第70話 ダート日本一決戦

 そして、あっという間に3週間が経過した。


 2007年2月18日(日) 東京11Rレース フェブラリーステークス(GⅠ)(ダート・1600m)、天気:晴れ、馬場:不良


 実はこの前日の夜半から東京ではポツポツと弱い雨が降り始め、当日のこの日の午前中を中心に結構な雨量が計測されていた。

 気温も低く、一桁台前半の肌寒い真冬の一日だったが、レースが行われる午後には、雨が上がり、気温も上がっていた。


 しかし、ダート自体はしっかりと水を含んだ状態の、「不良」馬場と発表されていた。


 さすがに、このレースは「史上初」の8歳牝馬による快挙がかかっているから、圭介は、美里と相馬を連れて、前日から飛行機で東京入りし、一泊してから府中市にある東京競馬場に向かった。


「相変わらず、東京の電車は混みまくってるなあ。あと、ここも人が多い」

 東京競馬場に入った途端、愚痴り始める圭介に対し、美里は、


「文句言わない」

 と、母親のような口調でたしなめており、相馬はいつものように競馬新聞を凝視しながら、


「ジョオウは5番人気ですね」

 と声を出していた。


 3人でパドックに向かう途中、競馬新聞やスポーツ新聞をチェックする。


 それによると、オッズは、


 2番人気 フォッケウルフ 4.0倍 4枠7番

 3番人気 ヤマデラックス 5.9倍 6枠12番

 5番人気 ミヤムラジョオウ 9.2倍 5枠10番


 ということだった。


 2番人気のフォッケウルフは、昨年の武蔵野ステークス(GⅢ)で2着、今年初めの平安ステークス(GⅢ)で1着になっていた。牡の5歳だった。


 一方、1番人気の馬は昨年末のジャパンカップダート、東京大賞典、今年の川崎記念といずれも2着になっている馬で、牡の6歳だったが、相馬に言わせると、


「恐らく来ないでしょう」

 とのことだった。


 一方、ミヤムラジョオウは、馬体重が500キロを越えていた。通常、400キロ台後半から500キロ近くが多いこの馬にしては、少し「太って」いるようにすら見える。


「ちょっと馬体重が増えてるような」

 スポーツ新聞を見ると、馬体重が前走+10キロほども増えていたから、圭介としては心配していたが、


「まあ、大丈夫でしょう」

 何の根拠があるのかわからないが、相馬はあまり深刻そうな表情はしていなかった。


 一通りパドックで見る限り、確かにトモも張っているし、変な発汗もないし、調子的には悪そうには見えなかった。


 一方、パドックの外れでは、見知った顔がマイクやカメラを向けられており、元気よく声を出していた。


「はい。こちら、東京競馬場のパドックです。史上初の8歳での優勝がかかるミヤムラジョオウとヤマデラックスですが……」

 見ると、テレビクルーに囲まれていたのは、フリフリのスカートを履いた、あの緒方マリヤだった。


(テレビ取材か)

 と、圭介が思っていると、


「あれ、多分ヴィクトリー競馬ね」

 横から声がかかった。もちろん美里だった。


「ヴィクトリー競馬って、あの競馬番組の?」

「そう。昨日、新聞のテレビ欄見たら、載ってたわ。今日の現地中継が緒方マリヤだって」

(なるほど。それで、パドックから中継か)


 どうやら、緒方マリヤは、一応は、「仕事」としてここに来ているらしい。忙しそうなのでもちろん声はかけなかったが、彼女自身は、こちらに気づいている様子だった。


 ちなみに、ヴィクトリー競馬というのは、全国中継されているテレビの競馬番組で、毎週日曜日の午後3時から1時間程度放送されている。大体、その時間帯にメインとなる重賞レースが多いからだ。


 その後、場外馬券売り場で、圭介が単勝で10万円程度、ミヤムラジョオウに賭けてから、馬主エリアに向かう。


 そして、予想通りと言うべきか、入口に彼女が待ち構えていた。妙な馬のデフォルメイラストの帽子を被った彼女だ。

「また美雪さんか」


「相変わらず反応が冷たいね、オーナーくん。入れてくれるよね?」

「仕方がないですね」

 とりあえず、彼女と一緒に馬主エリアに落ち着く。


 外は、大勢の観客で溢れていて、まるで朝の通勤ラッシュの駅のようだったが、この馬主エリアには限られた人間しか入れないから、混雑とは無縁で、むしろ優雅に過ごせる。


 その椅子に腰かけてから、聞いてもいないのに、彼女は語り出した。

「ミヤムラジョオウは、悪くはないと思うんだけど……」

 どうも含みのある言い方が、気になって、圭介が続きを促すと、


「悪くはないんだけど、牝の8歳でこのレースに出た馬が過去にほとんどいないんだ。データはほとんど参考にならない。しかもいずれもいい成績を残していない」

「つまり?」


「まあ、チャレンジ精神は買うってところかな」

(やはり難しいか)

 圭介自身、8歳の牝でこのレースに挑戦する難しさを内心ではわかっていたから、あまり期待はせずに見ることを決める。


 東京競馬場、ダート1600mは、芝のポケット部分からスタートしてダートコースに入るまで芝を150mほど走るのだが、内と外では外の方がおよそ30m芝部分が長く、スピードが付きやすいため、外枠が有利とされる。


 芝でスピードに乗せる必要があるため、出遅れは致命的となる。スタートを決めることが出来るかが勝負の分かれ目とも言える。


 最初のコーナーまでの距離はおよそ640m。長い距離を走ることになるが、スローペースになることは少ない。条件クラスでは前半のラップはさほど変わらないが、クラスが上がるほど中盤~ラストの流れが厳しくなり、スピードとタフさが要求される。


 基本的には逃げ・先行が有利だが、東京ダート1300m~1400mに比べると逃げ切りの割合は少なく、上級クラスになると後方からの差し・追い込みも届く。


 そして、このフェブラリーステークスは、出走条件が4歳以上。つまり古馬限定で、それも「ダート日本一」を決めるとも言われているレースだから、強豪揃いの、それも牡馬が多い。


 牝馬で、しかも8歳のミヤムラジョオウにとって、遅まきながら初めてのGⅠ挑戦だった。


 そして、いよいよGⅠ特有のファンファーレが鳴って、レースが始まる。

 枠入りは割と順調で、1頭だけゲート入りを嫌がっていたが、その後すんなりと入った。


「スタートは揃ったか」

 実況の声が響く中、レースが始まる。全16頭のレースだった。


 ミヤムラジョオウの脚質は自在で、逃げても、先行しても、差しでも勝てるところが最大の強みでもあったが。


 先頭は、「逃げ」の脚質を持つ6番人気の馬。それに8番人気の馬が競りかける。


 一方、ミヤムラジョオウは中団から後方にかけて、おおよそ10~12番手あたりを進んでいた。

 ヤマデラックスはそれより少し前目の10番手あたり。

 フォッケウルフはもっと後ろの14番目あたり。しかし、この馬に乗っていたのは、リーディング2位の池田重徳騎手だった。

 一方、ミヤムラジョオウはベテランの清川十蔵騎手が操る。


 そんな中、レースは進み、実況の声は先頭から順番に、競走馬の名前を呼んで行く。

 もちろん、ミヤムラジョオウも呼ばれている。


 展開としては前半の800mを46秒台という、早いペースになっていた。

 レースとしては「つまらない」というより、特に目立つような動きが見られなかった。


 しかし、3~4コーナーに入ると、東京競馬場に詰めかけた大観衆の声が、地鳴りのように大きくなる。


「さあ、最終コーナーを回って、先頭は……」

 まだ逃げ馬の6番人気、8番人気の馬が内埒沿いで粘っていたが。


「大外からフォッケウルフが伸びて来る! 内は混戦状態か!」

 実況の声に興奮しながら眺めていると、文字通りの「末脚」を発揮して、外からぐんぐん伸びてきたのは、2番人気のフォッケウルフだった。その漆黒の馬体が日の光に照らされて輝く。


 一方、内側は数頭が固まっており、文字通りの「混戦」状態。

 ミヤムラジョオウとヤマデラックスは、上がってきていたが、この混戦状態に突っ込む形になり、つまり「進路が開けない」状態になる。


「フォッケウルフ、抜けた! 2番手は、微妙なところだ!」

 この時点で完全に1着はフォッケウルフで決まりだった。


 問題は2着争いだったが、残念ながらミヤムラジョオウ、ヤマデラックスの8歳ライバルコンビはいずれもここに入らず、伏兵の4番人気の馬が入線する。


 そして、

「3着にミヤムラジョオウ!」

 彼女は3番手に入っていた。


 一方、ヤマデラックスは5着とギリギリ掲示板に乗る程度。


「勝てなかったか……」

 失望の溜め息を漏らす圭介だったが。


 彼女の感想は違っていた。

「でも、オーナーくん。牝の8歳馬でこの成績は史上最高記録だよ!」

 美雪が言うには、かつて「牡の8歳で」達成した馬はいるが、牝の8歳としてはGⅠ、フェブラリーステークスの最高記録になるという。


 アナウンサーもそれがわかっているようで、

「ミヤムラジョオウ、またも歴史を創った!」

 と、吠えていた。


 この当時、1着で賞金が9400万円(※現在は1億2000万円)だが、3着でも数千万円は入ってくる。


 そして、まるで待ち構えたかのように、彼の携帯電話に着信が入る。

「はい」

「私よ、私」


「そんなオレオレ詐欺みたいな奴は知らん」

 不愛想に、同時に不機嫌に呟いた圭介に対し、電話口の彼女は不満げに声を荒げてきた。


「何、バカなこと言ってんの。緒方マリヤよ」

「わかってる。で、何だ?」


「ちょっと喫煙室に来なさい。いいわね?」

 相変わらず有無を言わせない口調で、一方的に告げると、電話を切られていた。


 どうも、怒っているような声音が圭介には気になったから、とりあえず「トイレに行く」と嘘をついて、その場を離れた。

 何となく、緒方と会う時は2人の方が話しやすい雰囲気があったからだったが。

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