第十話
お恵が徳屋へ行くと、徳屋の主人は用もないのに「ちょっと手が離せないから窺ってきなさい」と松太郎を向かわせた。彼ら二人を取り巻く環境は当事者たちにかなり気を遣っているのだが、当の本人たちは周りにもお互いにも気づかれていないと思っている辺りがなんとも可愛らしい。松太郎がしゃちほこ張って「いらっしゃいませ、如何なさいますか」なんて言うのを聞いて、主人も客も笑いをかみ殺しているのだが、そんなこと当人たちが気付くわけもない。
「栄吉さんにお茶を頼まれたんだけど、お茶の銘柄聞いてくるの忘れちゃった」
「えっ? 栄吉さんの飲まれるお茶の銘柄ですか……確か『水仙』だったような」
オタオタする松太郎の助け舟を出すように、徳屋の主人が割り込んだ。
「それならまたおいでになればよろしいですよ。そちらの縁台をお使いください。今お茶をお持ちしますからね」
「あ、でも」
「いいんですよ。お恵ちゃんがそこでお茶を美味しそうに飲んでくれると、お客さんが『あれを欲しい』と言ってくださるのでね。松太郎も一緒にそこで休憩しなさい」
「相済みません。ありがとうございます」
松太郎とお恵は恐縮しまくりだが、主人を含め、お客もみんなわかっているのでニヤニヤして見ている。
「どうです、甚六さんのところは」
松太郎はずっと気になっていたことを真っ先に聞いた。なにしろ自分が斡旋したようなものだ。女の子一人で毎回楢岡まで通わなければならないわけで、気にならない方がどうかしている。
「楽しいわよ。いつも三郎太さんが送り迎えしてくれるの。あっちの方で商いをするから一緒に行くって。本当はあたしのためについて来てくれてるのバレバレなんだけどね」
「三郎太さんて優しいんですね」
「うん。だから大丈夫よ、安心して」
そこに主人自らお茶を運んで来る。
「お恵ちゃん、うちのお茶をいっぱい宣伝しておくれ」
「はい、もちろんです。いただきます」
主人が去ると、松太郎が質問を再開した。
「どうです、五人はちゃんと勉強してますか」
「うん。みんな頑張り屋さんよ。いつも教えるばかりじゃないの。薬草のこともたくさん教えて貰ってるんだ。特に午ちゃんがすっごく詳しくて、
一瞬、松太郎が寂しそうに目を伏せたのをお恵は見逃さなかった。
「でも、そういうのって松太郎さんにも教えて貰えるのよね。松清堂の主人になるはずだったんだもん」
「いえ。主人というのは必ずしも詳しい必要はないんです。そりゃあ詳しいに越したことはないけど……腕のいい調剤師がいてくれればそれで。甚六さんがお店を辞めたのは痛かったな。でもそのお陰で甚六さんは火事に遭わなくて済んだ。不幸中の幸いです。今こうしてお恵さんが甚六さんちの五人兄弟と楽しくやれているのだからよかったですよ」
――どうしてそんな淋しそうな顔をするの?
「でもあたし、松太郎さんと一緒にいる方が楽しいわ。教えるだけじゃつまらないもん。松太郎さんは学があるから楽しいの」
松太郎は少し嬉しそうに顔を赤らめた。
「あたしがここでお喋りしていたらお仕事にならないわね。ごめんなさい、気がつかなくて。手ぶらで帰るわけにもいかないから、どれか買って行くわ。栄吉さんはいつもどれを買ってるのかしら」
松太郎は栄吉がいつも『水仙』を買っているのを知っているが、悠が栄吉のためにちょっと高級な『菖蒲』を買っているのも知っている。さてどう返事をしたものかと考えていると、主人が出て来て『菖蒲』の袋を差し出した。
「いつもこれなんですけどね、お恵ちゃん今日は何も言われなかったんでしょう? それなら新しいものに挑戦するのもいいかもしれませんよ。これなんかどうです『金木犀』って言うんです。いわくつきでね」
主人が片目を瞑って見せた。
「どんないわくつきなの?」
「悠さんがお恵ちゃんくらいの頃、私の父にこれを飲まされて、どのお茶か当ててみろって言われたんですよ。そのとき悠さんは涼しい顔で『これは金木犀にしましょう。飲んだことのないお茶です』って一発で当てたっていう代物ですよ。持って行ったら悠さん笑うだろうねぇ」
——そういえば悠さんはあたしくらいの時、ここの専属絵師だったんだものね。
「そういうの、いつも松太郎さんから聞くのよ。悠さんから聞いたことなんか一つもないわ」
「いいじゃないですか、松太郎に会うたびに何か一つずつ判明するかもしれませんよ」
「じゃ、何度も会いに来なきゃ」
「ええ、ええ、そうなすって下さい。店先に可愛らしいお嬢さんがいれば、お客さんも自然と立ち寄りたくなりますから」
「えへへ。どうもありがとう」
徳屋の主人のお世辞とわかっていても悪い気はしなかった。何よりまた松太郎に会いに来られるのが嬉しかった。
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