第71話 緒方マリヤの応援

 正直あまり乗り気ではなかったが、仕方がないので、圭介は関係者が使える、喫煙室に足を向けた。


 いつも緒方と会う時は、喫煙所のような気がしていたが、彼女は仕事が終わったのだろう。


 競馬場内の関係者だけが入れる通路を真っ直ぐ進み、トイレ脇にある小さな喫煙室に入る。


 手持ち無沙汰気味に、左手にタバコ、右手に携帯電話を持った、アイドルらしい、フリフリのチェック柄の短いスカートに薄いジャケットを着た彼女が待っていた。


 それを見て、圭介が思わず声をかけていた。

「寒くないのか?」

「寒いわよ。ってそんなことどうでもいいの」

 いきなり出だしから調子を狂わされたようになった緒方マリヤが、気を取り直したように話し始めた。


「残念だったわね」

「まあ、仕方がないさ。そもそも8歳で、しかも牝でこのレースを勝つのは難しいってわかってたから」


「でも、3着なんて十分立派だと思うけど。彼女は歴史を創ったじゃない。これからどうするの?」

「どうするとは?」


「鈍いわね。だから、ミヤムラジョオウよ。さすがにもう上がりはないと判断して、引退させる?」

 彼女の言いたかったことは、それだった。


 もちろん、オーナーの圭介自身もそれは考えていた。

 8歳のサラブレッドと言えば、多くが引退している年で、人間で言うならもう30代後半くらいだろう。


 だが、彼の中ではまだ諦めきれない気持ちがあるのも事実だった。

 そのため、ここでは明言を避けることにした。


「その辺りは、関先生と相談して決めるよ」

「そう。でも、私はもう少し彼女の活躍を見てみたいな」


「何でだ?」

「だって、カッコいいじゃない。元々、栗毛の綺麗な馬だけど、私、彼女のファンになっちゃったわ」


「そりゃ、どうも。まあ、さすがにこの年で中央で戦うのは厳しいから、今後は地方中心に回るのもありかもな。地方のダートレースなら、まだ活躍できそうだ」

 そう思っていたのは、圭介の目には、彼女、ミヤムラジョオウが明確に衰えているようには思えなかったからだ。


 この重要な決戦で3着という好成績を残していることからも、それは窺えた。

「ドサ回りってこと? いいんじゃない? 私は彼女のお陰で、この東京で名を挙げることが出来た。だから地方でも応援に行くわ」

「ドサ回りって、お前。もう死語じゃないか? 本当に20歳はたちか?」


「いいじゃない、別に! それにマジで20歳よ!」

 機嫌を損ねるように、怒りだしたので、圭介は「腫れ物を避ける」ように、話題を変えることにした。


「じゃあ、お前は次の東京の大きなレースには来ないのか?」

「行くわよ。あんたんとこの馬、出るの?」


「まあ、期待が持てそうな馬が2頭いるからな」

「どれ?」

 彼女の問いに、圭介が答えた馬は、ミヤムラオペラ、そしてヴィットマンだった。


 ミヤムラオペラは、牝の割に大柄な馬体が特徴だが、新馬戦を勝ってから、しばらく勝てなかったが、最近、調子が上向いているのだ。


 新馬戦後しばらくはどうも調子が悪かったが、最近、500万下を勝っているし、預けている立木厩舎からも「将来性抜群」と太鼓判を押されていた。実は、まだ未定だが、勝ち続ければクラシック戦線かマイル戦線に出す予定と聞いていた。


 一方のヴィットマン。この年、すでに5歳になっていたが、3歳のクラシック戦線からステイヤー適性を見せ、ライバルのイーキンスはもちろん、古馬とも激闘を演じてきた。年々、成長しており、こちらも同じく預けている立木厩舎から期待をかけられており、いずれは天皇賞を制するのが目標と言われていた。


「ふーん。まあ、ミヤムラジョオウももちろん応援するけど、東京競馬場の重賞であんたの馬が走ることがあれば、見てあげるわ」

「何で上から目線なんだ?」


「いいじゃない、別に。何なら、クラシック戦線であんたの馬が活躍したら、私が取材してあげるわ」

 偉そうに発言してるが、この女にそもそもそんな権限があるのか、と圭介は思って、内心、苦笑していたが、頷くのだった。


 そして、相変わらず「東京競馬場」にこだわる妙な女だった。

 同じ東京なら「大井競馬場」もあるんだが、と圭介は内心、思っていたが。


 ともかく、ミヤムラジョオウは、フェブラリーステークスで牝の8歳で3着という、史上初の快挙を達成した。


 そのことで、ミヤムラジョオウはもちろん、子安ファームの名前もまた世間に知れ渡ることになるが、その当時、今ほどSNSが発達していなかったので、テレビによる影響がまだまだ大きかったのだった。


 一方、その頃。

「何なの、負けてんじゃないの! 山寺の野郎、偉そうに言ってた割には、ヤマデラックスの方があいつらより下じゃん! ああ、ムカつく、ムカつく!」

 長沢春子がテレビ越しに吠えていた。いつも見せる優雅なお嬢様のような笑顔とは一変し、般若のような形相を見せていた。


 彼女は、この時、所有馬が出走していなかったため、わざわざ東京競馬場には足を運ばなかったが、自宅でフェブラリーステークスをテレビ観戦していたのだ。


 そして、レース前に大言壮語した山寺久志の持ち馬、ヤマデラックスが5着と、ミヤムラジョオウよりも下位の結果になったことに不満を爆発していた。


 そんな面倒な性格の主に、従う黒スーツにサングラスの男が、

「オーナー。落ち着いて下さい。こちらにはまだナガハルダイオーと、ナガハルホクトオーがいます」

 と冷静な声で告げていた。


 なお、ナガハルダイオーは主にダート戦線で、ナガハルホクトオーはまだデビュー前だったが、非常に期待が持てると期待されていた馬で、どちらも長沢春子の所有馬だった。


「そうだったわね。見てなさい、弱小ファームめ。ジャパンカップダートと来年のクラシックは絶対、勝つわ!」

 密かに闘志を燃やす長沢春子。ある意味、嫌味なところがないが、山寺久志よりも厄介な相手だと圭介たちはまだ知らなかった。

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