第二十三話
今日も柏茶屋は黄色い声に包まれている。もちろんあの男だ。彼女たちには全く興味を持たずに真っ直ぐ蜜柑太夫の部屋へ行く。
「あたしだよ、入るよ」
唐紙を開ける前に、すすっと勝手に開いた。足元にお清がいて「ようこそおいでくださいました」とたどたどしく言った。
悠は涼しい顔で入ると、お清が再び唐紙を閉めるのを待ってから彼女を抱き上げた。
「この前より少し重くなったね。いいもの食べさせてもらってるのかい?」
「あい」
「可愛いねぇ、お清は」
「兄さんのお耳の玉も綺麗です」
「これは珊瑚だよ。海の中に生えてるのさ」
「いつまでそうやってお清を抱っこしているつもりですか。いい加減に下ろしてください」
振り返ると蜜柑太夫が呆れかえった目で悠を見ていた。
「たまにしか女を抱けないんだ、許しとくれよ」
「言い方! お清が変な言葉を覚えたらどうしてくださるんです!」
「あたしの嫁に貰おうかね」
「お清、廊下に出ていなさいね」
「あい」
素直に出て行くお清に後ろ髪をひかれつつ、悠は「刻みいいかい?」と煙管を出す。
「どうぞ。で、今日は何の用です?」
悠は煙管に刻みを詰めながらボソリと言った。
「七篠先生っていう医者を知ってるかい?」
「聞いたことはありますけど、お名前しか存じ上げません。何のお医者様ですか」
悠は誰もいない部屋をひととおりぐるりと見渡してから声を潜めた。
「安楽死」
太夫が一瞬目を見開く。がそれもすぐに何事もなかったような表情に戻る。
「わかりました。それを調べるんですね」
「あたしの見立てじゃ
「阿片くらいで死ねるものなのですか」
「あれはぼんやりと幻覚を見たりして幸せな気分になるんだよ。その合間にね」
「なるほど、わかりました。その出どころを押さえたいということですね」
「さすがお奈津は話が早い」
「だからその名前で呼ばないでって言ってるでしょう」
「ああ、すまないね。昔の癖でね」
「全然悪いと思ってませんね」
蜜柑太夫がちょっと膨れて見せると、悠が満足げに笑った。
「たまにはお奈津の怒った顔も見たいのさ。奈津は怒った顔が一番魅力的だからね」
「わざとだったのですか」
「わざとだったら?」
「もう悠さんに情報は渡しません」
悠はくすくすと笑った。
「やっぱりお奈津は怒った顔が一番いい」
「幼女趣味はどうなさったんですか」
「もちろん女は幼女に限るよ」
蜜柑太夫は少々あきれ顔になって視線を逸らした。
「そういうことをいけしゃあしゃあと」
ふと、悠は三味線に目を留めた。
「久しぶりに三味線なんかどうだい」
「悠さんがここで三味線を聴きたいだなんて珍しいですね」
「今日はあたしが弾きたいんだよ」
急に太夫の機嫌が悪そうになった。
「どうしたんだい、そんなにムクれて」
「どうしたもこうしたもありませんよ。先日悠さんがここで三味線を弾いて行った日、他の芸者から言われたんです。『太夫、今日の三味線はいつもと違って妙に色気のある音でしたよ、悠さんがいらしてたからですか』って。それでいつもはどうなのかって聞いたら強気で意思のある音だって。悠さんの音はしなだれかかるような艶っぽい音なんですって。もう嫌になっちゃう」
「楽器は正直にその人を表しますからねぇ」
「もう、知りません!」
悠は座敷を出ようとする太夫の腕を取って肩を抱き寄せた。小さく悲鳴を上げた太夫の耳元に悠の囁くような声が聞こえた。
「アヘンの調査はとても危険だ。気を付けて」
「わたしを誰だと思ってるんです」
「奈津」
「だからその名は!」
太夫は悠の手を振り払った。悠の手は思いがけず力強く、本当に彼女の身を案じていることが伝わって来た。
「じゃ、あたしは帰るよ。お見送りは要らないよ」
「お見送りなんかしたことないじゃないですか」
「たまにはどうだい」
「また心にもないことを。私よりいい子に見送らせますから」
「奈津よりいい女なんかいるもんかい」
「お清、いらっしゃい」
「あい」
声がして唐紙がすすっと開いた。
「いたね」
「悠さんがお帰りです」
「あい」
悠がお清と手を繋いで振り返った。
「じゃ、また来るよ」
「はい、とっとと帰ってください」
笑いながら背を向ける悠の後姿を見ながら、太夫は「どうして悠さんには素直になれないのかしら?」と首を傾げた。
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