付箋8:A Sky Full Of Stars

 その日、仕事へ行く準備をしながら早朝の情報番組を見ていた。というか時間と天気を確認する程度で流し見だ。当時の私はカフェの早番要員として4時前に起きて5時前に家を出るという生活で、朝は眠気に加え時間との戦いだった。


 流れてきたスポーツニュース。彼はフィギュアスケートのキスクラ(キスアンドクライ)に座っていた。


 仕事もあり、録画しておいた試合を見ることが出来ていなかった。なのに早朝の情報番組でその結果だけを知ることになった。やってしまった。ちょうど2014年世界フィギュアスケート選手権が始まっていた。


 彼はショートプログラムの演技を終え、息が上がったまま得点が出るのを待っていた。


 点数が出る。


 驚きと安堵が交じり合うような、そんな笑顔がこぼれた。


 その表情を目にした途端、だった。一瞬で彼に落ちたのだ。


 速度を可視化するとしたら、さながら綿飴をお湯にぽちゃん、としたような、瞬く間に溶けて無くなるあの感じなのだが……伝わりにくいか。語彙よ(笑)


 彼の事はもちろん知っていた。


 私はカフェ勤務以前に保育関係の仕事をしていた。その頃担当していたお子さんがフィギュアスケートをされていて、ほぼ毎日スケートリンクにいたのだ。活躍されてる選手の皆さんの事も話題になるので、放送があれば必ず見ていた。とは言っても生では見たことのないライトなフィギュアスケートファンだった。


 保育の仕事からカフェ勤務になってからも、試合やアイスショーをテレビで見て応援することに変わりはなかった。2013年に行われたオリンピック出場選考がかかった全日本選手権も見ていたし、彼が見事代表に選ばれたソチオリンピックも見ていたのだ。どの選手も応援していた。なのに。


 (一体何が起こった?今までこんな事なかったじゃん)


 音楽が好きで、気に入ったアーティストのライブに行く事はあった。好きな俳優さんのドラマを見たりもする。でも、それじゃない。


 (沼に落ちる)という言葉を知った。

 突然沼に落ち、推しができたのだ。


 (※補足なのだが、私は沼と推しという言葉をほとんど使わない。あえて今は分かり易く伝える方法としてその表現を用いている)


 それは置いといて(笑)


 そこからの私は凄かった。怒涛の如く彼の演技映像を見て、今までの動向を全てチェックした。載っているスポーツ雑誌を買い漁り、そして間近に行われるアイスショーのチケットも即買った。彼に関する事は全て把握したかった。


 今までテレビの前で応援していたフィギュアスケート選手のひとり。……じゃ無かったのかもしれない。彼のスケートが始まると見入っていたし、インタビュー等で発する言葉はひと味もふた味も違って興味深い。その度に(彼は面白いな(笑))と思っていた。


 ソチオリンピックの最中にも、ある発言が話題となったのだが、やはり言葉のチョイスがなんとも心惹かれる。その時も(やっぱり彼は最高だな(笑))と感じた。


 かつ知的で印象的なのだ。それに加えて話し方や声のトーンがとても心地良い。「1/f(f分の1)ゆらぎ」の持ち主だと勝手に思っている。


 何よりも彼の演技はとても魅力的だ。氷の上に立つとその瞬間、彼の作り出す世界に惹き込まれる。氷上が劇場と化す。


 ……そう、いつの間にかこんなにも気になっていた。


 あの日の笑顔が一瞬で私の人生を変えた。そう思っていたけれど、沼というものが本当にあるのであれば、私は既に片足を突っ込んでいたのでは無いか。そしてあの笑顔でついに頭の先まで一気に沈んだのかもしれない。


 私の世界に色がついた。日々の生活に拍車がかかり、足取りも軽い。彼について調べていると食べるのも忘れ7kg痩せた。数kg程リバウンド気味だったから最高の相乗効果となった。


 それまでどんな風に生きてたんだっけ。いや、友達とご飯を食べたり遊びに行ったり、それなりに楽しかったはずだけど、今まで見ていた世界はどんな色だった?


 ……考えてみたら色など無かった。


 気付かぬうちに私に覆いかぶさっていた日常という名の薄暗いベールのようなものが一気に剥がされたような、そんな感覚だった。


 ──────


 駆け足で素晴らしい推し活ライフの始まりを書いてみたが、なんとその日から10年が経つ。


 相変わらずプリズムの光のような世界を見せてくれる我が推しの表現活動に心を支えられ、私は日々頑張り、生きている。あの日から変わることなく、一ファンとして彼の活躍を心から応援している。


 ──Fall in 沼以降の彼の経歴を簡潔に説明しておこう。


 ソチオリンピック、世界選手権を経て、2014年全日本フィギュアスケート選手権大会終了後に現役引退を電撃発表。将来的に研究者を目指すべく、翌年の春から大学院へと進学する。同時に研究の一環としてプロスケーターとしても活動され、数々の作品を作り上げた。そして2018年10月6日にフィギュアスケーターを完全引退。その後、博士号を取得した彼は、現在大学で教鞭を執っている。尚、今も表現者としての創作活動は立ち止まることなく、様々な形で発表し続けている。


 ……timshel(※)


 題名にした【A Sky Full Of Stars】。Coldplayの楽曲なのだが、彼の創作したプログラムで使われたものではない。これは、あるアイスショーのオープニングにて、彼も出場スケーターの1人として滑っていた時に使用された音楽なのだが、私はこの曲を聴くと2015年の彼と、彼を見ていた自分を思い出す。


 大学院の学生として、そしてプロスケーターとして歩き始めた彼が、氷に刻んだ力強く美しいトレース。この時の振り付けが音楽と共にとても印象に残っている。


 その頃の彼と言えば、一大学院生という立場から表現活動は研究の一環とし、作品を創作し披露する以外、公には姿を見せず何も語らず、自身の存在は極力消すことに務めた。ただひたすらに学業と研究に精進し歩みを進めていた。


 私はと言えば、そんな彼の氷の上の姿を見ながら、漠然とした不安に怯えていた。いつかは氷上の彼を見られなくなる日が来る。そうなったら彼にはもう逢えないかもしれない、と。


 この曲を聴き、その時の事を思い出すと、私は少しだけ胸がキュッとなるのだ。


 歩みを止めず突き進みながら眩しい姿を今も変わらず見せてくれる彼を横目に(そんな時もあったな……(笑))という想いを愛おしむ私なのだった。


 




(※)・・・あえて説明は書かずにおくので気になる方は調べてみてください

 

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