第十二話

「その奥は、家から通って来られない人が入るって聞いたの。もう後は死ぬのを待つだけっていう人。ここで死ぬのを覚悟してる人」

「ん?」

「そういう人はその日のうちか翌日には亡くなってるわ。七篠先生が麻酔薬をたくさん投与して、痛みがわからないようにしてってさし上げるんですって。おっ母さんもそれを望んでるの」

「それって安楽――」

「それ以上言っちゃダメ。死にたくても死ねない人たちみんなの希望なの」

 お玉はすでにおかみさんが亡くなってしまうことよりも、おかみさんが苦しまずに逝けることを願っているらしい。それはそうだ、いずれにしろ近いうちに亡くなることがわかっているのなら、安らかな死に顔であってほしいと願うのは理解できる。

「そういう人の部屋はいくつあるんだ?」

「わかんない。一つか二つだと思う。だけど一番奥にはお薬を片付けている納屋があると思うの。たくさんの麻酔薬がすぐに出てくるって言ってたから」

 他ではどうか知らないが、柿ノ木川の郷では安楽死はご法度である。もし知れたら七篠先生は死罪になるだろう。運が悪ければ榎屋もお取り潰しになり、お玉と父親は路頭に迷うことになる。お玉の祝言も無かったことになるだろう。

「あたしね、もうおっ母さんのしんどい顔を見るのが辛いの。さっきも三郎太さんに会う直前まで、明日も七篠先生のところへ行くって言ってたの。しかも次に七篠先生のところへ行ったら榎屋の敷居は跨がないって」

「え、それって」

「そう、死にに行くの」

 お玉が静かにぽろぽろと泣き出した。

「おっ母さんにはずっとそばにいて欲しいの。ずっとずっとそばにいて欲しいの。でも、あんな辛そうなおっ母さん見ていられない。早く楽にしてあげた方がいいんじゃないかって気もして。七篠先生のところなら苦しまずに逝けるから。でもそんなことを考えている自分が嫌で……」

 そこから先はもう言葉にならなかった。結局のところ、お玉とご主人が判断するしかない。三郎太には話を聞いてやることしかできないのだ。

「最初は血の道症だったのよ、暗黒斎先生だってそう言ってたもの。あたし、納得行かなくて七篠先生にも言ったの。血の道症でこんなことになるなんておかしいって。だけど七篠先生も暗黒斎先生が正しいって言うの。血の道症にはいろいろあって、子供があたし一人しかいないのもそのせいだって。産道にね、大きな腫物があるんだって。それでもあたしを産んでそのときは良かったけど、腫物があちこちにできてしまって、今じゃ胸や肩口にも見ただけでわかるような大きな腫物があるの。それも堅いしこりで」

 それは助からない。それくらいは三郎太にだってわかる。むしろ今でも生きているのが不思議なくらいだ。

 いつも味噌樽が歩いているようなあのおかみさんが、即身仏のように骨と皮だけになっていた。あと数日も持たないだろうし、おかみさん自身もそれを悟っているのだろう。

「もう身の回りの整理も済んでるの。あとは七篠先生のところへ行くだけ。おっ母さんはもう清々しい顔してるのよ。これでもう痛みから解放されるって。唯一の心残りはあたしの花嫁姿を見ることができないことだって。あたしは明日、おっ母さんを七篠先生のところに送らなくちゃいけない」

 どちらの立場になってもいたたまれない。が、三郎太は唐突にいいことを思いついた。

「なあ、祝言挙げねえか?」

「もう婚約破棄されたのよ」

「本当に夫婦になる必要なんかねえよ。お玉ちゃんの花嫁姿を見せるだけでいいんだ。何より心残りを残したまま逝くのがいけねえんだ、満足して逝ってもらった方がお玉ちゃんだっていいだろう?」

「でも秀次さんとは破断になったのよ」

「だから芝居を打つのさ。家のために秀次と婚約していたが、本当は思い合った人がいたんだってことにすりゃあいい」

「そんな都合よく芝居に付き合ってくれる人がいるかしら」

「おいらならいくらでも付き合うけど、歳が歳だから釣り合わねえしな」

「やっぱりいませんよね」

「そんなこたあねえよ。うちの長屋の悠さんはかなりの男前……だけど花嫁より目立っちまうからなぁ。あ、待てよ、とっておきのやつがいるぞ。ちょっと問題はあるが、その日だけ普通にしていて貰えば」

「三郎太さんの友達ってみんな普通じゃないの?」

「ああ、こう見えておいらが一番普通だ。とにかくお玉ちゃんはこれから家に帰っておっ母さんに明日七篠先生のところへ行っても帰ってくるよう説得するんだ。それでおっ母さんに本物の祝言を見て欲しいって言っとけ。おいらは花嫁衣装と婿役をどうにかしてくる。明日だから大した準備なんかできなくていい。とにかくまずはお父つぁんを巻き込め」

「うんわかった。今すぐ帰ってお父つぁんに話してみる」

 くるりと向きを変えて駆けだしたお玉を見て、三郎太も枝鳴長屋へ向かった。背後でお玉の声がした。

「三郎太さん、ありがとう!」

 大きく手を振るお玉に、三郎太も大きく手を振り返して、枝鳴長屋へと急いだ。

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