第85話 初のライバル対決

 ミヤムラシンゲキオー。父・デヴァステイター、母・ナイチンゲール。種付け料は500万円。決して評価が高くはなかった、その仔はオーナーや調教師、騎手の予想をはるかに超える、存在へと確実に成長を続けていた。


 対する長沢春子の持ち馬、ナガハルホクトオー。こちらは種付け料が1500万円。ミヤムラシンゲキオーの3倍の料金だった。


 実際に過去には100万円程度の種付け料で重賞を制した馬もいる。


 結局は、「運」が大きく絡むのが競馬とも言える。


 2007年12月9日(日) 中山11Rレース 朝日杯フューチュリティステークス(GⅠ)(芝・1600m)、天気:晴れ、馬場:良


 綺麗な冬晴れの景色が広がる、中山競馬場で、今、伝説の「第三章」が始まろうとしていた。


 新馬戦で驚異の9馬身、2戦目で6馬身。つけた着差が15馬身のミヤムラシンゲキオーは、単勝1.6倍という、子安ファーム始まって以来初とも言える、人気を獲得。4枠4番に入る。

 スポーツ新聞の馬柱には、ズラっと◎が並んでおり、それを眺める圭介は上機嫌だった。


 一方、新馬戦で8馬身、2戦目で4馬身。やはりこちらもつけた着差が12馬身のナガハルホクトオー。単勝2.8倍の2番人気で、6枠6番に入る。馬柱には◎と〇が混在していた。


 騎手は、ミヤムラシンゲキオーがその年のリーディング3位の鈴置歳朗騎手、ナガハルホクトオーがリーディング1位の古谷静一騎手だった。


 前回と同じように、約1週間ぶりに中山競馬場に乗り込んだ圭介と美里、相馬の3人組。


「やあやあ。お疲れさん」

 またもや美雪に遭遇。


 彼女は、上機嫌で、朝から勝ったらしく、その手には競馬場内の売店で買った、鳥串やフランクフルトが握られていた。


「それで、ミヤムラシンゲキオーは……」

 もはや驚かない圭介が、恐る恐る尋ねるが、彼女は終始上機嫌だった。


「伝説の第三章だね。題して、『初のライバル対決』ってところかな」

 もはやこの対決自体を楽しんでいる風だった。


 実際に、観客の注目もこの2頭に注がれており、周りの大勢の観客の声がそれを証明していたのだ。


「ミヤムラシンゲキオー、半端ねえ」

「いや、ナガハルホクトオーもすげえぞ」

「どっちが勝ってもおかしくない」


 まさに、そこに「名勝負」が産まれる機運のような、独特の雰囲気が漂い、中山競馬場は例年以上の熱気に包まれていた。

 2歳馬の頂点を決める、一大決戦。そして、共に2連勝。恐らく勝った方が、その年の最優秀2歳牡馬に選ばれるだろう。


 パドックを見ても、美雪は上機嫌だったが、彼女に言わせると、

「まあ、正直どっちも調子がいいね」

 とのことで、ミヤムラシンゲキオー、ナガハルホクトオーのどちらが勝つとはさすがに明言はできない様子だった。


 馬主エリアに向かう。


 そこには、珍しく彼女が待ち受けていた。

 長沢春子だ。


 いつものように、護衛のような黒服、サングラスの男を連れ、優雅で高そうな服装、アクセサリーに身を包んだ彼女は、

「子安さん。お互い、いい勝負をしましょう」

 などと笑顔を見せていたが、圭介は油断していなかった。


「はい」

 と言いつつ、握手や世間話を避けて、さっさと自分の席に向かってしまう。


 もはや、彼らは長沢の本性に気づいていた。彼女こそが今後、最大の障壁になることも。


「ちっ」

 あからさまに不機嫌な表情を浮かべた長沢春子が、彼らの後ろ姿を見ながら、離れた自分の馬主席に向かう。


 中山競馬場、芝1600mは、右回り。第3コーナーの角度がほとんど無い、三角形に近い形状の外回りコースを使用。1コーナーポケットからのスタートで、2コーナーまでの距離が短い。しかも、スタートから3コーナー途中まで下り坂が続いていてペースも速くなりがち。外枠がかなり不利なコース形態とされる。


 直線の長さは310mと短いが、途中に約110mの間で約2.2mを駆け上がる急坂があり、パワーを要する。


 派手なファンファーレが鳴り響き、いよいよ「世紀の対決」がここに実現しようとしていた。


 実況アナウンサー、そして解説の初老の元・調教師の男が話す内容が聞こえてきた。

「この勝負、どう見ます?」

「やはり2頭の叩き合いになりそうですね。どちらが先行し、早めに仕掛けるか。勝負の分かれ目です」


 勝負の結果は、誰にもわからない。


 2歳馬の頂点を決める、決戦が開始される。

「スタートしました」

 最初から、どの馬もつまずくことがなかった。


 2歳馬とは思えないくらい、優秀なサラブレッドがここにつどっている。

 ミヤムラシンゲキオーは先行勢に食い込む。それどころか、先頭を行く馬のすぐ後ろの2番目につけていた。その差、半馬身ほど。


 一方、ナガハルホクトオーは、後方から数えた方が早いくらいの後ろからの競馬。


 互いに腹の探り合いのような勝負が展開される。


 見ている分には、

(走る気が勝っている)

 ように、圭介には見えていた。それを騎手が折り合いをつけようとしているようにも見える。


 だが、実は距離1600mのこのレースにおいて、わざわざ折り合いをつけずとも良かったことが後に判明する。


 それはともかく、順位がほとんど変わらないまま、レースは最終の第4コーナーに入る。


「400を通過。外からミヤムラシンゲキオーが上がる!」

 実況の声が、早くも彼を注目していた。


「さあ、先頭はミヤムラシンゲキオーか」

「しかし、内からはナガハルホクトオーが迫る」


「200を切った。先頭はミヤムラシンゲキオー。内からはナガハルホクトオー」

 手に汗を握るような熾烈な争いとなった。


 その差、わずかにハナ差かというギリギリ状態で、外のミヤムラシンゲキオー、内のナガハルホクトオーが競っていた。


「あと100m。ミヤムラシンゲキオー、ナガハルホクトオー、しかしミヤムラシンゲキオーか、ゴールイン!」

 最終的には、「ハナ差」でのゴールインとなっていた。これで、ミヤムラシンゲキオーはデビュー戦から無傷の3連勝となった。


「おおっ!」

 中山競馬場から大歓声が上がっていた。


「すげえ」

「いい勝負だったね」

「やはりさすがですな」

「伝説を作る馬だね」

 圭介が、美里が、相馬が、美雪が、それぞれの感想を述べていた。


 喜びに沸く子安ファームのメンバーたちと離れた場所にいた、長沢春子は、唇を噛みしめていた。

 そして、いつものように激昂するかと思いきや、

「行くわよ」

 黒服の男を連れて、さっさと馬主席から立ち去って行った。


 口取り式で派手な歓声に出迎えられ、圭介は照れ臭そうに写真に写る。

 その時、一緒に参加した騎手の鈴置歳朗から声をかけられていた。


 彼とは、ミヤムララベンダーが新馬戦を勝利した時以来の縁があり、その後もミヤムララベンダーを任せていたし、新馬戦で彼にミヤムラシンゲキオーを任せることを明言していた。

 茨城県出身の、少し彫がある顔立ちで、40歳ちょっとのベテランジョッキー。明朗快活な男だった。


「オーナーさん。ミヤムラシンゲキオーは、本当にすごい馬ですね。日本ダービーも夢じゃありません」

「鈴置騎手。確か日本ダービーは……」


「ええ。まだ一度も勝ってません」

 騎手にとっても、もちろん調教師やオーナーや厩務員にとっても、日本ダービーは特別な存在で、それに勝つのは「全てのホースマンの夢」とされている。一生かかってもこの日本ダービーを制することは難しく、その勝利には運が絡むとされる。


 彼は、それを目指せる馬が、ミヤムラシンゲキオーだと暗に告げていた。

 その明るい笑顔と、リーディング3位の実力。圭介は、鈴置騎手を信頼していたし、現在リーディング1位の古谷騎手に勝って欲しいとも願っていた。その古谷騎手が乗る馬が、ナガハルホクトオーだったからだ。


「是非、期待しています。ミヤムラシンゲキオーでのダービー制覇」

「ありがとうございます。ベストを尽くします」


 その後、圭介は記者たちからの取材攻勢に晒される。多数のマイクとフラッシュが向けられていた。

 それらが長く、大変な物だった。


「一体どこでこんな馬を?」

「種付け料はいくらですか?」

「来年のクラシックの勝算はありますか?」

「あなたの幸運の原因は何だと思いますか?」

 最後の質問は、ほとんど競馬とは何の関係もない質問だった。


 圭介は苦笑いを浮かべながらも、質問に一つ一つ答えていた。

 こうして、ミヤムラシンゲキオーは初の重賞にして、初のGⅠをいきなり獲得。


 1着の賞金は、約6000万円。

 さらに、ミヤムラシンゲキオーはその年の最優秀2歳牡馬に選出された。

 

 翌日のスポーツ新聞では、一面トップで、ミヤムラシンゲキオーの写真がデカデカと出ていた。


「進撃王、無傷の3連勝」

「驚異の進撃王、ライバルとの決戦を制す」

「来年のクラシックは、シンゲキオーかホクトオーか」

 などなど、どのスポーツ新聞も、大々的に扱っていた。


 この年の最後に、まさに「有終の美」を迎えて、子安ファームは2008年を迎える。その年が、子安ファーム、そして子安圭介の人生にとっても「運命の年」となる。

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