第74話 オペラの末脚

 そして、ついにその日がやって来た。


 2007年5月8日(日) 東京11Rレース NHKマイルカップ(GⅠ)(芝・1600m)、天気:雨、馬場:稍重ややおも


 当日は、雨の影響があるコンディションで、決していい状態とは言えなかった。


 圭介は、今回も美里、相馬を連れ、飛行機で東京へ向かい、1泊してから府中市にある東京競馬場へ足を運んだ。


 東京競馬場、芝1600mは、向こう正面の奥からスタートし、250m地点までは緩やかな下りが続く。3コーナーまでは約550mほどの直線でポジション争いはさほど激しくならず、枠順に有利不利も少ない。


 ただし、3コーナー手前でいったん坂を登るが、再度下りの状態でコーナーに突入するため、息を抜きたいはずのコーナーで息が抜けない。そのため1400mに比べ上がりが掛かる傾向がある。


 マイル戦ながらスタミナ消耗戦になるコースで、このコースを逃げ切るにはスピードに加え、スタミナ、底力が必要となる。それ故に、このコースが「中距離を走れるくらいのスタミナが要求される」と言われる。


 基本は瞬発力を持つ馬が有利なコースと言える。


 その重要なレースにおいて。


「見て下さい、兄貴。ミヤムラオペラは、単勝1.8倍、ダントツの1番人気ですよ」

 相馬が競馬新聞片手に、興奮気味に語っていた。


 実際、圭介が持ってきた都スポのオッズにおいても、同様で1番人気。ちなみに、単勝8.4倍の3番人気には「ヤマデラソング」という牝の3歳が入っていた。


 もちろん、山寺久志の所有馬であることは明白だった。


 傘を差しながら、スポーツ新聞を見て、競馬場のパドックへ向かう途中。しかしながら、圭介の目に留まった、ある懸念事項があった。


「でも、相馬さん。馬体重が増えすぎじゃないですかね?」

 ミヤムラオペラの馬体重が495キロ。前走からプラス10キロほど。元々、大柄な馬とはいえ、牝にしては重すぎる体重で、むしろ他の牡より重かった。


 しかし、

「いえ。元々、オペラは重い、筋肉質の馬ですからね。これくらいがちょうどいいと思います。むしろ本来のパワーを発揮できるでしょう」

 相馬は、相好を崩した。


 そして、到着したパドックで見る限りにおいては、ミヤムラオペラの調子は悪くないように圭介の目には映っていた。


 一応、その後、いつものように馬主エリアに向かうと。


 今回は、美雪ではなく、憎たらしい顔が待っていた。

「山寺さん」

 そう、あの男だった。


 腕組みをして、勝ち誇ったように、彼は威勢よく豪語していた。

「1番人気だからと言って、調子に乗るなよ。我がヤマデラソングは、アーリントンカップを制してるからな」

 アーリントンカップは、GⅢのレースで、4月に阪神競馬場で行われ、3着以内には、NHKマイルカップの優先出走権が与えられる。


 確かに、ヤマデラソングはこれを制していたが、圧倒的な勝ちではなく、ハナ差の1着だった。


「まあ、見てて下さいよ。ウチのオペラはすごいですから」

「ふん」

 美里が、ドヤ顔を見せて、山寺に対抗心を燃やすように吠えていた。


 そして、山寺が馬主エリアに入った後。待ち構えていたかのように、彼女も現れた。

「やっほー。オーナーくんたち」

 言うまでもなく、坂本美雪だった。


「美雪さん。そうか。あなたは東京に家があるんでしたね」

「まあね。三鷹みたかだから近いんだよ」

 三鷹市は、この東京競馬場がある府中市からは確かに地理的に近いし、同じ西東京に位置する。


 早速、ミヤムラオペラの意見を伺うと、

「これはすごいね」

 との、いつもとは一味違う回答だった。


「いいってことですか?」

「もちろん! このミヤムラオペラはデビュー以降、中距離を走ってダメだったけど、その後、マイルと短距離では圧勝してる。彼女は仕上がりが速いタイプだと思うけど、強いよ」


 ようやく、所有馬の中で、明確に「強い」という「お墨付き」をもらったような圭介は、満足しながらも、いつものように美雪を馬主エリアに案内する。


 スクリーンを通して見る東京競馬場は綺麗で、GⅠともあって、大勢の観客で賑わっていた。

 

「さあ、いよいよ始まります。3歳マイル戦の頂点を決める、NHKマイルカップ」

 テレビからは、ヴィクトリー競馬が流れ、司会者や出演者が予想をしていたが、その多くが「ミヤムラオペラ」を予想していた。


 そして、ついに、出走のファンファーレが鳴り響く。


 枠入りは順調だったが、何の因果か、ミヤムラオペラが5枠9番。そしてそのすぐ隣の5枠10番にヤマデラソングが並ぶ。


「スタートしました」

 いつものようにスタートの時を迎える。


 しかし、この時、彼らは特段いつもとは「違う」雰囲気を感じることがなかった。

 何故なら、ミヤムラオペラはゲートが開いてから、非常に落ち着いており、中団あたりをキープ。全17頭のうち、真ん中の馬群に入っていた。


 つまり、この時点では「馬群に埋もれている」ようにしか見えなかった。一方で、ヤマデラソングもまた中団からやや後方辺りに待機していた。


 そのままレースは淀みなく進むが。


 丁度半分辺り、3コーナーを回り、800m付近。

(来た)

 圭介は気付いた。


 ミヤムラオペラが動いた。早いと思われるタイミングだが、4番手まで上がっていた。

「ミヤムラオペラが早めに4番手辺りにつけます」

 と実況が言っているように、騎手の池田が仕掛けていた。


 そして、東京競馬場名物の大欅を越えて、600mを通過。4コーナーに入る。


 残りは最後の直線だけになる。


 歓声が一際大きくなるポイントだ。


 そこで、

「ヤマデラソングは馬群の中」

 と実況が言い放っていたのが特徴的で、一瞬ライバルと思っていた、ヤマデラソングは中団に沈んでいた。


 一方で、

「400mを通過。先頭はミヤムラオペラに変わる」

 見ていても明確にわかるくらい、外から鮮やかな抜け出しを計った彼女が、頭一つ飛び抜けていた。


「先頭はミヤムラオペラ。残り200m」

「よし!」

「行けるわ!」

 思わず圭介も、美里も興奮気味に叫んでいたが、2番手との距離は実はそんなに開いてはいなかった。


 そして、

「リードは1馬身。ミヤムラオペラか! 今、ゴールイン!」

「わあっ!」

 という、大きな歓声が東京競馬場にこだましており、ミヤムラオペラがついに先頭でゴール板を駆け抜けていた。ある意味、力を発揮した、危なげない勝利だった。


「勝った!」

「おめでとう!」

「オペラ、すごいわ!」

「やりますね」

 もはや誰の声かわからないくらい、子安ファームのメンバーの声が交錯していたが、とにかくこれが「子安ファーム初のGⅠ勝利」となった。しかも予想外とも言える「マイル」で「牝」での制覇だった。


 NHKマイルカップ自体は、1996年から始まり、この年12回目。牝は過去に2頭制しているので、3頭目になった。しかもタイムもまた1分33秒3と、牝としては歴代2番目に速いタイムだった。


 一方で、ヤマデラソングはというと、馬群の中から抜け出せず、9着という結果だった。

 悔しそうに顔を歪め、無言のまま馬主エリアから去って行く、山寺久志とは裏腹に、彼らはしばらくの間、喜びを分かち合っていた。


 ようやく訪れた、「子安ファーム初のGⅠ勝利の栄冠」を、彼らにとっても予想外の牝のミヤムラオペラが達成していた。


 そして、待ち構えていたかのように、圭介の携帯電話が鳴る。

「はい」

「私よ、緒方マリヤ」


「喫煙室だな」

「そういうこと。さっさと来て」


「口取り式があるだろ。その後に行く」

「わかったわ。待ってる」

 こうして、彼らはようやく「長いトンネル」を抜けて、栄冠を掴み取ることに成功する。


 なお、NHKマイルカップの1着賞金は、9200万円(※現在は1億3000万円)だった。

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