第十一話

 寒さもだいぶ和らぎ、梅が桃に花の盛りを譲るころ、お恵について行った三郎太は偶然楢岡の町で榎屋の母子に遭遇した。

 一瞬別人かと見間違えるほどおかみさんは瘦せ細っていたが、表情は明るく元気そうだった。間違えずに済んだのは、お玉が相変わらず玉のような体型だったことと、おかみさんの顔にはっきりと死相が出ていたからかもしれない。これは三、四日持てばいい方だろう。

 三郎太が声をかけようかどうしようかとまごまごしているうちに、お玉の方が気が付いて声をかけて来た。

「三郎太さんじゃないの」

 三郎太はたった今気が付いたかのように「おっ? お玉ちゃんじゃねえかい」とうそぶいた。

「やあ、おかみさんもお元気そうで何よりです」

「ええ、家を出るまではふさぎ込んじゃってここまで来られるかどうか心配だったんですけど、七篠先生のところへ行くとこの通り。それもこれも三郎太さんのおかげですよ。本当にいい先生をご紹介くださってありがとうございます」

 おかみさんに頭を下げられて、居心地の悪いことこの上ない。

「おいらは七篠先生を知らねえし、噂を聞いただけだから、要らぬお世話の焼き豆腐なんだけどよ」

 だが、お玉の方が母親に見られないようにちょっとだけ困ったような顔を見せた。三郎太は彼女が何か話したそうにしているのを察して「あとでちょっと榎屋さんに用があるんだけど、お玉ちゃんお店にいるかな?」と聞いた。お玉は嬉しそうにしながらも極力冷静な声で「はい、お待ちしてます」と言った。きっと母親には聞かれたくない話があるのだろう。

 三郎太は母子と「それじゃ、またあとで」と言って別れると、少し楢岡で仕事をしてからお恵と一緒に帰った。


 三郎太が昼餉をはさんでから榎屋に行ってみると、まるでずっと待っていたかのようにお玉がすっ飛んできた。

「三郎太さん、ちょっと外に出ましょう」

「お、おう」

 よほどお店の者にも聞かれたくない話なのだろう。そそくさと出ていくお玉に三郎太は足早についていった。

 そのまま黙ってお玉についていくと、いつもの椎ノ木川の河原に着いた。最初に彼女がぼんやりとしていた場所だ。

「なんかおいらに話があったんだろ?」

「ええ。相談っていうか、聞いてもらうだけでいいんです。愚痴みたいなものだから」

 三郎太にはそういう役割がやたらと回ってくる。彼自身も自分が適任だという自覚があるのであまり断ることは無い。だが、他人の愚痴ばかり聞いていると禿げるんじゃないかと気が気ではないのも確かだ。

「実は七篠先生のところへ行くのは今日で三回目なんです」

「もうそんなに行ってるのかい?」

「ええ」

 だがお玉の顔は冴えない。

「確かに母は七篠先生のところへ行った日は調子がいいんです。麻酔効いてますし、痛みもわからなくなるらしいんです。でも、翌日になるともうダメ。近頃では毎日七篠先生のところへ行きたがるんですけど、お金もかかるし、そうそう行ってばかりいられないじゃないですか。」

 そもそも医者などというものはやたらと通うようなものではない。三郎太みたいな庶民は一生に一度かかればいい方だ。

「ところで七篠先生のところで一体何をしてるんだい? おいらの頭はウニかホタテか、麻酔ってのがよくわからねえんだが」

 これにはお玉も首を傾げた。

「実はわたしもよくわからないんですよ。わたしは中に入れていただけないんです。玄関の土間のところに薬樽がいくつか置いてあって、そこで待つように言われてるんです。母に聞いても麻酔効果のある煙を吸うだけだって言うし、どんなものなのか私にはよくわかりません。あ、いけない。これは、外の人には言っちゃいけないんだった。三郎太さん、今の話は聞かなかったことにしてくださいね」

「聞かなかったことにするから、七篠先生の診療所の話、もう少し詳しく教えてもらえるかい?」

「わたしもほとんどわからないんだけど」

「いや、ほら。建物がどうなってるとかさ」

「そういうことなら。待ってる間に外をうろうろしましたから」

 お玉は少し考えて「あ、そうそう」といった。

「診療所は奥に向かって長いんです。入ったところに三畳ほどの土間があって、すぐに三和土があります。そのまま左側と右側に廊下があって、真ん中にお部屋があるんです。そのお部屋が奥に向かってたくさんある感じで。いくつあるのかわかりませんけど。一番手前のお部屋は家族との面談なんかに使うお部屋です。わたしもそこまでは通されました。そこでおっ母さんの病状とか暗黒斎先生に言われたこととかお話ししました」

「部屋の両側に廊下があるのかい?」

「そう。患者さん同士が廊下で出くわさないようにしてるのかも。なにしろもう先のない人ばかりだから、商売上のお知り合いだったりしたら気まずいからだと思うわ」

 さすがそこそこのお店の娘は目の付け所が違う。

「面談部屋の奥は?」

「麻酔をかける部屋だって。おっ母さん、もう体じゅうが痛くてどうにもならないけど、そこで麻酔をかけてもらうと痛みがスーッと引いて、気分が良くなるって言ってた」

「その部屋より奥のことは知らねえんだな?」

「うん。まだおっ母さんも入ったことは無いの。あの……大きな声では言えないんだけど……」

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