第2話 ステッペン・スティングレイという男
とある年の、とある月の、とある日に、とある貴族の間に、とある赤子が生まれた。
貴族の夫は生まれてくる第二子が生まれてくる様子を、血走った目で見つめていた。口の端から泡が溢れ、床に垂れたが、気にする者はいなかった。
というのも、赤子を母胎から引っ張り出すのにえらく難航していたからだ。
初めの内は良かった。頭から腰にかけてはするりと、まるで何の抵抗も無く出てきたのだが、腰から下、下半身にかけてからが先ほどの抵抗の無さが嘘のように全く微動だに動かなくなったのだ。
一人が引っ張っても抜けず、二人がかりで引っ張っても抜けず、三人がかりでも抜けず、四人、五人、六、七、八………ついには使用人全員で引っ張っても抜けない有様であった。
しかし、そこでぐずる孫を寝かしつけてきた一人の老使用人が、彼らの有様を目にするとまるで芸を失敗した野良犬のように罵り、腕をまくり、鉢巻きを締め、両手に唾を吐き、今際の際のカナリヤの様な金切り声を上げながら気合と共に赤子を一息に引っこ抜いた。
あれだけ抜けなかった赤子があっさりと引っこ抜け、会場は湧きたった。
その中心にいた老使用人は引き抜いた赤子をトロフィーめいて掲げ、浴びせられる称賛に酷く誇らしげだ。
産婆役を買って出たこの老使用人の名はダブン・ファンというのだが、その赤子を手に抱くなり電撃を受けた様に痙攣し、周囲の者どもを酷く不安にさせた。しかしそれもすぐに収まり、それ以降老ダブンは多少挙動不審に周囲を見回したり、何も無いのに急にびくついたりするようになったくらいで、特に問題なく事は進んだ。
ある晴れた渡った雲も無いのに稲妻が閃き、黒猫が馬車道を横切って轢かれて臓物をまき散らし、夕方でもないのに烏が空を舞い狂い、その貴族の長男のネペンテスがくしゃみをしたくらいの、酷く何も無い一日であった。
■
酷く大人しい子。
ステッペン・スティングレイは幼少期にそのように言われていた。
何を聞かれても、何を言われても、尻を叩かれても、曲がり角で急に人が飛び出てきても、雨の日も、風の日も、あんな日も、こんな日も口を開かず、話しかけられてもただそうですね、とそっけなく返すばかりで、後はずっと本を読んでいたり、作り出した魔法と戯れていたりしていた。
あまりにも大人しく、何のアクションも起こさないステッペンに、兄のネペンテスと、後から生まれた妹のパラライスはこぞって突きまわした。しかし、やはり彼はうんともすんとも言わず、周囲の者たちを呆れ果てさせたのであった。
全てが狂いだしたのは、彼が10歳の時だ。10歳の節目の、彼の誕生日兼お披露目パーティーが開かれた日の出来事であった。
その時ステッペンの父、大スティングレイは男爵の地位にあった。野心溢れる彼は成り上がりの切っ掛け探しに余念がなく、この大人しい第二児が何かしら自分の出世に役に立つような気がする、と何とはなしに思っていたのだ。
このパーティで何かしらその兆しが掴めたらよいのだが、と入れ替わり立ち代わりに声をかけてくる貴族たちに愛想よく返しながらそのような事を思っていた。
それは唐突だった。
勢いよく開かれたセレモニーの扉。何事かと目を向ける貴族たちの視線を一身に浴びて、それはあまりにも悠々とエントリーしてきた。
『ハッパ』を咥えたステッペン・スティングレイがおかしな目つきで彼らを見回した。
おかしな、とはかなり控えめな表現だった。彼の目は極彩色の光にうっすらと輝き、色彩は絶えず変化しながらちかちかちか、ちか、ちか、というリズムで明滅を繰り返した。瞳孔は開き切り、左右の眼はてんでバラバラに動き、正気の光は無くどこでも無いどこかを見ていた。
ステッペンはしきりに『ワカル…ワカル……』とぶつぶつ呟き、頷きながら、千鳥足で室内を徘徊しだした。
千鳥足で、ろれつの回らない口調で譫言を呟く男児から、貴族たちは震えながら後退った。当の大スティングレイときたら、あんぐりと口を開け、血の気の退いた顔面は真っ青を通り越して真っ白であった。
「な、え、あ…お、お前何してるんだよ……!」
震える声で、ぎこちない足取りで歩き回るステッペンに声をかける者がいた。
彼はポコポンド男爵の長男、小ポコポンドである。
彼は齢11歳にも拘らず同年代の貴族の子らよりも一歩も抜きんでて聡明で、あどけない顔立ちに確かな知性を窺わせる才児であった。
そんな小ポコポンドはステッペンを前に動けないでいた。あまりにも荒唐無稽かつ想像すらできない出来事に直面して思考が停止してしまい、足がすくんでしまったのである。
と、ステッペンは急に立ち止り、ぎゅるッと首を回して小ポコポンドを見た。
「ひぃっ!?」
小ポコポンドは悲鳴を上げた。滅茶苦茶に動いていた目を見てしまったからである。ステッペンの瞳は相も変わらず無限の色彩に明滅し、開き切った瞳孔からは正気が欠片も感じ取れない。感じ取れるのは井戸の底を覗き込んだかのような、背筋をひやりとさせる、怖気。
ステッペンは微動だにせずに小ポコポンドを見つめていた。見つめたられていた小ポコポンドは気が気じゃなかった。この気狂いが何をしでかすのか全く予想不能であった。まったくさっぱり分からない。このような席で、何故かような行いができるのか?
聡明で、内心で自分以外の全てを見下していた彼には理解できなかった。今までは同年代どころか大人だって顎で使っていた彼が、自分よりも年下の意味不明な行動に気圧されている。
その事実に普段の彼ならば赤面モノの恥ずかしさを感じていただろうが、これと対峙しては大人だろうが大貴族だろうが賢者だろうが神だろうが、絶句して口をあんぐりと開け放ってしまうこと請け合いであろう。
異様な雰囲気が両者の間に広がり、大人たちは固唾を飲んで、その様を見守る。
事態が動き出したのは突然であった。
ステッペンが急に動き出したのだ。反応する暇すらなかった。いきなりステッペンの動きがビデオの早回しめいて3倍速に加速し、ぬるりと小ポコポンドの眼前に来ったのだ。
「ぴぃ!!!?」
「あぁ待て、皆まで言うな」
絶叫を上げかけた小ポコポンドに、ステッペンは手で制した。そして。これまた一切反応を挟む余地すらなく、捲し立てる様に言った。
「もちろん俺は正しい魔法使いだから自分のやるべきことは弁えているつもりだ。魔法使いの誓い第一!
ステッペンすぐ横のテーブルにあったワイン瓶を取り、がぶりと飲んで喉を湿らせ、おかしな目つきで小ポコポンドを瞬きなしで凝視しながら、またぞろ話し始めた。
「何処まで話したっけ?そう誓いだ。誓い。魔法使いたるもの常に人の幸せのために魔法を使うべしっていう古い考えをもとに魔法を振るうっていうね。うん。だからその誓いを胸に抱く俺はお前の願望をかなえてやらにゃならん。魔法使いだからな。そして俺は魔法使いだからお前が心の奥底で抱いている願いをすでに把握済みよ!善は急げだ!さあ行くぞ!いち、にの、さん!」
準備も、心構えも、一切挟む余地はなく、誰の介入も許さぬほどの目まぐるしい展開の速さは、この場の何者をも動かすことを許さなかった。
ステッペンは腰に吊ったホルスターから指揮棒めいた杖を引き抜くと、呆気に取られて硬直する小ポコポンドに突き付け、何のためらいもなく光の粒子の塊を小ポコポンドの胸に撃ち込んだ。
「ア―――」
着弾した瞬間、ボンッという破裂音と共に煙がもうもうと吹き上がり、断末魔の叫びを上げる間もなく小ポコポンドを包み込んだ。
観衆はざわつき、煙の奥で身動ぎする不定形の影を前に、ただ見ている事しかできない。ステッペンは肺にたまった煙を吐き出した。
やがて、煙が晴れたそこにいたのは、小ポコポンドではなく、一頭のエミューだった。
「ゲ?ゲゲ?……ゲゲーーーッ!!?」
エミューは目をぱちくりさせ、長い首を傾げ、後ろを向いてふさふさとした羽毛を見て、羽を広げて訝り、顔を正面に戻し、それから驚愕の悲鳴を上げた!
悲鳴は瞬く間に広がり、華やかなパーティ会場は、阿鼻叫喚のドグマと化した!
あられもない姿で人前に出るだけに飽き足らず、同じ貴族に手を出すという禁忌を超えた禁忌の行いに、彼らは開いた口が塞がらない!
当の下手人ときたら、しきりに『ワカル…ワカル……』とぶつぶつ呟き、頷きながら、千鳥足で室内を徘徊しだした。そして、手近の者に次々と魔法を放ち、その者の願望を叶え始めたのだ!
「あぁ!?」
「ひっ!?」
まず初めにユレン子爵が胸を撃ち抜かれて煙と共に喋る木彫り人形と化し、次にモロダシ家の令嬢モロパン(8歳)が頭に円筒状の奇妙なフルフェイス仮面を被り、腕をT字に広げて硬直した!
「わあ!?」
「きゃー!?」
「ひ、わ、わしもか!?」
エス男爵が、イー伯夫人が、エックス騎士爵が、イー伯爵夫人を中心に磁石で引っ付いたかのように極度密着した!
「ア゛ーイ゛イ゛ぃぃぃいぃ!!!」
「「オ゛ォ゛!!!」」
イー伯爵夫人が悲鳴を上げ痙攣した!つられて二人も電撃に撃たれたかのように震え、失禁!
「ぎゃー!?」
「ウワー!?」
「アバーッ!?」
狂乱したエミューやカナリヤから羽毛が舞い狂う!人と猫との合いの子ような生き物から吐き出された毛玉を踏んで転倒するクルミ割り人形を踏んづけて更に人が転倒し、その転倒した貴族が光の粒子を受けて半裸と化し、付近の貴族夫人に襲い掛かって腰をへこへこさせた!
ある貴族のポケットから無限に溢れ出る砂金を、付近の貴族が、有力商人が樹液に群がる昆虫めいて寄ってたかり血走った目でかき集め始めた!泉の源泉である貴族は当然この行為を許容しない!たちまち血生臭い殴り合いが発生した!
「フザケルナ俺のだぞ!」
「ウルサイゾ!」
「ヨコセ!」
「ワシノジャー!」
「ウオー!?」
「ケケーン!?」
「キューン!?」
「パオーン!?」
「こ、こんな事が…こんなことは……!」
「父上、お気を確かに!」
目の前で繰り広げられるケオスに、大スティングレイはわなわなと震え膝から崩れ落ちた。死んだ目をする父に駆け寄ったネペンテスは己を強いて父に呼びかけを続ける。そうしなければ、狂ってしまいそうだった。
「うんうん、みんな幸せそうだねぇー良かったねぇー……ヒック……」
父の肩を揺すって必死に呼びかけているネペンテスの横に、いつの間にかいたステッペンが、繰り広げられるケオスの狂乱をぼんやりと眺めながら、何処からか持ってきた椅子の上で猫の尻尾付近をトントンと叩いていた。
「ニャ…フニャ……グゥ……」
猫は口から漏れ出る声を必死になって押さえつけようとしていたのだが、襲い来る快感に抗えず、悔し涙を零しながら鳴き声を零した。猫は恨みがましそうな目でステッペンを睨みつけたが、すでに彼の意識はここには無く、虚空を仰ぎ、何処でも無いどこかを見ていた。
「「ARRRGH!」」
「ワカル…ワカル……」
ケオスの荒波は、夜が明けるまで延々と続いたようでした。(笑)
■
「貴様をスティングレイ家から追放する!!!」
「そんなひどい」
ステッペンは傷ついた。
「不当だ、こんな事は許されない」
ステッペンは目を伏せ、頭を振るった。
「ゆ、許されない…?許されないだと?どの口がッッッ!!!」
大スティングレイは激昂し、見事な一枚板のデスクの上に拳を叩きつけた。
「こ、この…きさ、貴様は…ウッ!」
「ち、父上!お気を確かに!」
あまりの極度興奮に口の端から泡を飛ばし、かつてない程憤慨した大スティングレイは、突如胸を押さえて苦しみだした。傍に控えていたネペンテスがすかさず駆け寄り、自分が目の前の存在とは違う事をアッピールした。
「心不全?お大事にね」
ステッペンはくわえていたハッパを指で挟んで口から放し、紫煙を吐きながらのんきに言った。
「カ――――――ッッッ!!!!!!!」
「お前はもう黙ってろー!!!」
赤を通り越して黒に染まった顔面で悪鬼の如き顔で塗り固めた大スティングレイから顔を放し、同じような表情で絶叫した。
「カハッ…カハッ…ともかく…貴様はすぐに出てけ……我が家の恥…いや禁忌…産まれた事が間違い…あの場で絞め殺しておけば……」
「おい兄貴、親父の奴なんだか様子が変じゃないか?ハッパでもやったのかな?ダメだぜそういうのは。もう年なんだから」
「カ――――――ッッッ!!!!!!!」
今度はネペンテスが爆発する番だった。赤を通り越して黒に染まった顔面で悪鬼の如き顔でステッペンを睨みつけた。
「おーけーおーけー、分かったよ。理由は分らないけど二人が俺に対して怒ってるのは何となく伝わったよ。出てけばいいんだろ?おーけー。完全に理解したとも」
ステッペンは呆れたようにため息をつき、肩を竦めた。
「「カ――――――ッッッ!!!!!!!」」
二人は同時に腕を突き出し、出口を指さした。親子だね。
「ただ何分、荷物が多くてさ、全部運びだすのにそれなりの時間がいる。そうだな…少なくとも1日くれよ。それ位ならいいだろ?」
「良いから…」
「ともかく…」
「「早く消えろ…」」
ステッペンは肩を竦め、千鳥足で、ろれつの回らない口調で譫言を呟きながら退出した。
ステッペンは言われた通り自室へと向かい、その道中で何人かの使用人にすれ違い侮蔑的な視線を貰い、妹のパラライスに謂れのない中傷で罵られ、それでやっと自室に着く頃には既に陽がくれた後であった。
ドアを開け、様々な種類の本が山と積まれた自室へと入り込み、それから言われた通り部屋を片付け、綺麗に整頓し、満足して頷き、それからベッドに飛び込み、心地よい疲労感と共に眠りについた。
「おはよーございまーす」
自室から声高らかに飛び出したのは、この物語の主人公、ステッペン・スティングレイである。
「「いやさっさと出てけー!!!」」
待ち構えていた大スティングレイとネペンテスが同時に叫んだ。
あれから7年の月日が流れたが、未だステッペンはスティングレイ邸にいた。
スティングレイ家の長い一日が始まった。
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