第79話 驚異の末脚
ミヤムラシンゲキオーのデビューから間もない、同じ週の木曜日。
「はい」
不意に圭介の携帯電話に連絡をしてきたのは、意外な人物だった。
「オーナーくん。あたしだよ」
美雪だった。
珍しい、というより彼女は大抵、余程重要な用事がある時しかかけてこない。嫌な予感がした圭介だが。
「ごめん」
いきなり謝られて、拍子抜けしていた。
「えっ。何でいきなり謝るんですか?」
「あたしとしたことが見誤ってたよ、コヤストツゲキオー」
「どういうことですか?」
詳しく聞いてみると、彼女の予想では、コヤストツゲキオーは「2000m前後」の中距離に適性があり、そこが彼の得意なコースだと思っていたらしい。事実、1年くらい前のDデイ、つまり彼が初めて重賞を制した、そして子安ファームにとっても初の重賞制覇だった、七夕賞の時にそう言っていた。
しかし、その後、何故かコヤストツゲキオーは、「中距離」のレースに勝てなくなったのだ。色々なレースに出走するも、3着や5着などが多く、なかなか1着に届かない。もどかしい、惜しいレースが多かったが、中には調子を崩して、12着と大敗したレースもあった。
そんな中。
「ただ、次はセントウルステークスに出る、と聞いてね。面白そう、とは思ったんだよ」
「面白そう? とは?」
「セントウルステークスは、1200mの短距離。そして、スプリンターズステークスの前哨戦。ここでいい成績を残せば、彼がスプリンターとして才能を開花させることにもなるかな、と」
「なるほど。美雪さんでも予想を外すことがあるんですね」
「そりゃそうだ。あたしは神でも何でもない。ただ、このレースは今後を占うレースになるから、見に来た方がいい」
「わかりました」
坂本美雪は、コヤストツゲキオーの予想が外れたことを謝りつつも、新たな可能性を次のレースに見出すことを期待しているらしい。
そんなわけで、圭介と美里、相馬は週末に阪神競馬場へと向かう。
2007年9月9日(日) 阪神11
阪神競馬場、芝1200mは、右回りで、内回りコースを使用。スタートから最初のコーナーまでの距離が短く、3コーナーから直線途中までが緩やかな下り坂になっている。
最後の直線は約357mと平均的な長さながらも、残り200mから100mの間に高低差1.8mの急坂があり、パワーが求められる。
ただ秋は、硬くてスピードの出る野芝主体で高速決着になりやすく、スピード・瞬発力が大きな武器になる。
しかしながら、今まで中距離ばかり走っていた、コヤストツゲキオーの人気は高くなく、8番人気で、単勝18.4倍。
1番人気は、コヤストツゲキオーよりも早く、短距離戦線で活躍していた、ナガハルサンダーだった。そう、昨年の七夕賞でも競った、長沢春子の馬だった。
こちらが単勝2.2倍。
そして、やはりと言うべきか、パドックを一通り見て、馬主エリアに向かうと。
「やあ、オーナーくんたち」
美雪が待ち構えていた。
どんな時でも、彼女はあの特徴的な馬のイラストが描かれた帽子を脱がなかった。お気に入りらしい。
それはともかく、予想を聞くと、
「まあ、順当に行けば、ナガハルサンダーだろうさ」
との回答。いつもより妙にあっさりしていた。
しかも、
「ただ、あたしはコヤストツゲキオーにもちょっと期待してる。勝てるかどうかは別だけどね」
彼女にしては珍しく明言を避けていた。
つまり、彼女にも予想が難しいのかもしれないし、自信がないから明言しなかっただけかもしれない。
そんな予想すらつかないレースが始まろうとしていた。
セントウルステークスは、GⅡに当たり、後のスプリンターステークスの前哨戦と位置づけられるが、実はGⅡになったのは前年の2006年。そしてスプリンターズステークスの優先出走権が与えられるようになるのは、さらに後年の2014年からとなる。
そして、GⅡのファンファーレが鳴り響く。
5枠8番に入る、コヤストツゲキオー。6枠11番に入る、ナガハルサンダー。
しかし。
「スタートしました」
コヤストツゲキオーは、いきなり出遅れたのか、それとも作戦なのか、最後方に陣取っていた。
一方で、ナガハルサンダーは、中団の好位につける。
この時点で、勝敗の何割かは決まっている、と多くの人間が思っていたが。
「400の標識を通過して、最後の直線。先頭はナガハルサンダー」
この時点でも、まだコヤストツゲキオーは、最後方から2番目くらいにいたのだが。
最後の急坂において、ぐんっとスピードを上げて、大外から迫って来る「影」があった。
「大外、コヤストツゲキオー!」
実況アナウンサーが気づいて、大きな声を上げる。
その有り様は、まさに「切れ味鋭いカミソリ」のような末脚だった。
「おおっ!」
思わず圭介が身を乗り出していた。
ある意味、後方からの強襲、追い込みという、競馬の醍醐味的なレース展開。熱い展開と言っていい。
横一線に固まっていた、馬群の、一番外側からコヤストツゲキオーが、ごぼう抜きをして一気に迫っていた。
そして、残り200mから100mを切ると。
「外からコヤストツゲキオー! 粘るナガハルサンダー!」
阪神競馬場が、GⅡとは思えない、異様な熱気と歓声に包まれていた。
勝負は、最後の最後、残り100mに絞られる。
「しかし、コヤストツゲキオーか! 差し切った!」
最後の最後。ゴール直前で、ギリギリながらも差し切っていた。
結局、「審議」のランプが点灯したが、勝負はコヤストツゲキオーの勝利となっていた。
子安ファームにとって、初の「GⅡ」制覇の瞬間。
「よし!」
「やりましたね、パンツ」
「スプリンターとしての素質の開花かな」
「よくがんばったわ」
それぞれが口に出す中、この時、ここにはいなかったが、長沢春子は、悔しがっていた。
こうして、「スプリンター」としての才能を開花した、と思われたコヤストツゲキオーだったが。
次の注目の大一番、スプリンターズステークスでは、8着と惨敗していたし、ナガハルサンダーもまた5着だった。
ひとえに、競馬というのは、「わからない」ものなのだ。競馬に「絶対」はないし、重賞を一つ勝ったからと言って、その後のレースで勝てるわけでもないのだ。
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