第二十二話
柏原も桜が散り、黄緑色の葉が出始めた。お恵がここに来るのは二十日ぶりくらいだろうか。
「おじさん、こんにちは」
「おや、お恵ちゃん。ご無沙汰だったね。もう松太郎が待ちかねてるよ。今休憩中だから呼んで来てあげよう、そこの縁台に座って待っていておくれ」
「ありがとうございます」
徳屋の主人が奥へ引っ込んですぐに松太郎が飛び出してきた。
「お恵さん。こんにちは。あの、旦那様が休憩をゆっくり下さるからって、椎の木川の桜でも見ておいでって。あの、もう散っちゃったかもしれないんですけど」
久しぶりに見る松太郎は二十日前よりなんだか大人びて見えた。だが行動が子供っぽくて、お恵は思わず笑ってしまった。
「うん、もうほとんど花は散っちゃったけど気持ち良かったわよ、行きましょ」
二人連れだって行くと、既に桜は終わってはいたものの
お恵が適当に河原の土手に腰を下ろすと松太郎も隣に座った。
「徳屋さんの御主人、優しいね。こうしてたまに休憩くれるの?」
「あ、その、お恵さんが来た時は特に」
「ねえ」
お恵は急に松太郎の方に体をひねった。急に顔が近くなったので松太郎は一瞬のけぞった。
「二人の時までそんな奉公人みたいな口の利き方しないでよ。ここではただのお友達でしょ? お店だったら奉公人とお客様だけど」
「そ、そうですね」
「だから、そうですねじゃなくて、そうだね、だよ」
「そうだね」
二人とも赤くなってはいたが、お互い自分の顔を見られたくなくて俯いていたのでどちらにも知られることは無かった。
「それで、私に何か話が?」
「ううん、顔を見に来ただけなの。今日はお仕事が無いから」
お恵はちょっと舌をペロッと出してみせた。
「どうです、五人兄弟は」
「ほらまた。どうです、じゃなくて」
「あ、そうでした。五人兄弟はどう?」
「やっと文字を覚えて、算術に入ったところよ」
「お恵さんは教えるのが上手そうだね」
再びお恵は松太郎の方に体をひねる。
「ねえ、お恵さんてのもやめない? あたしたちお友達なんだもの。お恵でいいわ」
「えっ……それじゃあ……お恵ちゃん?」
「うん、そうしよ!」
お恵は非常に満足そうだが、松太郎の方は居心地が悪そうだ。恐らくお恵の方が年上だからだろう。でも松太郎と同い年の凍夜は最初から『お恵』と呼んでいた。育ちの違いが影響しているのかもしれない。
「あたし、人に勉学を教えるのってまだ二回目なの。一人目は呑み込みが早くてすぐにあたしなんかいらなくなっちゃった」
松太郎は手近にあった小石を川に向かって投げた。ポチャンと音がして小さな水滴が上がった。
「その第一号が羨ましいよ」
「凍夜のことよ。彼、三郎太さんのところに住んでたの」
「え、そうなの? どうして?」
「凍夜も両親を殺されたの。おっ母さんのお腹にはもうすぐ生まれる赤ちゃんがいたんですって。両親を殺されていきなり一人ぼっちになった凍夜を、三郎太さんがほっとけなくて一緒に住むようになったのよ」
「それなのに出て行ったの?」
「うん。両親の敵討ちをするって言って出て行ったわ。立派に敵討ちをしたらしいけど」
松太郎はふぅと大きなため息をついた。
「凄いな。私にはできない」
そう言って松太郎はもう一つ、小石を川に投げ込んだ。
「そうか、だからあの時お清と私を逃がそうとしてくれたんだな、凍夜は。うちの場合は殺されても仕方ないようなことを両親がしてたから、遂に来たかっていう感じだった。奉公人を大切にしなくてね、調剤師すらないがしろにする有様だったから私が父上に注意したくらいなんだ。そんなことしてたら身内に殺されるよって。まさか本当にそうなるとは思わなかったけど」
それはそれで壮絶な体験ではある。
「耐えられなくてやめて行った人も何人もいて。甚六さんなんかまさにそれだよ。さっさと独立して自分で薬を調合して医師に売ったりしてる。確か暗黒斎先生のところにかなりの量を届けてたと思うよ。甚六さんは麻酔の専門家だからね」
「それで子供を五人も養えるなんて、お薬屋さんって儲かるのね。こうして寺子屋の派遣も頼めるくらいだし」
松太郎はちょっと不思議そうに首を傾げた。
「そうなんだろうね。私はお店のことはよくわからなかったけど」
「今では辰二郎さんが
「辰二郎は体も大きいし力持ちだからね」
「帳簿は几帳面な卯一郎さんに任せたいみたいよ。実際、卯一郎さんが一番算術が得意なの。下の三人は薬草を洗ったり干したりする手伝いをさせられてるみたい。この間行った時、面白そうだったから手伝わせてほしいって頼んでみたけど断られちゃった」
「素人が手を出すと危険だからね。毒になるものも多いし、扱い方をわかっていないと危ないから」
「うん、そう言われた」
「特に午三郎は小さい割に薬草に詳しいからなぁ。午三郎の言うことを聞いておけば危険な事にはならないよ」
だんだん松太郎もお恵に慣れてきたようで、言葉遣いも砕けて来た。お恵はそれが嬉しかった。
「彼らも調剤師になるのかな」
「わかんないけど、いずれ家族総出で生薬屋をやるって言ってたわ」
「そうか、松清堂がなくなっても生薬屋はなくなられちゃ困るもんな」
お恵は松太郎の寂し気な横顔を見て心配になった。なんのかんのと言っても松太郎はまだ九つだ。今のところは徳屋が良くしてくれているらしいが、元服してもこのまま徳屋に奉公するのだろうか。
「ねえ、松太郎さんは元服したらどうするの?」
「今はまだ考えられないよ。お恵ちゃんは?」
「あたしも。でも人にものを教えるのは楽しいわ。あたしも寺子屋の師匠になるかもしれない。だけど所帯を持ったら続けられなくなるかなぁ?」
松太郎は「そんな簡単な事」と笑った。
「寺子屋の師匠を続けさせてくれる人と所帯を持てばいいんだよ」
「そんな人いるかしら。あたしがお嫁に行けそうになかったら松太郎さん貰ってくれる?」
軽く言ったつもりだったのに、松太郎は目に見えてうろたえた。
「えっ? あっ」
「嫌だ、冗談よ、冗談」
「いや、お嫁にもらうよ」
「えっ?」
「あはは、冗談だよ、冗談」
冗談の割には二人とも赤くなっていた。
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