左腕の咬まれた感覚は間違いなかった。あれが夢だとは思えない。だが、この左手があの大型犬とも思えない。



 涼介は左手を振った。

 パラパラと散るものがあった。


 砂の左手だわ……


 「わけが分かりませんよね?でも、大丈夫。少しずつ説明しますから。説明するのも私の仕事ですから」

 そう言って、石田は咳ばらいをする。


 「どこから話しましょうか……」

 「話さなくていいんじゃねぇか?」


 石田とは別の……部屋の奥の闇から聞こえてきた。

 涼介は声の出所を探る。が、姿は見えない。石田の方を見た。が、その石田の目もまた、闇の奥を見るように目を凝らしていた。

 その表情から石田にとっても想定していなかったもののようだ。


 足音が近づいてくる。ゆっくりと近づいてくる。

 その足音の主が闇から姿を現した。

 短い金髪の大男。肩の筋肉が盛り上がっているのが服越しに分かる。普通の風貌ではない。こちらが委縮してしまうような強い目つき。体格も顔つきも厳つい。



 「北上君……ですか?」と石田が笑顔を見せた。

 だが、先ほどまでのものと違い、口元が引きつっていた。




<登場人物>


■崎山高校

・伊藤涼介:高校1年生。久原道場の元門下生

・古賀星太:高校1年生。生徒会所属。涼介の幼馴染。久原道場門下生

・高山明:高校1年生。同級生。思い出作りに燃える。

・長谷川蒼梧:高校1年生。同級生。美形。


・桜井千沙:高校1年生。同級生

・笹倉亜美:高校1年生。同級生

・小森玲奈:高校1年生

・池下美咲:高校1年生


・久原貴斗:高校3年生。生徒会議長。武闘派。久原道場師範代。


■株式会社神楽カンパニー

・神楽重吉:神楽カンパニー代表取締役会長


■不明

・石田:スカウトマン(ヘクトス)

・北上:?

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