第3話 犬が西向きゃ尾は東

 それは俺がいつものバーで『ハッパ』を吸いながら、銀貨一枚ぽっちの安ビールをちびちびやっていた時のことだ。



「よう」



 声の方を見やると、無精ひげを生やした冒険者かぶれのおっさん、名を『リンドルホ・カンタン』が突っ立っているように



 そう、見えた、だ。



 だって、俺の認識ではリンドルホが立っているように見えても、それが他人にも同じようにリンドルホが立っているように見えていると認識できているか、証明は出来ないのだ。



 そもそも今俺がバーの片隅でハッパを吸いながら酒をたしなんでいる事は、本当に現実なのか?今感じているこの空気が、俺の吐き出したハッパの煙が形作った夢幻の類でないと、一体どうやって証明できる?



「おい、いい加減にしろ!このやり取り何度目だ!」

「ん……」



 俺の虹色の視界の先で、リンドルホの奴が眉を吊り上げて声を荒げているように見える。そう、見えるだ。



 これは本当に現実なのか?分からない。全て俺の脳が映し出す幻影なのでは無いのか?何が本当で何が真実だ?虚構と真であることの証明は?俺は狂ってしまったのか?それとも俺だけが正気なのか?



 我々人類は集合的無意識で意識の底の底で繋がってはいるが、常に顔を出している表層の意識では一個人のままだ。



 当然見ている景色は違うし、通り抜けていた人生経験も全く異なる。何もかもが違い、一つとして同じものはない。



 俺の認識では、確かにリンドルホの奴が腕を振り回して無茶苦茶にキレているように見えても、それが他者にも同じように見えていると、証明する事は出来ない。



 残念ながら人類は正気と狂気と区別する方法を未だ用意できていない。だから人々は今まで培ってきた経験や教えというデータベースを参照し、漠然とこいつは狂っているという回答を算出するしかない。



 俺の視界の認識は正しく映っているのか?誤っているのか?誤っているとして、じゃあいったい何が誤っているのか?



 リンドルホがいる事か?それともバーで座っていること?まさか俺が人間であるという認識そのものか?



 なあどれが正解なんだろうな?



 丁度机の角から頭を実体化させた〝猟犬〟に、俺は何とはなしに聞いてみた。



((ククク…ヤットミツケタゾ…モハヤワシハオマエトイウソンザイヲカンゼンニキザミツケタ…オマエハドコヘイコウトモ、ドノジカンジクヘニゲヨウトモムダダ…マエハシテヤラレタガ…オナジテハニドトハクラワンゾ…オマエハニゲラレヌ…オマエハ―――))



 なるほど、つまりお前は自己認識を証明するには結局自分でそうと結論付けて、ある種の妥協をする他ないと、そう言いたいわけだな?誰かの意見や法律や取り決めではなく、あくまでそれらは参考程度に捉え、自分の考えを主眼に価値判断の基準として考えると。なる程、そういう考えもあるのか…。



 俺は一人頷き、ピスタチオの殻をむき、口の中へ放り込んだ。



((キサマ…ナニヲイッテイル…?))



〝猟犬〟は目だけを動かして俺を見上げた。つぶらな瞳だった。捨てられた野良犬の様な哀愁に満ちた目だった。



 こいつもまた、何か大切なものに置き去りにされてしまったのだろう。



 悲しみや苦しみは共有するが事は出来ないが、共感してやる事は出来る。は残念ながら伺い知ることは出来ない。しかし共感してやる事は出来る。



 慰めの言葉一つで救われることもあれば、言葉なく寄り添う事で救われることもあるように、心に負った傷を癒す為にはそういう些細な気の利かせ方の積み重ねが大切だ。



 俺はリンドルホの肩を殴りつけてからバーテンにビールとスピリッツを頼み、〝猟犬〟の頭にピスタチオの殻を置いた。



((オ、オイヤメロ!マダジッタイカガカンゼンニスンデイナイカラウゴケナイノヲイイコトニキサマナニヲ!?))



〝猟犬〟は頭を激しくゆすりながら何事か喚めくように吠えている。



 何か訴えているようにも聞こえたが、こいつらの言語を、では正しく理解することができないので、俺には『ケチャップライス』としきりに言っているようにしか聞こえなかった。恐らく間違ってはいないだろう。



 そうこうしている内にバーテンがスピリッツとビールをなみなみ注いだグラスを持ってきた。



 ビールの方はリンドルホへ渡し、俺はスピリッツを取った。リンドルホは訝し気に眉を顰めるも、タダ酒であると理解したらすぐに顔をほころばせた。



 俺たちは笑い合い、グラスをぶつけ合って、ため息と一緒にジョッキをイッキして飲み干した。



 そして同時に〝猟犬〟の頭にジョッキを置き、ハッパを俺、リンドルホ、浮浪者のおっさん、バーテンの順に回し吸いして、それから〝猟犬〟の頭に押し付けて火を消して店を出た。



((キサマーーーーーー!!!コレデカッタトオモウナヨーョーョー…))



 去り際に背後で大声で吠える誰かの声が聞こえた気がしたが、それはそれだけの事で、気にかける者は誰もいなかった。俺もそうした。





 ■





 外は既に陽が上っており、燦燦と降り注ぐ陽射しは眩しく、俺は手ひさしを作って日光を遮った。



 2度、3度ほど瞬きを繰り返し、まばゆい世界の光に目を慣れさせる。



 次第に目が慣れてくると、手を下ろした。眩んで不明瞭だった視界は元に戻り、世界は普段の見慣れた虹色に瞬き、蛍光グリーンな地面は波打って飛沫を散らした。



 時折、緑色に発光する地面からピンク色のイルカや200メートルほどのタコやイカが顔を出し、友好を示すようにヒレや触腕を振っていた。



 俺も景気よく声を掛けながら手を振り返し、彼らと俺とを結ぶ懸け橋がいかに強固であるか、高らかに謳いあげた。



 俺の言葉に、彼らはたいそう満足そうに頷き、そのまま蛍光色にきらめく地面の中へと沈んでいった。



 彼らの姿が見えなくなるまで手を振り続け、やがて最後の一匹の姿が消えると手を下ろし、『錠剤』を口に含んでから歩き出した。



 歩き出したと言っても、行く当てなど無い。ただ漠然と前へ前へと進むだけだ。



 何処へ行こうか?何処だっていいさ。全てはきみの赴くままさ。



 俺の呟きに応えてか、突如として風がぴゅううと吹き、俺の背を押した。俺は風の導きに従い、完全に脱力して押されるがままに体を預けた。



 風は自由で気ままだ。素直に真っすぐなんて進みやしない。あっちへ行ったりこっちへいったり。ぐるぐるふらふらと巡り廻る。



 次第に、錠剤が聞き始め、漠然とした情景への感想すらとろける様な酩酊にかき消されてゆく。



 風の流れる軽やかな音。精霊たちの溌剌とした笑い声。雄大なエーテルの流れ。目を閉じ、心地良いそれらの音に耳を澄ませる。



〝マタヤッテルヨコイツ…〟

〝コンナヒドイジャンキーハハジメテダ…〟

〝ナンデコイツマダイキテンダ…?〟

〝シラネーヨ、ソンナノ〟

〝キメテルンダロ…クレヨ……〟



 精霊たちの祝福の声が耳を伝い、脳を素通りして反対側へと抜けてゆく。



 数多の建物や人を通り過ぎた先に、俺は人を掃除機の様に吸い込む、またアリの巣のように排出する一軒の大きな建物へとたどり着いた。



 風の導きはここまでで、背を押す力は消え失せた。精霊の声も、いつの間にか消えていた。



 俺は漠然と立ちすくみ、ただ茫然と建物を見上げ、でかでかと掲げられている看板をぼんやりと見つめていた。



『冒険者ギルド ヒットンデッシー支部』



「冒険者…ギルド……?」



 口の中で転がし、頭の中で反響するその単語の意味を、俺は推し測ろうとしていた。



『冒険者ギルド』



 それは『魔物』という森や川、海や空を、所により地下下水道やらにいる魔力により変異した動物、あるいは無機物、あるいは集合した怨念やら堕ちた神の一柱やらを一纏めにした存在の問題を全て押し付けるために存在する塵を掃き集めるための部屋の角のような連中だ。



 質は片田舎の夢見がちなガキから世界の中心で権謀術数を張り巡らせるような輩まで玉石混合極まれりといった感じだ。



 毎日毎日、いろいろな街で、村で、ギルドの門を叩く夢見る者たちが大勢いる。その中で活躍できるのはほんの一握り。砂の中で宝石が見つかる可能性は限りなく低いのだ。そしてその宝石が磨き抜かれるのも、また稀である。



 要するにまともな人間ならこんな職に就こうとする時点で敗北みたいなものなのだ。



 それでも手を伸ばそうとする輩が多いのは、どうもこの世界の人間は魔力なんて物を宿している関係か、嫌に自信過剰な人間が多いのだ。



 登録した瞬間に身の丈以上の依頼を受けて、それから帰ってこないなんて話はそれこそ枚挙に暇がなく、今時酒の席の笑い話にもなりはしない。



 人々は夢をかなえようと躍起になっている。俺でもできる。俺もいつかは。なんて。



 確かに夢は充実した人生を生きていく上で必要不可欠だ。夢が無きゃ、生きていく原動力が無くなる。夢が無きゃ、仕事をする上でモチベーションが続かない。



 しかし問題は、夢とは叶わない事に意味があるっていう事だ。いつかは俺も一獲千金を手にする。いつかは竜を倒し、英雄へと至る。いつかは、いつかは。



 そのいつかは爺さんになって今わの際の夢の中ででも続くし、竜を夢見て入り込んだ迷宮の中で後ろから偽竜人リザードマンに槍で突き殺された時の走馬灯の中でも続く。



 結局、生きていく上で必要なのは身の丈以上の自信ではなく、身の丈に合った謙虚さなのは間違いない。



謙虚ヒュミリティ



 何とも誇らしい言葉じゃないか。胸の内で、優しさが湧き出てくるようだ。



 紫煙を吐き出し、俺はギルドの中へと入っていった。



 中は相変わらずごちゃついている。人、人、人。見渡す限り、奇抜な格好をした人間の見本市だ。



 どいつもこいつもが己がさもタフガイであると着飾り、いかに自分が恐れ知らずの狂人であるか、無駄に肥大化した虚勢を表す様な筋肉や鎧、また身に纏う雰囲気で無言のうちに物語ろうとしている。



 徒党を組んだ男たちが肩を怒らせて、自分より小さな冒険者に歩み寄り、震えあがらせて笑った。そんな男たちを鼻で笑い、自分はそう簡単には靡かないと女の冒険者がせせら笑った。



 男たちと女はたちまち口論になったが、止めるような奴はいない。職員も日常茶飯の出来事に、一々かかずらわってなどいられない。横目でちらりと見るだけで、手を止める事も無く淡々と仕事をこなしてゆく。



 大抵受付を行う職員は眉目麗しい女と相場が決まっており、この受付も例に漏れず顔のいい女で、冒険者から浴びせられる下卑た視線と言葉を舌先三寸で丸め込み、やはり淡々と業務をこなしている。



 誰もかれもが、心の奥底の臆病さを隠している。



 この中で謙虚な心を忘れずに生きている人間など、俺くらいのものなのではなかろうか?



 入り口のど真ん中で、しばらく俺はぼーっと突っ立って彼らの騒がしい日常風景をぼんやりと見つめていた。



 すると背後から声がかかり、、背後を見た。



 男の冒険者で、年の程は20後半あたりくらいの薄汚れた兄ちゃんが立っていた。



 彼は俺を見るや、ぎょっとしたように目を見開いて立ち尽くしていた。



 日々命がけの死闘を繰り広げえている勇敢なる冒険者が、一体俺のような民間人を見て何で固まっているのだろうか?首をかしげて考えてみたのだが、俺という人間の恰好を見て、納得した。



 。どちらかと言えばギルドに依頼を出す依頼人の立場だ。大抵依頼人というのはギルドへ書類だけ提出し、後日ギルドの担当者がそいつの家に行って依頼の内容の確認するという方針を取っている。よほど重要度の高い依頼なら支部のギルドマスターへ会いに行くこともあるだろう。



 しかし、そんな重要度の高い依頼など、そもそもこんな片田舎じゃなく、本部のある王都へと足歩運んで直接ギルドマスターに依頼しに行くことだろうから、やはり直接来ることなんてまずあり得ない。



 だから俺のように直接赴くような物好きを見て、どう接して良いか分からなくなってしまうのも、まあ無理もないことなのではなかろうか?



 俺は一人納得して頷き、そいつを蹴っ飛ばして階段から転げ落とすと、首を戻して奥へと入り込んだ。



「……?」



 何だか先ほどよりも中が騒がしい。皆しきりにこっちを見て、あるいは指差し、隣の奴と言葉を交わし合っている。



 やはり民間人がいるのが物珍しいのだろう。そういう日もある。



〝あの野郎…何でいやがる…?〟

〝おいお前話しかけて来いよ〟

〝無茶言うなよ…いくらBランクっつったってあれを相手にしてちゃSランクだって無理だぞ?〟

〝何でだよ?Sランクだってイカレた連中の集まりじゃんか?イカレ同士話が合うかもよ?〟

〝お前それ本気で言ってる?〟

〝まさか…〟



 沢山の情報が、効き始めた錠剤とハッパとアルコールによってとろける様な酩酊にかき消されてゆく。



 しかしいつにもまして視界が酷い。蛍光色の地面。虹色の空。空間が波打って〝猟犬〟が頭を出し、恨みがましい目で俺を睨んだ。やはり錠剤とアルコールのちゃんぽんはすべきではなかったのだろうか?



 でも、もう済んだことだ。今更取り出してなかった事にするわけにもいかない。これもまた人生。



 そう一人頷き、近くで座っていた奴を椅子から蹴落とし、何か言いながら指さすそいつをしこたま蹴り飛ばし、それからそいつが飲んでいたエールを飲み干した。



 さっきよりも聞こえる声が増えたような気がするが、それはそれだけの事で、俺の日常に食い込むことは無かった。



 結局彼らの様な荒事を常日頃とする人間と、俺のように穏やかに本を読んでつつましく暮らしているような輩では、住んでいる世界が違う。関わり合うことは稀で、道が重なる事はもっと稀だ。



 まあ物珍しいものを見て、誰かとそれを共有したいと考えることそれ自体は、俺も共感できることであり、俺と彼等の数少ない共通点と言えるだろう。



 騒ぎ立てる彼らを目尻に、机に粉を一直線に引き、左鼻で吸い取った。



 酩酊が、何もかもを押し流す。



 心地よさに押されて、俺は目を閉じた。




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