第69話 それぞれの思惑

 馬主エリアの隅に隠れるように、圭介たちの様子を伺っていたのは、かの長沢春子だった。


 彼女は、実はこの日、別のレースに自分の所有馬が出走するため、わざわざこの東京競馬場まで足を運んでいたのだ。


 結果的には、彼女の所有する馬はレースに勝っていたが、彼女は連れてきた、まるでSPのような護衛にも見える、黒服にサングラスの男に、苦々し気な声をかけていた。


「子安ファーム、勝ってんじゃないの! これじゃ、次のフェブラリーステークスにあいつら、出走しちゃうじゃない!」

 文句たらたら、不満一杯のわかりやすい表情を浮かべて吠えていた彼女。


「落ち着いて下さい、オーナー。たとえ出ても、8歳馬なら勝てません。それに山寺さんのところの馬も出ます」

「ヤマデラックスのこと? あれも8歳馬じゃない。ウチも何とか出れるようにできないわけ? このままじゃ、私の計画が……」

 と言ったところで、口をつぐんでいた。


 彼女の計画とは、簡単に言えば、子安ファームを負けに追い込んで、子安ファームを借金漬けにして、利息を取るというものだったが、昨今の子安ファームの実績から、早くもその計画自体が崩れ始めていた。


「こうなったら、汚い手を使ってでも……」

 言いかけた彼女を制したのは、意外にもある男の声だった。


「それはやめた方が賢明だな」

「山寺さん」

 振り返った先に、あの男が、いつものように高そうなアルマーニのスーツ姿で立っていた。


「そんなことまでして勝ってもつまらないだろうし、下手したら、中央競馬界から追放される。それに、僕のところのヤマデラックスがいるじゃないか」

「ヤマデラックス? 8歳の高齢馬に何が出来るっていうの?」


「高齢馬と言うなら、あのミヤムラジョオウだって同じだ。それに芝と違い、ダートは息の長い活躍が出来る。フェブラリーステークスでは、逆転してみせるさ」

 苦虫を嚙み潰したような顔、とはまさにその時の長沢春子の表情そのものと言えた。


 子安ファームの馬に勝ちたい、叩き潰したい。しかし、肝心のダートで強い馬というのが、現状の長沢春子の元にはいなかった。


「ふん。まあ、せいぜい期待しないで待っておくわ。それに見てなさいよ。私のところにも勝てる馬がいるんだから。これからが本当の勝負よ」

 そう吐き捨てるように言って、彼女は馬主エリアをこっそりと抜け出していた。


 彼女の元には、現在は怪我をしていたが、既にダート路線で実績を残している馬と、来年のクラシック戦線を見据える、将来性の高い、牡の2歳馬がすでに控えていたのだ。


 一方。

 口取り式に参加した、圭介、美里、相馬の三人。


 終わったら、早速、都スポの石田と、アイドルの緒方から取材を受けていた。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」


「8歳の高齢馬、それも牝での勝利。まさに歴史的な一戦になりましたね。ミヤムラジョオウの次のレースは、当然、ダート日本一を決める、フェブラリーステークスでしょうか?」


「はい」

「勝算はありますか?」

 本音を聞き出そうと、無遠慮に聞いてくる石田に、しかし圭介は、冷静に答えを返していた。


「わかりません」

 と。


 正直、彼自身にもわからなかった。確かにミヤムラジョオウは8歳の高齢馬にして、この根岸ステークスを制した。

 相馬や坂本がかつて言ったように、彼女は「大器晩成型」なのだろう。


 しかし、同時に、彼自身は、こうも思っていた。

(いくら彼女でも強力な牡馬が参戦するフェブラリーステークスでは厳しいかも)

 と。


 根岸ステークスは、後の2014年から1着には、「フェブラリーステークスの優先出走権」が与えられることになるのだが、この当時はまだ、「前哨戦」という位置づけだった。


 もちろん、フェブラリーステークスを目指すためのステップアップとしてこのレースを選択する馬主もいたし、同じ東京競馬場開催だ。


 だが、まだ本戦のフェブラリーステークスに比べて、一線級の馬が出走していないことも影響していた。


 つまり、

(いくら根岸ステークスを勝ったからと言って、8歳の牝の彼女がフェブラリーステークスに勝てるかはわからない)

 というのが実情だった。


「そうですか。ただ、恐らくヤマデラックスもフェブラリーステークスに出走するでしょう。これは楽しみな決戦になりそうですね」

 記者の石田にとっては、そんな事情など考慮しない。ただ単に「歴史的なレースになる」という楽しみ、期待値しかないようだった。


 一方、石田に対して、インタビューが終わるのを待ちきれず、まるで割り込むようにマイクを向けてきたのは、フリフリのスカートを履いた、緒方マリヤだった。


「おめでとうございますー。ミヤムラジョオウは凄いですね。彼女は高かったんですか?」

 相変わらずぶりっ子のような、作った笑顔と口調で、いきなり値段の話を始めたから、圭介は苦笑しながらも思い出していた。


 このミヤムラジョオウが子安ファームに引き取られた時のことを。それは今から7年も前。当時、1歳の彼女を初めて参加したセールで入手した。遠い昔にも思えるが、しっかりと覚えていた。何しろ彼女は子安ファームにとって、記念すべき「初めての」馬だったからだ。


「250万円です」

「250万円! 安いですねー。それでこんなに活躍してくれるとは、馬主孝行の馬ですねー」

 大袈裟に驚いてみせた緒方に、圭介も苦笑しながら頷く。


「ええ。とてもいい馬です」

「もし、これでフェブラリーステークスに勝ったら、繁殖牝馬としての株も上がりますね」

 早くも引退後のことを見据えるように話を展開する緒方だったが、馬主の圭介もまたそのことはもちろん頭にあった。


 サラブレッドとは、所詮は「経済動物」だから、レースに勝てば勝つほど「箔」がつくのだ。


 つまり、GⅠに勝った馬と、勝てなかった馬では、それだけで引退後の取引金額にも差が出る。


「がんばって欲しいです」

 一応、明言を避けるように圭介はそれだけを告げていた。


 3週間後に行われる、ダートのGⅠ、フェブラリーステークス。そこでミヤムラジョオウが歴史を創るか、それとも敗れるか。

(負けたら引退かな)

 とも圭介は思っていた。


 何しろ彼女はもう8歳。競走馬では8歳でGⅠを制した馬自体がほとんどいないのだ。上がりがなくなれば、引退となるのは想像にかたくない。


 取材は無事終わったが、圭介は耳元でこっそり緒方マリヤから告げられていた。

「後で喫煙室に来て」

 と。


 仕方がないので、非喫煙者であるにも関わらず、彼はその後、関係者が使える喫煙室に足を向けた。


 そこには、彼女が待っていた。


 すでに紫煙を燻らせながら、ドアを開けて入ってきた彼に目を向ける。

「何だ、一体?」

 不機嫌そうな表情で告げる圭介に、しかし彼女は、開口一番、照れ臭そうに、告げてきた。


「いや、その。一言、お礼を言おうと思って……」

「礼?」


「うん。まあ、一応、私が推してた馬が勝ったことで、私の名前が知れ渡ったというか、助かったというか、まあとにかくそういうこと!」

 何故か最後には怒ったように口を尖らせていた。


「礼なら、がんばった彼女に言え」

「ミヤムラジョオウ? もちろん、言ったわ。さっき会ってきたから」


 詳しく聞くと、いつの間にか、彼女は調教師の関とも仲良くなっていたらしく、特別にミヤムラジョオウに会うことを許されたという。どこか抜け目がない女だと思う圭介だったが、彼女自身が、馬を傷つけるような人間とは思ってはいなかった。


「そうか」

「で、フェブラリーステークスには出るんですか? って関さんに聞いたら、当然、出るって言ってたわ」


「ああ。俺も聞いている」

 一応、圭介自身も、美里を通してだが、関本人の口からそのことを聞いていた。オーナーとしてはもちろん反対する理由はないから、二つ返事でOKしていたが。


「まあ、せいぜいがんばりなさい。東京の、しかもGⅠで、8歳の牝馬の彼女が勝つようなことになったら、まさに歴史的快挙になるからね」

「まあ、勝てれば、の話だがな」


「きっと大丈夫よ」

 根拠のない、そんな彼女の一言に、圭介は苦笑いを浮かべていた。


「それにしても、やっぱ東京の空気、雰囲気はいいわ。これからもこの『』勝ちなさいよ」

「何故、そう東京にこだわる?」


「決まってんじゃん。ここが日本の首都であり、中心だからよ。どんな分野であっても、日本という国は、東京で有名になることが、全国区になる一番の近道だからね」

「一理ある」

 一応、彼女自身、東京にこだわる理由には、その「メジャーになる近道」がそこにあるからだった。


 そして、別れ際、

「それと、私の故郷だからよ」

 初めて、緒方マリヤが東京出身だと明かされていた。正確には東京都武蔵野市。吉祥寺あたりの出らしい。


 もちろん、公式プロフィールの出身地欄にそう書かれていたし、彼女自身の話し方に訛りはなかったのだが、圭介は知らなかった。というか、ほとんど意識していなかった。


 こうして、8歳のミヤムラジョオウは、次のフェブラリーステークスに出走することになった。

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