名状しがたいあほ

@sanryuu

第1話 ステッペン・〝イカレ〟・スティングレイ

 それは俺がいつものバーで『ハッパ』を吸いながら、20年物の『処女の破瓜』をちびちびやっていた時のことだ。



「ヘイにいちゃん、こんなところでお一人かい?」



 声の方を見やると、無精ひげを生やした冒険者かぶれのおっさんが、にやけ面で突っ立っているように



 そう、見えた、だ。



 だって、俺の認識ではおっさんが立っているように見えても、それが他人にも同じようにおっさんが立っているように見えていると認識できているか、証明は出来ないのだ。



 俺の横、カウンターの一番隅で不規則に揺れて神経質そうに周囲を見渡す浮浪者のおっさんと、俺の見ている世界が、果たして同じと言えるのだろうか?



 そもそも今俺がバーの片隅でハッパを吸いながら酒をたしなんでいる事は、本当に現実なのか?今感じているこの空気が、俺の吐き出したハッパの煙が形作った夢幻の類でないと、一体どうやって証明できる?



 結局俺たちは俺たちの認識するものしか見えていないから、俺が今眼前に見えている景色と他者の見ている景色が全く同じであると俺は断言することができない。



 サンプルを集め、平均を出せたとしても、今俺の見ている景色と全く同じ景色を見ているものはこの世の何処を探したっていないわけだ。



 根気よく探してみれば、かなり程度が近いものを見ている者が見つかる可能性がゼロに近い確率だろうが存在するだろう。だけど、そんな面倒な事をするくらいなら、俺はこうしてハッパを吸ってあはあは笑っている方が、よほど建設的な行いに思える。



 同じ様でいて、やっぱり違う。



 俺たちは孤独だ。



 悲しい。なんて悲しいことなのだろう。口元が震え、零れ落ちる涙を指で払った。



 その孤独を埋め合わせるために俺たちは恋人を、家族を、友人を求め、ハッパを、酒を、性に狂ってゆく。



 恋人と仲睦まじく寄り添う事も、家族の団欒の温かみに浸る喜びも、友人と肩を並べて夕日の向こう側へ行くことの心地良さも、ハッパでラリってアへアへいうのも、度数の高い酒で明日の彼方へブッ飛ぶことも、裏路地で買う安い女との逢瀬も、結局はを埋め合わせるための代替行為でしか無いのだ。



 その事実に改めて直面し、俺は愕然とした。



 俺は震える指先で懐から『粉』の入った容器を取り出し、机に一直線に白い線を引き、なぞるように左鼻で吸い取った。



 体を脱力させ、深々とハッパの煙を吸い込み、一時目を閉じる。とたんに体中を多好感が支配した。



 ぬるま湯に身をつからせているような心地良さが全身に広がる。世界の全てが緩やかな退廃の美に彩られ、ありとあらゆるものがネオン光染みた色彩をついたり消えたりしている事ですね?



 緑色のネオン光に輝く粗末なバーの壁からピンク色のイルカがジャンプしながら楕円形の布陣を敷き、グルグルと輪を描いた。



 壁の中からネズミの声が聞こえる。ネズミだ。うん。ネズミだ。ネズミに違いない。この足音はネズミだ。そうに決まっている。だってこんなにも明瞭に聞こえるのだから。



 俺が感じるこの煩わしさも、きっと俺の沈思黙考を妨げるために魔物たちが遣わしたネズミたちの仕業に違いない。俺の思考がふわふわしているのも、この壁の裏側を駆けずり回るネズミ共がやったのだ。他の者どもには足音の聞こえないネズミがやったのだ。ネズミ共だ。壁の中のネズミ共の仕業なのだ。



 なるほど、道理でこうも他者との認識がかけ離れているわけだ。全てはネズミだったのだ。



 だから俺はあえて見えたと形容したわけだ。ワカル?ワカラナイ?



 どっちにしろ、俺にはそう見える。うん。ワカル。うん、うん。



「おい、お前!聞いているのか!?」



 何処からか声が聞こえた。



 声の方を見やると、無精ひげを生やした冒険者かぶれのおっさんが、怒り顔で突っ立っているように



 そう、見えた、だ。



 だって、俺の認識ではおっさんが立っているように見えても、それが他人にも同じようにおっさんが立っているように見えていると認識できているか、証明は出来ないのだ。



 …。



 ……。



 ………。



 …………はて?



 俺は小首をかしげた。なんだかひどいデジャビュに襲われたからだ。



 こんなやり取りを、前にもやったような気がした。必死になって考えてみるも、頭の中はミルク色の濃霧の中を直進しているかのように朧気でつかみどころが無い。



 何だろう、何か大切な事を忘れている気がする。



 がむしゃらに走ってきた人生で、ふと立ち止まり、背後を振り返ってみたくなることもある。



 誰しもが前を向いて歩けると、断じることができない様に、ふと自分の立ち位置が分からなくなる時がある。



 右を見ても左を見ても真っ暗闇。途方に暮れているその時、夢とか愛とか希望とか、そんないつの間にか手の平の上から零れ落ちていったもの共らが、不意に、頭の片隅で遭難した時の目印にしていた星のように鮮烈にきらめいた。



 俺は刮目した。瞬間、俺の脳裏に、この世界に転生した当初の出来事が氾濫した川のように溢れ出した。



 貴族の家に生まれ、不自由のない暮らし。愚かな兄と、馬鹿な妹からの。父から浴びせられる



 酷い記憶ばかりだ。だが、それだけではない。



 暗い記憶が押し流され、煌くような記憶が夜空に瞬く天の川めいて光を称える。



 前世では存在しなかった魔法との出会い。魔導書を読み漁る幼い時の自分。金にものを言わせて取り寄せた古い時代の魔術書たち。



 。両腕を開き、暖かく俺を抱擁してくれた沢山のもの。彼らに囲まれる日々の、何と素晴らしきことか!



 嗚呼!



 俺は号泣した。



 そうだとも、そうなのだとも!世界は見方次第でいくらでも闇に溢れ、また希望に満ちているのだ!



「いい加減にしろ、おい!」



 何処からか声が聞こえた。



 顔を上げて涙を払い、声の方を見やると、無精ひげを生やした冒険者かぶれのおっさんが、憤怒の表情で今にも掴み掛らんばかりに詰め寄ってきているように



 そう、見えた、だ。



 だって、俺の認識ではおっさんが立っているように見えても、それが他人にも同じようにおっさんが立っているように見えていると認識できているか、証明は出来ないのだ。



 …。



 ……。



 ………。



 …………はて?



 俺は小首をかしげた。なんだかひどいデジャビュに襲われたからだ。



 こんなやり取りを、前にもやったような気がした。必死になって考えてみるも、頭の中はミルク色の濃霧の中を直進しているかのように朧気でつかみどころが無い。



 何だろう、何か大切な事を忘れている気がする。



「いいかげ…この、この!」



 突然の浮遊感に何事かと目を見張れば、おっさんが俺の胸ぐらをつかみ上げ、額が付かんばかりに顔を近づけて鬼のような顔で睨みつけてくるではないか。



 俺は反射的に殴りつけ、ひっくり返ったおっさんの脇腹を何度か蹴りつけた。



「うっぐふ…やめ…やめて……」



 胎児の様に縮こまっているおっさんに小首をかしげて不思議に思い、とりあえずしゃがみ込んでおっさんの懐をあさり、財布を抜き取って中を確認した。



 それからおっさんに顔を向け、手を差し伸べた。



 不思議そうにこちらを見上げるおっさんの手を掴んで立ち上がらせ、座るように促す。



、とりあえず飲もうぜ」



 誰にだって知られたくない秘密はある。子供のように我を忘れてしまいたい日だってきっとある。そういう時は手を差し伸べて、一緒に酒を飲んで忘れてしまうのが一番だ。



 バーテンが俺たち二人の間にジョッキを置く。ジョッキになみなみ注がれたビールは黄金色に輝き、白い泡が待ちきれんばかりに溢れて床に垂れていた。



「俺たちの出会いに!」



 俺が高々と掲げるジョッキと自分の前に置かれたジョッキとを交互に見て、それからおっさんはおっかなびっくり手に持ち、意を決して高々と掲げた。



「「俺たちの出会いに!」」



 俺たちは同時に口をつけ、同時に飲み干し、同時にジョッキをカウンターに叩きつけた。



 それから顔を見合わせ、互いの口元に着いた白髭めいた泡を指さしてゲラゲラ笑った。



 腹を抱えて笑い、目の端の涙を払い、肩を組み合って、太陽がさんさんと差し込む朝方の外へと飛び出していった。









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