第72話 柔軟性と将来性

 フェブラリーステークスで、ミヤムラジョオウが敗れた後。


 彼女は、関厩舎とも話し合い、「地方」へと戦場を移すことになった。つまり、ダート中心の地方競馬を主戦場として、中央には出走しない。


 年齢的なこともあり、そのまま地方である程度走って、引退になるだろう。ただ、圭介はミヤムラジョオウはまだまだやれると思っていたし、関調教師もまた「地方」に行くのに反対はしなかった。


 一方、2月末の雪がちらつく北海道日高地方の、子安ファームには、ある「奇妙な出来事」が起こる。


 きっかけは一本の電話だった。


「はい」

 たまたま美里が席を外しており、圭介が窓口として使っている、一般回線の電話に出たのだが。


 電話口の男の声は、聞き覚えがあり、しかも「怒って」いた。


「おい、お前んとこの馬がウチの牧場に来てるぞ」

 すぐに山寺久志だとわかった。


 つまり、彼の牧場は、近所というより、この子安ファームの「隣」だったからだ。

 と言っても、広い日高地方の牧場が点在するエリア。


 隣までは数百メートルはあり、もちろん「柵」があって、その向こうに道路があり、その向こうに山寺牧場がある。


 一瞬、圭介は何を言われているのかわからなかったが、

「どういうことですか?」

 改めて尋ねていた。


 すると、

「だからお前んとこの幼駒ようくが、こっちに来てるんだ。さっさと引き取りに来い」

 との回答。


(まさか、柵を越えたのか)

 瞬間、圭介はすぐに想像していた。


 通常、成長した馬なら、柵を越える可能性があるとも言えるが、幼駒が越えるのは難しい。


 そして、

「わかりました」

 と言って、電話を切った直後、執務室に血相を変えて飛び込んできたのが、真尋だった。


「大変! 大変! オーちゃん!」

「どうした?」

 いつになく、慌てている真尋は、血の気が引いたように真っ青になっていた。尋常ではない事態が起こったと想像するが。


「シンゲキオーくんがいないの」

(まさか)

 その一言で、圭介はすぐに思い当たる。


 まだ1歳数か月の幼駒、そして牧場から消えた。隣の牧場にいる。真尋によると、複数馬を放牧していたら、目を離した隙にミヤムラシンゲキオーだけがいなくなったという。


 すぐに、真尋に説明し、彼女に車を出してもらう。

 一応、運転免許を持っている真尋に運転を任せ、すぐに山寺牧場へと向かった。


 山寺牧場はすぐ隣だが、それでも数百メートルはある。徒歩で行くにはキツいし、その上、厳寒期の北海道だから尚更だった。


 車ではすぐに到着する。


 子安ファームよりも規模が大きい山寺牧場。

 インターホンを押すと、待ち構えていたかのように、山寺久志の不機嫌な声が響いてきた。


「やっと来たか。入れ」

 通された牧場施設の、広い放牧場。


 そこに、他の馬に混じって、のんびりと草を食んでいる、栗毛の幼駒がいた。予想通り、ミヤムラシンゲキオーだった。


「やっぱりシンゲキオーか」

「すごいね、シンゲキオーくん。本当に柵越えちゃったの?」

 圭介と真尋が驚きながらも、彼に声をかける中、山寺だけは不機嫌そうに、


「いいから、さっさと回収してくれ」

 と呟いていたが、圭介はそんな彼に、今までの鬱憤を晴らすかのような一言を、投げかける。


「山寺さん」

「何だ?」


「このミヤムラシンゲキオー。将来、とんでもない馬になるかもしれません」

「それはどうかな?」


「ううん。きっとなりますよ。まだ1歳の仔が、あんな高い柵を越えて、こんなところまで来ちゃうなんて。この仔、柔軟性がすごいんです」

 真尋まで、柵を見ながら、興奮気味に語っていた。


 結局、近所ということもあり、真尋には車で先に帰ってもらって迎える準備をお願いし、圭介が手綱を引いて、彼を連れ帰ることになった。


 相変わらず、人懐こく、圭介にもじゃれてくる無邪気な彼は、まだ競走馬という物、レースという物を知らない無垢な状態だ。


 帰宅後、事情を相馬に説明すると、彼は驚いたように目を見張って、とあることを話しだした。


「兄貴には、釈迦に説法だと思いますが、ドレッドノート、知ってますよね?」

「ええ。1993年にクラシック三冠を達成した名馬ですね」

 ドレッドノート。現段階では、最新のクラシック三冠馬だった。サラブレッドが生涯に一度しかチャレンジできない、皐月賞、日本ダービー、菊花賞。その3レースを全て制した馬だけに与えられる、サラブレッドの中の最高の栄誉、「クラシック三冠」。これを達成した数少ない名馬だった。


「ただの三冠ではありません。無敗三冠です」

「そうでしたね。そのドレッドノートが何か?」


「ドレッドノートの最大の特徴は、『体の柔軟性』だと言われています。バネのように柔らかい体だったそうです。これは、人間のトップアスリートにも言えますが、体が柔らかいと、スポーツでは有利で、ケガもしにくいと言われています」

「つまり何が言いたいんですか?」


「似てるんですよ。ミヤムラシンゲキオーも非常に体が柔らかく、バネのような脚を持ってます。これは将来的に、クラシック三冠も狙えるかもしれません」

「まさか。さすがにそれはないのでは?」

 圭介は、それを聞いても、さすがに半信半疑だった。


 いくら何でも、まだGⅠすら制していないこの子安ファームから、GⅠどころか、クラシック三冠馬が産まれるとは考えにくいと思っていた。この時は。


「ただ……」

「ただ、何ですか?」


「父のデヴァステイター。マンノウォーステークスを制した名馬ですが、体が丈夫じゃありません。その血統ゆえに、ケガだけが心配です」

「まあ、今から心配しても仕方がないですよ。どのみち、今年中にはデビューです」


「そうですね」


 ミヤムラシンゲキオー。彼が、この子安ファームに「希望」をもたらす可能性を秘めた、今、最も「将来性」がある馬だった。


 なお、この2007年には、クラシック戦線に出走できる馬が1頭もいなかったので、穏やかな春を迎えていたが、子安ファームは、また新しい繁殖牝馬を格安で購入することになった。


 アペカムイ。アイヌ語で「炎の神」を意味するという。何とも勇壮な名前の繁殖牝馬だったが、血統はインブリード配合を持ち、それなりに良かったが、現役時代から怪我が多かったことが災いし、値段的には格安だったためだ。

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